サニー・エンジェル・ノーパラノイア
伴 冰
サニー・エンジェル・ノーパラノイア
ここはアメリカ、ウィスコンシン州、ラシーン。
ダイナーのただ独りの店員は、股の下に挿れられたデニムの脚に押し上げられ、カウンターと客の隙間に座るかたちになっていた。
■
きいてくれよ、紫陽花!
常連の男は、その日も人差し指を立てて泣きながらカウンターの隅に座った。
また振られた。前回の失敗を生かし、己の悪かった振る舞いはなるべく正し、運に見放されないような行動をしていたのに。前回と同じ期間しか持たなかった。
店員は、ビールの一本を取り出し、彼の横にコトリと置く。
何本か冷やしてある瓶ビールは彼のためのもので、結果的に次々と開けられていき、
王冠が3つ貯まった。
鼻声で呂律の回らなくなった男のぐしゃりとなった帽子を外してあげようとカウンターから出る。
前々回、泣き喚いて折れた帽子をバツが悪そうに抱えて帰っていったのだ。
巻かれた管を必死に聞き取りつつ、帽子に手をかけた。
わあん、とまた泣き出した男の爪が偶然、頬に引っかかる。
「っ、」
少しの驚きと、ひりとした痛みが顔に走った。
持っていた手鏡で咄嗟に確認する。薄ら細い赤い線は、徐々に細かく滲んでいき、長い血が白い肌に流れはじめた。
苦笑いしつつ、近くにあったペーパーナプキンで傷を抑える。すぐに寝息をたてはじめた問題児同然の客の隣に浅く腰かけ、起きるのを待つことにした。一応、きいてくれ、と言われていたので。扉が開く気配もない。
暫く、
──店員さん。
窓際に座っていた客に声をかけられる。
血が止まったことを確認し、椅子から立ち上がる。レッドとミントの派手なストライプのスカートに包まれた小ぶりな尻が浮いて、丸椅子が音をたてる。
途中で、コーヒーひとつ、と注文を追加され、ケトルを手にとった。
「お待たせいたしました」
邪魔にならないように、注文の品を机に置く。
客は、華奢な手には余る大きさの手帳を読んでいた。スクラップになっていて、所々記事がはみ出ている。
──彼女も常連客だが、頭からつま先までまじまじと視界に収めたことはこれまでなかった。
あんなにはっきりと呼ばれたのははじめてだったから。
何か別の用件があるのではないかと待ったが、手帳から目を離さない。
紫陽花は笑いかけてその場を立ち去る。
名残惜しそうに腰のリボンが揺れた。本人にそんな気は全くないのに。
「5年前に立てこもり事件があったのってこの辺りであってますか?」
「っ、ああ!」
見られている、と感じたのと話しかけられたのは同時だった。驚いて素っ頓狂な声を出してしまった。
観光目的の外からの来客から似たようなことを聞かれることはあって、皆が口を揃えて『釣り人集団殺人事件』があったのはこの辺りか、あの沼地のその小屋か、と訊いてくる。
他に奇抜な事件もこの辺りには無い。釣り人集団殺人事件において、立てこもりの果てに被害者の全員が殺害されたが、その前後の不可解さと悲惨さが一世を風靡した原因で、立てこもり自体には焦点はあたっていなかった。
被害者のいる事件に言及しておいて変な声をあげてしまったことへの反省、立てこもり事件ってあのことであってるよな…と言う困惑。
紫陽花はトレイを持ったまま、客の次の言葉を待った。
最もはみ出しているページが見えてしまう。
特集記事だ。数ヶ月前にウィスコンシンに現れたエイリアンについて書かれている。劇画調の人間たちと生物学的に描かれた異星人の絵柄の乖離が酷かった。エイリアンの肌を際立たせるためにグリーンの印刷紙だった。
「今年の3月、店に来たエイリアンの注文を受けたのは店員さん?」
「ああ。私だ。でも注文は受けられていないんだ。相手の話している言葉が解らなくて…ジェスチャーで何とか、と思ったんだが、疲れ果てた感じで帰っていってしまった」
「へえ、UFOで帰ったのかな」
不思議そうに笑みを浮かべ、上機嫌な口振だった。
