恋愛信号管理局の衰退と再興

山田古形

恋愛信号管理局の衰退と再興


『恋愛信号管理局 局長 蒲生璃名がもうりな

 クローゼットの奥底にある収納ボックスの奥底に押し込まれた角型ポーチの更に奥底、奥底に奥底を重ねた深奥に、ひび割れたプラスチックのネームプレートが今も眠っている。

 市販の材料と不器用な手先を組み合わせて作ったあのプレートは、私にとって希望に満ちた青春の象徴であり、不毛に満ちた迷走の遺物でもあった。

 恋愛信号管理局は三年前の四月、当時高校一年生だった私と三人の友人によって発足し、翌年の三月に大して惜しまれることなく解散した。

 巷間を飛び交う恋愛感情の通信仕様プロトコルをつぶさに読み解き、それらの信号を高精度かつ高効率に自らへ誘導する技術体系を確立することが、組織の活動目的だった。この遠大な学究的態度については、より端的に「モテたい」と言い換えることもできる。

 局員たちは日夜、好意を呼び込むファッションやメイクを調査研究し、流行のデートスポットを視察して緻密なシミュレーションを行い、熱愛カップルの動画を視聴して羨望のあまり苦悶の形相を浮かべ、理想の恋人像やデートシチュエーションなどの妄想を語り合っては現実との落差に打ち震えた。

 組織活動を通じて私たちはひたすら恋愛の外周を走り続けた。管理局が掲げた受動的恋愛戦略は特に功を奏することもなく、楽しくも虚しい日々が長らく過ぎていった。

 発足から一年近く経った三月の半ば、終局が突然訪れた。私以外の局員が示し合わせたように特定の相手への告白を敢行し、信じがたいことに三人とも成功した。取り残された私は一人きりで塩辛い熱涙を流し、愛用のハンドタオルを水浸しにした。

 あの一斉告白成功事件が、管理局の活動が実を結んだ成果なのか、それとも管理局の方針を放り捨てたことで開けた活路なのか、私には判断がつかない。私に分かるのは、自分自身については以降の三年間、管理局時代に得た知識や技術が実際の恋愛を引き寄せたためしはないという涙ぐましい事実だけだ。

 清々しいまでに無益だった活動の数々を振り返ると、憤懣と後悔で自室の床をのたうち回りたくなるので、私は当時の記憶を意識の深奥に押しやりなるべく思い出さないようにしてきた。

 あの日彼女の手によって恋愛信号管理局が燦然と再興を遂げるまでは、少なくともずっとそうだった。


 高辻観苑たかつじみおんが「蓮会湖はすえこの味がする」と言った時、全く腹立たしいことに私の頬は緩んだ。

 陽射しにきらめく湖面を望むテラス席に座り、高辻はゆったりした手つきでハーブティーを飲んでいた。口元とソーサーの間でティーカップを行き来させる所作に穏やかな気品が漂っていて、友人から飲食中の様子を「飢えた齧歯類」と称される私には羨ましく妬ましい。つややかなストレートの長髪をそよぐ風に揺らし、開きかけた蕾のように柔らかい微笑を浮かべる高辻の端正な横顔を、少し離れたテーブルでドライレモンを齧りながら酸っぱい気分で眺めていたのが、先ほどまでの私の状態だった。

 大学のアウトドアサークルの活動で、私たちは麻琴先輩が運転するミニバンに乗り、六人連れで蓮会湖近くの山中にあるキャンプ場へ向かっていた。今いる喫茶店からは目と鼻の先にあり、午前から続いた旅程がもう間もなく終わろうとしている。

 出発地からキャンプ場まで車で二時間ほどの距離だったけれど、参加者たちは事あるごとに寄り道をしたがり、何より運転手の麻琴先輩が率先して道草を食った。遅々として進まない鈍重ドライブの果て、山を背に広がる蓮会湖のほとりにようやく辿り着いた時、私たちは水面に浮かぶ無数の影を目にした。

