残った破片と、繋ぎ合わされた破片

穏水

Episode 1 欠陥プログラム

 いつか読んだ小説に書かれていたような気がする。


 私の見えない山の向こう側には、どんな世界が広がっているのだろうか。私の見えない、海の向こう側に世界なんてものがあるのだろうか。私の見ている世界とは全く違っていて、幸せで、苦しみなんてない世界が広がっていたらなんて思う。

 でも、本当はそんな世界なんて無いのかもしれない。だって、実際にこの目で見たことなんてないから。見てみないと、本当なのかなんてわからない。テレビで放送される情報が、全て本当だなんて根拠はどこにあるのだろう。本当だと言う人間が嘘を吐いていない根拠はどこにあるのだろう。


 私はよくこう思う。私を中心に世界が回っていて、私以外の人間は全て意思のないロボットだって。私は、神様のおもちゃなのではないかって。

 私が見える世界は、神様がつくった、スノウドームの中だ。時が止まれば、神様はこのスノウドームを振って、また時を動かす。そして中にいる私の反応を楽しんでいるんだ。

 家畜を育てて、その成長を楽しむような、ただの神様の娯楽にすぎないのだと、時に思う。


 でも、やっぱりそうである根拠もない。だから、この世界が存在する理由なんて、結局何もわからないんだ。バカな私には、何もわからないんだ……。



   ◇



「ごめん。わたし、そういうのはまだ早いかなって……」

「そ、そうだよな……! き、気にしないでくれ! それに……こちらこそごめん、部活の邪魔して」


 まだ明るい放課後の教室の中。ほのかに窓から落ちる日の光が、僕と彼女を照らす。

 彼女は、申し訳の立たない顔で微笑んだ。この気まずい空気を、少しでも和ませてくれようとしているのだ。


「いいのいいの。部活って言っても、マネージャーだから、わたしがいても変わらないし。じゃ、またね。部活行ってくる」


 そう言って彼女は逃げるようにそそくさと教室を出て行った。

 後に残ったのは、外から聞こえてくるサッカー部の熱い掛け声と、たったひとり取り残された僕だけだった。


 僕は近くにある椅子を引いて座った。立つことも、せいぜいだったのだ。そのまま背もたれに僕を預けて、大きく息を吐いた。


 ──初めての失恋だった。

 初めての告白だった。初めてこれだけ勇気を出した。初めて……。


 溢れそうな涙も押しとどめて、僕はひたすらに全てを忘れることに尽くした。だけど、やはり忘れる事なんてできず、腕を丸めて顔を埋めた。

 悔しいというわけではない。悲しいというわけでもない。何より、虚しいという表現が一番合っているような気がした。今まで生きてきた理由がわからなかった。何をしたいとか、そういうのはなかった。ただ彼女を想って今日まで生きてきたのだ。

 だが一言でそんなことは全て崩れ落ちてしまった。断じて君のせいではない。全て僕のせいなのだ。僕が勝手に君の事を想って、勝手に失恋して、勝手に辛くなっているだけなのだから。


 結構長くそうしていたと思う。僕の体がそう伝えていた。だけど、顔をあげて時計を見てみると、長針はあまり移動していなかった。


「やっと起きたのかい」


 後ろから声がした。聞き馴染みのある声だ。


「なんだよ、いたのなら言ってくれよ、透一とういち

「ああ、すまない」


 透一は何の気なしに謝る。透一は僕の幼馴染だ。小中高と同じ学校だからか、ずっと一緒にいるし、ほとんど家族みたいなものだ。悩み事もよく聞いてもらっていたこともある。


「それで……どこから聞いていたんだ?」

「最初から」

「そっか……」


 僕も、透一に彼女の事が好きだというのは伝えたことがある。だからか、あまり嫌な気分はしなかった。それより、透一がいてくれたことに少しだけ感謝しているのかもしれない。

 一人で、こうしているよりかは、圧倒的に楽だった。


「悪いとこ見せてしまったな。ごめん。でも、透一がいてくれて助かったよ。ひとりきりでは、どうなるかわからなかった」


 僕が透一に向けてそう言うと、透一は少し黙ったあと口を開いた。


「こちらこそ悪かったね。ぼくはそういうのに疎くて」


 透一が言った言葉に、僕は少し呆れ気味に思った。透一自身、気付いているのかはさだかでないのだが、実際透一は女子から人気がある。誰もが透一に目を惹く、とか学校のアイドルだとかではないが、少なくとも透一の話で嫌がる女子がいないことは確かだ。それに透一のことが気になっている女子がいるという情報も聞いたことがないわけでもない。