コーヒーを口に含む。薄い煙が彼女の黒髪を淡い色に染め上げた。男子校に通うティーンのような髪型がきらきらとして見える。
「ところで、店員さんは先週、なにか液体をかけられていたね。薄い黄色の。」
「ん?ああ、そうだな」
「アンモニアの臭いはしなかったけれど、あの後すぐにシャワーを浴びましたか?」
ぱっちりと目が合う。
その時のことを思い出し、思わず紫陽花は指先で髪を触った。
ダイナーから歓迎の言葉をかけるより早く、はじめての客は何かを捲し立てた。本来の色を失った白目が辺りをぐるぐると見遣った後、店員を見つける。
この時点で、客がターゲットにされなくて良かったと感じた。勿論、紫陽花の方は相手に見覚えは無い。
ねめつけられ、罵倒され、近くにあったガムボールの小さなガチャガチャを投げつけられた。
どうしようか、と悩みつつ見上げ続ける頭に上から液体がかけられる。さすがに驚いて息を呑んだ。
臭くもないし、痛くもない。
事故のように、竜巻のように、相手は去っていった。ぽた、と髪から垂れるものを再び嗅ぐが、特別臭いはしなかった。
制服の帽子には染みついてしまい、硬い靴先のそれはやけにとろりとしていたのを思い出す。
苦笑いをして、すまなかった、と告げる。
「におわないから大丈夫かな、と思ったんだ。でも制服、ぐちゃぐちゃだったな。そこまで気が回らなかった」
「……」
客の前でする格好ではなかった。気が利かない。と、紫陽花はわざと体勢を崩し、話が重くならないようにする。
なにか、質問攻めしてくるこの相手の前だと、リラックスしてしまえる気がする。
「本来は病院に行くべきことですよ」
「それもそうだ。あ、あの後すぐにシャワーは浴びたよ。その日はお客様はもう来なそうだったから」
その後、カウンターで潰れていた常連がふにゃふにゃと起き始め、そっちに手が取られた。
お会計、置いておくね、と声をかけられ、小さく手を振られる。釣り銭になりそうな紙幣と硬貨を握り締め、急いで卓に向かう。
ちょうどの金額が置かれていた。
彼女とこのテーブルで話していたことは、紫陽花にとって些細なことなのに何故か余韻を感じ、窓を見つめる。
乳白色の双眸を思い出していた。
■
話している。
ストローを開けずに、片手でコーラのコップを傾げる彼女は指先を卓上で動かした。
つ、つ、と彼等にしか見えない地図があるように、何度か薄い笑みを浮かべるがすぐに潜める。
会話相手を──紫陽花が認識したのは、窓ガラス越しだった。
いつもありがとう、といつもの通り注文を渡し、にこやかに笑われる。
その場を去ろうとした瞬間、違和感を感じゆっくりと振り向いた。窓に何かが映っている。
「……うん?」
窓に何か、お客さんともうひとり…、と見間違いと思う前に、実際にそこに漂っていることを認識する。
コースターと同じサイズに折られた紙ナプキンの上に、ふわふわと浮いている。
形容しがたい見た目だ。形容しがたい見た目だが、一目見た瞬間、
(タピオカドリンクを好んで飲みそうだ)
と感じる。
今までも相席をしていたのか。二人で 店に来ていたのか。だとしたら申し訳ない。
紫陽花は振り返る。
「たいへん失礼いたしました。ご注文は何になさいますか?」
唐突に話しかけられた妖精のようなそれは、静かに動きを止めた。
紙ナプキンの上だけ時間が止まってしまったようだった。
知らない相手に突然話しかけられた緊張や恐怖、機嫌を損ねた故の無視、そのどれでもない。本当に、何の感情の機微もなく、動きを止めてしまった。
驚いてしまって、お客様に触れてはいけないとわかっているのに、紫陽花は指先を伸ばしかけ堪えるようにぎゅっと結んだ。
「こ…」
「気にしなくていいよ。きっと、少し驚いただけだ」
顔に対して大きめな瞳で紫陽花を見上げてくる。瞬きをひとつする。何が理由かわからないが、良い気分のようだった。
でも、と彼女は続ける。