カモだ! あんなに沢山泳いでる」

 麻琴先輩の歓呼を皮切りに、車内はカモダカモダと鴨騒ぎになった。私たちはコインパーキングに車を停めて湖畔へ駆け出し、驚かさないよう距離を置いて鴨の群れへ熱視線を送った。けれど旅に浮かれた一行の思惑なんてどこ吹く風、鴨たちは悠然と水辺の草陰へ泳ぎ去り、哀れな人間どもはしょんぼりと車に戻るほかなかった。

 ……という道中の一幕があり、そして高辻は今カモミールのハーブティーを飲んでいる。つまり高辻が言った「蓮会湖の味」は「鴨見入るカモミール」というしょうもないダジャレに過ぎず、そんな発言に多少なりと笑みを浮かべてしまったのは不本意なことだった。

 とはいえ内容自体はともかく、上品でにこやかな佇まいの高辻が、何気ない調子でしれっとくだらない一言を放つ光景に、ちぐはぐな面白味を感じたのは確かだ。だから笑ったのは私一人の不覚ではなく、きっと誰もが同じ穴の狢に違いない。

 サークルの面々が二人ずつ分かれて座る三つのテーブルに、私は素早く視線を巡らせた。

 私の正面に座る麻琴先輩は、イチゴとマンゴーがギチギチに詰まった巨大なパフェを目を輝かせて食べている。隣のテーブルの幸崎は同席する久米川に熱心に話しかけ、久米川は隅の丸椅子に飾られたギターを弾くイルカのぬいぐるみを無表情で眺めている。

 逆側の隣のテーブルでは、変わらず高辻が優美な手つきでティーカップを傾けている。その向かい側に座る坂辺先輩が、人好きのする朗らかな笑顔を浮かべながら口を開いた。

「蓮会湖の味かあ。なんだか想像がつかないけど、壮大で素敵な表現だね」

 危うく椅子から滑り落ちてテラスの床に私の愛くるしいヒジが激突するところだった。

 坂辺先輩の表情や口ぶりに冗談の気配は感じられない。坂辺先輩は素直に物を言う人柄だから、多分本気で褒めているのだろう。笑うとか笑わないとかの以前に言葉の意図が伝わっていない。伝わらなくても一向に差し支えない意図ではあるけれど。

 高辻にも誤解を正そうとする素振りはなく、澄ました顔でハーブクッキーに手を伸ばしている。

 同族の発見に失敗し、私は孤独な貉だった。腹いせにハーブティーを勢いよく飲み、勢いよくむせた。「落ち着いて飲みな」と麻琴先輩がけらけら笑う。先輩の頬は詰め込んだフルーツで丸々と膨れていて、「落ち着いて食べてください」と私は呆れた。

「ねえ璃名、あの二人どう思う」

 驚異的な速度で頬の中身を片づけてから、麻琴先輩が声を潜めて言った。視線の先には「おいしいお茶だなあ」と嬉しそうに目尻を下げる坂辺先輩と、何も言わず柔和な微笑みを湛える高辻がいる。「蓮会湖の味」の件はともかくとして、二人を取り巻く空間はのどかな幸福の気配に満ちて美しく、私は羨望と憤懣に駆られてドライレモンを噛みちぎった。

 入学直後のサークル説明会で出会って以来、私は坂辺先輩へ淡い想いを抱いている。正確には多方面に抱く淡い想いのうちの一つで、例えば向こうの久米川もなかなか有力な淡い想いの対象だけれど、坂辺先輩に対するものが現在最も濃い淡い想いであることは間違いない。

 必然今回のキャンプ旅行にあたり、私は坂辺先輩との心理的距離の短縮を目論んでいた。けれど車中での先輩の隣席は高辻に獲られ、途中で寄ったオルゴール館のペア向けフォトスポットの相手も高辻に獲られ、湖で乗った二人乗りボートの同乗も高辻に獲られ、そしてこの喫茶店の同席も高辻に獲られ、小さじ一杯ほどの成果も得られず地団駄を踏むばかりの半日だった。