 そんな透一が自分を恋愛に疎いと言っているものだから、僕は一体どれほど気にもとめられていないのかがわかる。


「それにしても」と僕は少しして口を開いた。「こんなことでへこたれているようでは、よくないよな……」


 いまだに拭いきれない感情を去るように、頭の中から先程のことを忘れようとした。だが、そう簡単に忘れられるものでもなかった。失恋は、ひどく、心の底に積もるものであった。

 どうしようもできない僕を見ても、透一は一切動揺せずに、黙って僕を見ていた。何か、言ってくれればいいのに、と少なからず僕は思ってしまう。


「透一、おまえ変わったよな。昔……っていうほど昔ではないけど、最近までもっと元気だったイメージがあるんだ。最近は、元気がないというか……感情がどこか欠けている、ようにも見える」


 そこまで言って、僕は考えすぎかと口を閉ざした。人は、そう簡単に変われるものではない。僕がその一人でもあるのだし。透一は前からよく気が抜けているときもある。

 それにこんな状態の僕に、なんて声をかければよいのか、僕自身よくわからない。今日の僕は、どうかしているのかもしれない。


朔人さくと、君は本当に素晴らしい」

「なにがだよ」


 いきなり口を開けば、意味の分からないことを言ってきた。僕は少し当惑して透一の目を見た。少し残念がっているような目であり、同時に笑っているような目でもあった。

 このような目をする透一を僕は初めて見た。だけど今思い出してみると、透一がどのような目をしていたかもあいまいに思えてくる。自身の記憶が、段々と欠けていくことだけがわかった。


「恋は、恐ろしく辛いものだ」


 透一が言うには珍しい言葉だった。僕は不思議に思う。一体彼は、何を考えているのか。


「そして同時に、恋は最高に楽しいものでもある」


 何が言いたいのか、理解できない。それに透一らしくないことを言う。僕に向けて言っているのであったとして、どうであれ僕に向けて言うべき言葉ではないことは確かだ。


「なんだか今日調子がおかしいよ透一。いくら僕が落ち込んでいるとしても、わけのわからないことを言わないでくれ。僕までおかしくなる」

「すまない。少し取り乱してしまったようだね。気を付けるよ」


 僕の言葉に、透一は反省するかのように返事をした。そして少し俯いて、窓の外に目を向けた。何か物憂げな表情を浮かべる透一を、僕は不思議に眺める。透一もこのような顔をするんだなと思う。

 いつもはこのような表情をしていただろうか。明るい表情を浮かべるときもあれば、能天気な表情を浮かべていたような気もする。はっきりとは思い出せないが、僕は初めてこのような表情を見たと言い切れる。


「君にとって、この世界は生き辛いかい?」


 透一の事を思い出していると、突然彼はまたわけのわからないことを言ってきた。先程の返事は一体何だったのだろうか。しかし、案外透一の質問は僕を考えさせるものであった。上手く、すぐに言葉が出てこない。僕みたいに、中途半端に生きている人間に、この質問は適していないような気がする。


「難しい質問だけど、答えるのであれば、少し生き辛いかもしれない……」

「なんでそう思うんだい?」

「だって……」


 言葉が詰まる。色々なことが頭の中をめぐる。記憶の中を埋めるのは、楽しい毎日ではなく、全くその逆の日々だった。


「趣味もろくにできず勉強に明け暮れる日々。毎日心配しなくちゃならない大学受験。親にこれ以上迷惑はかけられないし、何より卒業したあとの就職だって……。人生の大半は先を心配して生きているもんなんだ。今を生きるなんて僕には無理だよ。それに、いつ死ぬかもわからないこの不安定の世の中を、誰が満足して暮らしてるのさ。いたら教えてほしいくらいだよ」


 言ってしまうとキリがないのではないのかと思わせるほどの、辛い世の中しか僕の頭の中にはなかった。毎日報道される殺人や自殺といった事件事故、一生自分がこの先どうなるのだろうかという不安を背負って、人生を歩んでいるようなもの。

 人の動力は、不安という一種の感情なのかもしれない。将来が不安だから、勉強する。良い企業に務められるか不安だから、良い大学に行く。食べていけるか、生きていけるか、不安だから、働いて生活する。不安が、生きるための動力と言って過言ではないのだろうか。


 失恋のせいかもあって、僕はかなり精神的に疲れていた。ネガティブな感情しか、今は出てこない。


「やっぱり、欠陥プログラムだったか……。かわいそうに」


 憐れむような目で透一はそう言った。


「欠陥プログラム……?」

「いや、なんでもない。いつか君にもわかる時が来るよ」


 それだけ言って透一は教室を出ていった。

 結局、透一が何を言いたかったのかは、謎のままであった。


「意味わかんないよ……」

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