「驚きました。見えるようになるんですね」
「……」
こちらの方は、というよりは、そういうものなのか、という納得が早かった。
先程までの話し相手ということを忘れてしまうぐらい、止まった相手に対して客は何もしなかった。
コップの結露が指に垂れる。
「それよりこちらの方が重要だ。
店員さん、あなたの名前、教えてほしいな。僕、この店気に入ってしまった」
「あ、ああ。私は紫陽花だ」
「紫陽花……お母上は日本の方?」
「いや、母親は中国だな。父親の方が、そうだ」
唐突に名前を聞かれ、何故かルーツまで明かしてしまった。
「日本か。いいところだよね。ここと同じぐらい素敵なところだ」
その言葉に、そう思うよ、と頷いて今度はこちらからも名を聞きたくなる。
「なあ…」
「ところで紫陽花さんが悩んでたのは、新作メニューについてとかかな」
今日の注文をはじめて受けた時のように、ふ、と顔をあげる。
メニュー表の裏でくいくいとメモを取っていたが、そんなにわかりやすかったか。
お客様に頼るのも、と思ったが、注文を選ぶのは彼等であるし、第一、話して欲しいと考えているようだった。
今度はこちらが手帳を見せることになった。
紫陽花は別のページにある切り抜きを持ってきて、今見せているページにクリップで留める。
食べ物か、と呟いて、本腰を入れて客は写真を見比べる。ぱらぱらと別のページも捲ってレシピを確認している。
そして、怪訝な顔をしてページを止める。
「新規メニュー候補にあって驚いたよ。やっぱり、これ、なかったんだな」
ぴ、と三角形の淡い三角形のケーキを指さす。なんだっけ…キルシュ……キルシュヴァッサーのケーキ、とごにゃっと言う。
ツーガー・キルシュトルテ。チェリーのリキュールを用いた、ナッツの入ったケーキ。幼い舌が好むナッツの舌触りに、大人の深い酒の香りがまとわりつく。癖になる味わいのケーキだ。
そして、メジャーでもある。
「知ってると思うけれど、ヨーロッパではどこにでもある。なら、まずはこれを置くのがいいんじゃないかな」
僕が決められるようなことでもなかった。
「でも、あなたが今まで何で置いていなかったのかが気になるな」
薄くなったコーラの中で、形を成していない氷が揺れる。
どうせ、こだわりなんてないのだろうと見透かされている。全く笑っていない。む、と引き結んだ口と精悍な顔つきに気圧される。
だが、その手は産毛の生えた葉に触れるように、柔らかく、紫陽花の書いたさくらんぼのケーキのページを撫でていた。
「……その、だな」
「うん」
「よく、知らないから、私はそれを美味しく作れない気がするんだ…」
もじ、と紫陽花は膝を擦り合わせる。リボンが揺れた。
客観的に情けない理由なのに、口に出すと照れてしまう、なぜか。
笑みを浮かべながら、誤解されても仕方ないなと思った。
ツーガー・キルシュトルテの生まれた土地、生まれた時間、はじめて食べた時の気持ち、食べてきた人の気持ち。そういうものが今の自分には足りない。
自覚していて、今の今までメニューの盤上にあがらなかった。
罵倒されても仕方ないな、とぼんやりと考える紫陽花をよそに、常連客はぶっきらぼうに声を投げた。
「それなら、スイスに行けばいい。その様子だとまだ行ったことはないだろ」
──フットワーク、別に重くなかったでしょう。
胸ポケットから小型ファイルを出し、何枚か抜き取って、卓上に並べた。
いかにもな、そして、息を呑むような景色が写真に広がっていた。
真っ白な山を撮った一枚一枚の写真が、並べると連なって見える。
チーズ、花、青い空、象徴するものが卓上にできたアルプス山脈の麓に置かれる。十五枚程の写真だった。
膝を折って、身体を傾けながらそれを見る。細い黒髪が揺れる。
どうして、比較的フットワークが軽い方だと知っているのだろうか。
不思議に思うが、出てきた科白は全く関係のないことだった。