 半日分の鬱屈をにじませ、私は「どうも思いませんけど」と冷ややかに言った。

「よく見てよ、なんかいい雰囲気じゃん。けっこうお似合いかもしんないねぇ」

 麻琴先輩は他人の恋路と有機化学を愛してやまず、目についた人間関係から手当たり次第に恋の化学反応式を導き出そうとする。

「うちの見立てだとさぁ、気が合う組み合わせだと思うんだよね。二人ともおっとりしてるし、天然系だし。『シネマトリコ』の時とか息ぴったりだったしさ」

 にやにや笑う麻琴先輩に不賛成の視線を送りつつ、私は道中立ち寄った植物公園での一場面を思い返す。


 広場の脇に植えられた木々のそばで、私たちはトイレに行った幸崎を少しの間待っていた。

 麻琴先輩は鼻歌で「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」を歌い、久米川はスマホの画面を高速でスワイプし、高辻は紫色のヘリオトロープが咲く花壇を眺めていた。

 不意に坂辺先輩が歓声を上げて、シマトネリコ・・・・・・の木の下へ駆け寄った。先輩は幹に取り付けられた樹名板を目を輝かせて見つめ、顔を樹名板に寄せて自撮りをした。

 その直後、坂辺先輩と高辻が同時に「シネマトリコ・・・・・・」と口にした。

 まるで奇跡的な誤読のシンクロだった。麻琴先輩は腹を抱えて呼吸を荒げ、久米川も仏頂面を崩して可笑しそうに肩を震わせた。

 坂辺先輩はぽかんとしていたけれど、誤りを伝えられてはにかむように頬を掻き、「名前に映画シネマって付いてると思って、嬉しかったんだけど……勘違いだったかあ」と語った。坂辺先輩は無類の映画好きで、アウトドア活動の一環と称して頻繁にサークルの一同を映画館へ連れて行こうとする。

 高辻の方は恥ずかしがる様子もなく、何も言わず曖昧に微笑を浮かべていた。その取り澄ました立ち姿を横目で窺いながら、私はもどかしい気分で毛先をひねり回し、渾身のふんわりウェーブが複雑怪奇に曲がりくねった。

 私は昔から、他人の言動に含まれる「冗談の意図」をそれなりの精度で判別できるという、便利なようなそうでもないような特技を持っている。

 冗談と真剣の境界が明確なものだけでなく、傍からは面白いけれど当人にその気はない行動、真面目な一言のようで当人はおどけたつもりの言葉、冗談めかしながらも本音が入り混じった振る舞い、本気の主張でありつつ滑稽に受け止められることも期待する量子力学的冗談など、ややこしく入り組んだケースでもある程度的確な判断ができた。

 元々悪くない信頼性だったところ、ここ三年ほどで更に鋭敏になった感覚がある。原因ははっきりしないけれど、時期を考えると恋愛信号管理局の影がちらつく。会得した知識や技術が影響を及ぼしたとか、局員同士密接な意思疎通を行ううちに磨かれたとか、何らかの要因で生じた副産物だったのかもしれない。副産物より主産物が欲しかった。

 ツヤツヤに研ぎ澄まされた私の判別能力が、脳裏の演壇で力説を奮っていた。高辻の「シネマトリコ」は意図的な冗談であり、うっかり読み間違えたのではない。

 本当に誤読した坂辺先輩と声が被ったせいでうやむやになったけれど、高辻は「シネマトリコ」の後にも少し言葉を続けていた。はっきりとは聞き取れなかったものの、確か「シネマトリコですね、坂辺先輩の場合」みたいな内容だったはずだ。

 高辻は坂辺先輩の映画好きを踏まえ、樹名のシマトネリコをもじって「映画虜シネマトリコ」と評したのだろう。これもまたしょうもない言葉遊びではあるけれど、咄嗟に思いつく頭の回転には感心するし、いまいち周りに伝わらない間の悪さが歯がゆくもある。

「上手いこと言うじゃん」

 私は高辻にぼそっと声をかけた。高辻がスベろうが天然扱いされようが一向に構わないけれど、受信先を求めて宙をさまよう冗談の信号を放っておくのは忍びなかった。

 高辻はアイスが溶け崩れるように表情を綻ばせ、普段よりも鮮やかな笑顔を私に向けた。優雅な気品の中に悪戯っぽいニヤケ面が混ざった奇妙な顔つきは、こちらの心を惑わし乱す神秘的な色彩を帯びていた。

 見てはいけない深奥を覗いた気分になり、私は動揺してボックスステップに類似した足取りで後ずさりした。


 喫茶店から目的のキャンプ場までは短い道のりだった。私たちは受付でチェックインを済ませ、車から荷物を下ろしてテントやタープの設営を行い、くたびれ果ててローチェアに沈み込んだ。アウトドアサークルを標榜する割に、メンバーは全体的に貧弱な体力を有している。

 ほんのりと空に赤味が差してきたけれど、夕食の用意を始めるには少し早く、移動や設営の疲れもあって間延びした空気が漂う。みんなぼうっと景色を眺めたり、スマホを眺めたり、テントの脇を跳ね回るどでかいバッタを眺めたりしている。

 麻琴先輩が膨れたバッグからいくつかアナログゲームの箱を取り出し、真剣な顔つきで何事か考えている。よく見るとどれも二人一組になって遊ぶゲームばかりで、私は以後の流れを予期して茶渋より渋い顔になった。どのゲームをやるにしても恐らく私は坂辺先輩のチームメイトになれず、その位置には高辻が収まるだろう。

 段々分かってきたけれど、今日の私の空回りには構造的な原因がある。

 どうやら坂辺先輩は高辻とのペアを、幸崎は久米川とのペアを望んでいて、高辻と久米川は特に希望がなく殊更拒否もしないため、放っておくとそのまま二人組が成立する。そしてベンゼン環と同じくらい他人の恋模様を好む麻琴先輩は、ペア形成を阻害しないよう私と組もうとする。私一人が右往左往したところで、それぞれの思惑が生み出す気流には抗えず、蚊帳の外まで吹き飛ばされる羽目になるというわけだった。

 推察が正しければ、坂辺先輩は高辻に積極的に接近したがっている。単にサークルの仲間として親交を深めたいのか、それとも先輩もまた、恋の迷路を奔走する子羊の一匹なのだろうか? こんな時こそ恋愛信号を判別できたらいいのに、私に読み解けるのは冗談信号だけだ。

「蒲生さん」

 歯の裏までこみ上げた大規模のため息を、清風のような呼び声が遮った。

 振り返ると高辻が微笑んでいた。肩越しの陽光がまぶしく、半目になりながら一歩近づくと、高辻も一歩こちらへ近づく。

「一緒に来てもらえないかな。あなたに相談したいことがあって」

 高辻が声を潜めてささやく。唇の端に薄っすらと、たちの悪い冗談の気配がにじんでいる。警戒感が私の足を制止するけれど、すでに高辻との距離はほとんど失われた後だった。

「高辻……さん。相談って何を?」

「『恋愛信号管理局』という組織を立ち上げたいの。それで第一人者の話を聞きたくて」

 私は愕然として返すべき言葉を失い、意味もなく口を開けては閉めた。

 どうして高辻が管理局を知っている? 地元も出身校も違うし、大学より前の接点は全くなかったはずだ。乱雑に散らばった過去の記憶を慌ててかき集めても、どこにも高辻の名前や姿はなく、若気が至りに至って空転する自分の姿ばかり思い出して恥ずかしい。