「スイスの生まれなのか?」
「そういうのではないよ」
「そうなのか。すごいな。すごい。綺麗だ。
きっと、一緒に行ったら楽しい」
たん、たん、と小さく机を叩いていた指が止まる。大きな目を見開いて、紫陽花を驚愕の表情で見つめた。
何か、変なことを言っただろうか。感じたことをそのまま言っただけだけれと、一緒に行く、というのは距離感がちょっと恥ずかしかったかもしれない。
あ、いや、と両手を静止のポーズで何となく止める。
特に、相手はそれを気にしていない。
ふい、とそっぽを向き、頬杖をつく。耳があかく染まっていた。
「それか、キルシュヴァッサーなら、別に、ドイツでもいい。
……いや、やっぱスイスだな。スイス。うん」
独り言のようにごにゃごにゃまた言い、ごちゃごちゃとスイスの写真をかたしてしまう。
潤んだ瞳が、睨め付けるように伏せている。
独特な瞳の乳白色は、遠い国の古い硬貨を浸した、曖昧で濁った水の色だった。
紫陽花は、彼女の頬が真っ赤に染まっている理由を知らない。
■
「うん、ちょうどだ。ありがとう」
「おう。いつも悪いな……」
さすがに苦笑するが、彼にしては早い方だと思う。
一ヶ月前にツケとしていた代金を常連の男が払いに来た。
このままいつもの通りに飲んでいくと思い、ビールでいいか、と訊ねると、あー、コーヒー……いややっぱいいや!と断られる。
「今日の夜、デートなんだ。タ、タコスが上手い店で。一服していこうかと思ったけど、やっぱ緊張するから、もっと準備していく、いってくる」
「!おめでとう」
「ここでたくさん飲んだらちびっちまいそうでさ」
見送りに移行し、紫陽花はツケる際にもらった連絡先を針から外し丸めてゴミ箱に捨てる。
楽しいデートになるといいな、とひらりと手を振った。
午後を過ぎて。まだ陽の色に西日は混ざらない。
一度レジを締めてしまおうか。客足も相変わらず少ないし、早めの夕飯を…いや、早すぎるか。
顎に指をあてて考え始めた紫陽花は、ふと顔をあげる。気になることが二つ見つかった。
一つは、最近自分と会話をしてくれるもう一人の常連客のことだ。いつもの妖精もいて、いつもの窓辺にいる。
まだ注文もしていないし、一言も話していない。
彼女はいつも静かに来店するから、気にすることはない気もする。
しかし、青年然としたはっきりとした横顔は冷たい現代彫刻のようだった。誰のこともその瞳には映っていない。
もう一つは、ずる、とトレイを思わず落としそうになった。
扉の横にあるほぼ使われていないフックに帽子がかかっている。
いつもは手元に置いているのに、それでぐしゃっと折って悲しそうにしているのに。
浮かれている常連客は、格好をつけて普段はしないことをして、帽子をおいていってしまったのだ。
今からなら走って追いかけたら間に合うだろうか。暗くなってきたら、先に回って、タコスが美味しい店の店員に預けてしまってもいい。
心理的に不安定になってデートが失敗だなんてあって欲しくない。
同じぐらい、まだ名前が聞けていない座ったままの客の事も紫陽花は気になる。
傍に近寄る。鮮やかな制服の色が照らされてこの店で一番匂い立つ色をしていた。
横目で見つめてくる。
「いらっしゃいませ。今日も来てくれてありがとう。注文はしないのか?」
「紫陽花さん。うん、ちょっとね。頼み忘れていた。お勧めはありますか」
「そうだな……ミルクシェイクとかどうだろう」
けっこう大きいけれど、と手でサイズ感を伝える。
ゆっくりと瞬きをして、メニュー表をめくる。色褪せた5ドルのシェイクだ。
「やめとくよ。でも、ありがとう」
あ、作り笑いを、された。
「ミルクシェイクを今飲んだら、上手くいかなそう。コーヒーひとつで」
わかった、と頷き、注文を遂げるため帽子の件は後回しにする。
時間のかからないメニューなのに、コポコポと鳴るお湯の音がやけに長い。不思議な常連に対する疑問が増えて、向き合う時間が勝手に増えて、紫陽花はできる限り考えないようにつとめた。