 狼狽し切った私の百面相を見つめて、高辻は葉擦れの音に紛れるくらいささやかな笑い声をこぼした。


 整備された山道を五分ほど上った先、眼下に蓮会湖を一望できる開けた展望広場があった。

 広場のあちこちに鴨のオブジェが設置されていて、くちばしに手紙をくわえていたり、電波塔のてっぺんに止まっていたり、狼煙に着火していたり、ルーターにLANケーブルを差し込んでいたりと、どれもあまり鴨らしくない行動を取っている。

「通信の歴史を鴨で表現した作品なんだって」

 高辻の言葉にふうんと素っ気なく相槌を打つ。

 私たちは電波塔鴨のそばにある幅広のベンチに並んで座っている。腰を下ろした時は合間に一人分の距離があったのに、高辻が寄ってきて端まで追い詰められた。

「恋愛がらみの験担ぎでけっこう人気があるみたい。鴨たちにお願いすると好きな人に想いを送信してくれるかも・・とか、新しい恋の始まりを受信してくれるかも・・とか」

「へえ」

「恋愛信号管理局も視察旅行を計画していたんだってね。実現はしなかったみたいだけど」

 私は無言で頭を抱えた。知らないふりをしてみたところで、高辻に管理局の機密情報を握られている事実は変わらない。

 当時の私たちは恋愛にまつわる噂やジンクスの収集にも余念がなく、SNSで鴨のオブジェの情報を得た際には、確かに蓮会湖周辺への旅行計画が持ち上がった。局員たちは「験担ぎに頼るより知識や技術を磨くべき」派と「なりふり構わず藁でも鴨でもすがるべき」派に分かれて合意が得られず、結局計画は立ち消えになった。

 そういう内情まで高辻が知り尽くしているカラクリは、明かされてみれば脱力するほど単純な仕組みだった。元局員の一人が高辻の従姉妹で、メッセージや通話で頻繁に管理局の話をしていたらしい。確かに仲の良い従姉妹がいると聞いたことはあるけれど、名前も顔も知らない机上の従姉妹が、現実の高辻となって牙を剥き始めるとは、想像できるはずもない奇遇だ。

「局長さんのこと褒めていたよ。仲間の誰よりも熱意と行動力があって、誰よりも聞き上手で気づかいができて、誰よりも恋愛の才能がない人だって」

「誰よりも才能あるっての。まだ目覚めてないだけで」

 私が唇を尖らせると、高辻は口元に手を添えて小さく笑った。

「私が元局長だってなんで分かったの? あいつ写真とか見せてた?」

「写真はいくつか見せてくれたけど、髪とか服の印象がばらばらだったから、外見だと分からなかったよ」

 言われてみるとあの頃は、ファッションの試行錯誤に血眼になって容姿の一貫性がなかった気がする。

「でも『ガモさん』って愛称は聞いていたし、教えてもらった局長さんの人柄と似ている気がして、サークルで知り合ってから何となく気になってはいたの」

 確信が生まれたのは今日の「シネマトリコ」の時、と高辻が僅かに声を弾ませる。

「『ガモさんに通じない冗談はない』って話も聞いていたの。分かりづらくてもつまらなくても、どんな冗談も受け取って反応してくれるって。本当にそんな人がいるのか疑問だったけど、失敗した冗談を拾ってくれる人が目の前に現れた。だからさっき従姉妹にメッセージで確認して、間違いないって分かったの」

 前触れもなく高辻が顔を寄せてきた。圧されるようにのけ反るけれど、反りすぎるとすっ転んでベンチから落ちる。淡い褐色の瞳にまっすぐ捉えられて、私は背中を曲げた体勢のまま動けなくなる。