いつもの通りにコーヒーは出来て、彼女の元に運んだ。カウンターを拭いている時、扉が開く。
やけに今日はお客様が来る。帽子、もしかしたら間に合わないだろうか。
いらっしゃいませ、と笑顔を向けた紫陽花の視界が、反転した。
熱い。
頭への衝撃で一瞬景色が真っ白になる。叩きつけられた耳が痛みと熱を持つ。拭いたばかりのアルコールが鼻をつく。
客ではなかった。求めているものは接客でも食事でもビールでもなかった。
扉を開けて入ってきた見知らぬ男。
この店のただ独りの店員をカウンターに叩きつけ、背中に銃口を押しつける。
また、罵詈雑言を吐かれる。
銃を直接押しつけられるのははじめてだった。肺が浮いて少しだけ苦しい。
ナイフが腹や股に沿って動いた時よりも、怖くなかった。見えない方が怖くないらしい。
早口で、Fワードが多くて、全文聞き取れていないまま続行される。
しかし、言いたいことは金を寄越せ、ぐらいだった。
男が入って来た時、紫陽花はレジの前に居なかった。
だから、そのままカウンターを飛び越えるなり、手だけ伸ばすなりして、持っていってしまえば良かったのに。
危害を加えるのが、こういう場面の約束なのだろうか。そう考えたらなんだかとても自然な気がした。
(申し訳ないな)
スカートが男の分厚いジャケットにひっかかって半分捲れている。ペチコートが晒される。
見苦しくて、苦しい。
(あの人たちに、不快な思いをさせている)
紫陽花から全く見えない位置にいる件の人は、──くい、と左掌を真横に倒した。
激しい逆光。彼女の表情は、この店のどの位置にいても全く見えないものであった。
翼の化石のような信号。
バチャッと音がする。
聞き取ろうと耳を澄ませていた叫びが、途中から長い長い沈黙になったことに紫陽花は気づかなかった。
「……………は、っ、……」
「……………………………」
「え…、っえ、な…………」
意思を失った、厳密に言えば脳を失った腕がゆっくりと落ちて捲れあがったスカートを元に戻してくれる。
武装した警察官らが数人押し入ってきた。軽く会釈をし、頭を撃ち抜かれた死体をシートで包む。キャタピラーのようになった。
計画なのか、腕が立つのか。
彼は覆いかぶさっていたのに、脳の破片や体液はカウンターと床にぶちまけられて、華奢な店員の身体には一切かかっていない。
飛び散ったそれらもじきに掃除される。
"終えた"警察官はまた軽く会釈をし、担いで、この店を出ていった。
ミルクシェイクを頼まなかったあの常連客に、次々とお辞儀をする。ぶわんと古い扉が鳴った。
紫陽花はその場から動けない。けれど、無意識に強いストレスで身体を楽な体勢に変える。上体を起こし、カウンターに背中を預ける。
視線は真横から外せない。何にも知らない男が、射殺された。
耳の奥がごうごうと鳴る。身体の中の音が聴こえている。
「近づいてもいいかな」
立ち上がって紫陽花を見据えた。空に、窓に、暗雲が立ち込めている。長い脚が侵略者のようだった。
顎を小さく動かしたのを見逃さずに、隣ではなく正面にゆっくりと近づいてくる。
もうわかっている。彼女がきっと命じたのだろう。そうでなきゃ心配そうに覗き見るはずだ。話していて、優しい人と思っていた。
客なのに、店員を助けてくれた。それなのに、なんでこんな科白が出てしまうのか自分で自分が理解できなかった。
「なんで……」
「……」
「なんで、撃ったんだ…なんでそんな……殺さなくても、よかった………」
紫陽花の言葉を聞いて、一気に距離を詰めた。
膝をスカートの間に無理矢理割り込ませ、左手を肩甲骨に添わせる。カウンターと彼女の間に挟み込まれ、心臓がひやりとした。
手をどこに置けばいいのかわからなくなって、支えようと台に手をつくが、小指が囲うように置かれた右手に触れてしまって、紫陽花は思わず身を捩る。