「私、冗談を言うのが好きなのに、すごく下手でね。たいていうまく伝えられなくて、もどかしくて。涙が止まらない夜もあったな……欠伸が何回も出るせいで」

「さっさと寝なさい、眠いなら」

 高辻の吐息が愉快そうに跳ねた。微かなハーブの匂いと、出所不明の瑞々しい香りが混じり合って鼻腔をくすぐる。ベンチの縁を掴む手に汗の雫が浮き出て、緩やかに滑り落ちていく感覚があった。

「今日は蒲生さんが受け取ってくれて、嬉しかった。『シネマトリコ』も『蓮会湖の味』も、他にも沢山」

「ばれてたの……」

 喫茶店の件に限らず、今日は高辻がさりげなく差し挟む冗談に不本意ながら何度も笑いを誘われた。得意のポーカーフェイスで誤魔化したはずだったのに、見透かされていたのは小憎らしく気恥ずかしい。

 触れそうなまでに近づく高辻の顔も、小憎らしく気恥ずかしい。どうしてこんなに距離を詰めてくる? パーソナルスペースってものがないのか? その端正な顔立ちを見せつけているつもりか? こういうやつがモテるのか? 体の奥がやけに熱いのは、慣れ親しんだ羨望や憤懣のせいなのか?

「恋愛信号管理局のことだけど。もう一度始めない? 今度は私と二人で」

「は? いや、なんで」

「話を聞いて、ずっと憧れていたの。お互いに心を通わせて、同じところを目指す関係に」

「そんないいもんじゃないっての。モテたい連中が妄想に駆られてジタバタしてただけで……」

「私ともジタバタしてほしい。蒲生さんとなら、きっと素敵なジタバタになると思うの」

 言葉選びは冗談めかして、けれど内容自体に冗談の意図はなく、どうやら高辻は本気で恋愛信号管理局に憧憬を抱いているらしい。美化して憧れている夢見がちなやつなのか、正しく実態を理解した上で憧れている奇天烈なやつなのか、とっさに判断できるほどまだ私は高辻の内面を知らない。

「やりたいことが色々あってね。二人きりでデートスポットに行ったり、お揃いのコーデを選んで着たり、考えた告白の言葉を伝え合ったり……痴話げんかの予行演習もする?」

「どうせなら仲直りの予行演習をしなさいよ」

 高辻の肩が震え、可笑しげな声と呼吸が大きくなる。

 目の前に迫る顔は目尻も頬も口元も綻んで、未だ気品の残り香をまといつつ、茶目っ気にあふれた表情を満面に浮かべている。あまりにくつろいで楽しそうな顔つきに、迂闊にもつられそうになって、頬の辺りがむにゃむにゃとうごめいた。

「蒲生さんは何をしたい? 後で会議をするから、考えておいてね」

 高辻は当たり前のように私を頭数に入れている。巷間を飛び交う恋愛信号をことごとく見逃して、代わりに冗談信号ばかりを受信し続けた結果、わけのわからないやつの関心を惹き、望まない計画に組み込まれる羽目になった。この事態も遠因は恋愛信号管理局の日々にあり、心中に再び後悔の嵐が吹き荒れる。

 その嵐の中心で、小さいけれどまぶしく熱い灯火が輝いている理由は、私自身にも判然としなかった。

「そろそろ戻ろうか」

 滑らかでひんやりした感触が汗ばんだ手に触れる。高辻に手を取られ、引かれるままに私はベンチから立ち上がった。落日が遥か下の湖面を染め上げ、通信の歴史を体現する鴨たちもほのかに赤く色づいている。

 私の手をそっと握って、蕾が開くように高辻が笑う。夕暮れの光に包まれた高辻の立ち姿は、腹立たしいほど優雅で、腹立たしいほど綺麗だった。

 握った手を離さないまま高辻が歩き始める。勝手に繋がれた手を振り払えば、勝手に巻き込まれた管理局再興計画も振り払える気がしたけれど、私はそうしなかった。

 こうして恋愛信号管理局は、高辻観苑の手によって燦然と再興を遂げた。

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恋愛信号管理局の衰退と再興 山田古形 @yamadakokei

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