「なんで?なぜって、こちらが聞きたいんですよ」
背中に置かれた手が、銃を押しつけられた時よりも心臓を冷たくする。
「どうして何もかも受け入れる」
「…………」
「優しいから、興味が無いのか?抵抗が怖いのか?」
「………わからないよ」
本心だった。
彼女が紫陽花に教えを乞うように、紫陽花もまた彼女の心の動きがわからなかった。
だから向き合わなくてはいけないのに何故かぼんやりと壁のコーヒーの染みを眺めていた。
綺麗ではなかった。
「……ぼろぼろのところに、みんな来てくれる。それだけで、構わないんだ。構わないんだよ…………」
じゃあ、この店を出たら、自分は何に対しても抵抗するのだろうか。それは嘘だ。元々この性根だった。
片手を痛いぐらいに掴まれる。
「君を僕の物にしたい」
怒りは消えていた。元々、そんなものを彼女は紫陽花に向けていなかったのかも知れない。
その声色に慈愛、心配、欲、焦りが滲んでいて、何故だか安心をしてしまった。これも全部掌の上かも知れない。でも、どうしたって慣れていたから。
彼女の瞳を真正面から見られたのは、自分がはじめてのように感じてしまった。驕れない。
掴まれた手に、車のキーが握らされた。え、と驚く。
「彼の連絡先とか住所、知ってるんだろ」
「あ、ああ」
ゴミ箱から丸めたメモを出してちまちまと開いた。
「車ならきっと間に合うだろ。もうすぐ雨が降る。残念だけどオープンカーなんだ。だから飛ばしてくれ」
「あ、ありがとう。えっと、どこに返せばいいんだ」
「…………また、すぐ来る」
不機嫌そうに睨まれる。耳が赤い。
扉にかけた手がもう行きたいと離れていない。
はじめて、欲目を自覚して、エゴで声をかけた。ずっと知りたかった。
「待ってくれ!名前、教えて欲しい……駄目か……?」
「…………」
彼女は振り返って、紫陽花を裂くように笑って言い放った。瞳には黒く遠い雷が映ってるかのようで白く濁ったままだ。
日本語のように、揶揄うように、
ロ、オ、レ、ン、ソ、と。
■
ここはアメリカ、ウィスコンシン州、ラシーン。
ローレンソは額の汗に貼りついた砂を落とす。その顔は真っ赤に染まっていた。
さすがに恥ずかしい。紫陽花さんは間に合っただろうか。喜んで、くれたのだろうか。
ふとした瞬間に笑い出してしまいそうになる。そういえば、と隣を行くものを指摘する。
「そういえば、紫陽花さんに話しかけられた時に静止していたでしょう。僕に怒られるのが嫌だった?」
素直に妖精は頷いた。
主が好いている相手に、余計なことをしたくない。何の影響も与えたくない。
素直だなー、と呟く。二人はいつからか一本道となった長い道を歩き続けた。暗い暗い森の中だ。
「そうだ。次に教会を作る場所決めたよ。やっぱスイスにしよう。水も綺麗だし、乳製品が美味しいし、いい所しかないな。元々候補にあってよかったな……」
胸ポケットから取り出した万年筆を、ローレンソはおもむろに自らの掌に突き刺した。
陽の光の入らない木々の隙間に血潮を翳す。
いつもより緩やかに血が流れる。肘の間に溜まってぐにゃりと曲がり始める、そのまま教会の扉を開けた。
何度も同じことをして、真っ赤な手形の痕がいくつもついてしまっている。
薄暗い通路だ。通り道に、髪の毛のない人間の頭部がかしづいている。
ローレンソの血は流れ、腋を通り、反対の掌まで届いた。ぺた、ぺたと望まれる通りに撫でる。身を揺らし、声をあげないように祈り、感謝の言葉を告げてくる。
目的はここには無い。道を通って、祈りを捧げる場にローレンソと妖精はついた。
「僕は彼らを救う。彼らは、僕に救われたがっているから」
扉は閉じられる。
「でも、僕が救われるなら紫陽花さんがいい」
サニー・エンジェル・ノーパラノイア 伴 冰 @ban_hho
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