いと高く咲いていた貴女よ、何処

志波 煌汰

貴女は花のようだった。

 眼前がいきなり真白に染め上げられたため、爆弾でも炸裂したかと錯覚した。

 それがあまりにも突発的な怒りによって引き起こされた眩暈だと気付くのに、少しばかり時間を要した。

 無音だった世界に少しずつざわめきが戻ってきて、その不愉快な喧騒に女は自分を取り戻す。そこは明治から続く格式高いホテルの大広間で、シャンデリアに照らされた室内には華美な装飾に身を包んだ男女が蟲のようにうごめいている。掲げられたお題目は歌園女学院126期生同窓会──卒業10年の節目にかつての輩と旧交を温めようと企画された集まりだが、その実態はお互いの自慢と品評会でしかないと女は冷然と見ていた。なんのことはない、この同期生たちはアクセサリとして夫や、あるいは婚約者を持ち寄り、卒業後の輝かしい経歴を語っては少しでも自分に箔をつける事に余念がないのだ。10年経とうと変わらない。お花畑根性は根っこからということか。

 溜息で窒息しそうなこの会合にそれでも出席したのは、彼女も来ると聞いてのことだった。在学中、焦がれ続けた彼女。今でも色褪せることなくこの胸に凛と咲き誇る、気高き華。彼女の姿を一目だけでも見たくてやってきた。

 そして──ついに見つけたその人を前にして、女は意識を失いかねないほどの激情を感じていた。驚愕より、失望より。溶岩のような怒りが認識よりも早く脳髄と眼球を灼くことがあると、女は初めて知った。

 10年ぶりにあった彼女は、かつての美しさを全くもって喪失していた。

 いっそ笑いかねないほどに。

 むしろ笑えないほどに。

 もちろん、人が老いて衰えていくことは女自身重々承知だ──だが、彼女の高貴さは、そんな年月などに左右されるようなちっぽけなものではないと、心から信じて疑わなかった。

 だというのに。ああ、なんて愚かな自分!!

 目の前の彼女を見よ。あの神の造形かに思えた細い顎は、今やふっくらと丸みを帯び。青白く透き通るようだった指は水仕事に荒れ、もはや立派な良妻の指だ。

 そして何より、その表情。

 しまらなく笑い、幸せな夫婦生活を語るその顔の、なんと──なんとおぞましいことか!

 女は、眼前の悪夢から少しでも目を逸らそうとかつての日々を追想する。

 あの息苦しくてままならなかった嘘に塗れた学院生活で、ただ一つだけ気高く咲いていた、真実の花のことを──。



                             ✛



 歌園女学院は中高一貫のカトリック系女学院で、いわゆるお嬢様学校だ。

 潤沢な資産の元、むやみやたらに広い敷地の中に生徒全員が生活する学生寮を有し、その他様々な施設を併設することで生活のために外に出る必要のない無菌室じみた学び舎を売りとしている、今どき古臭いと言われるような学院だ。

 無論、そこに通う生徒も一人一人が名家資産家の娘たちであり、誰もが家のために己の資産価値をあげんと日々競っている。その性質から内外問わず皮肉を込めて花園と──あるいはさらに侮蔑を込めてお花畑などと揶揄される、まるで陳腐なコミックにも出てきそうな名門校。それが歌園女学院である。

 その126期生の中には、数々の色鮮やかな花々の中でいっとう目を引く一人の少女が居た。

 名を、美白沢祥恵みしらさわよしえ。旧華族の名門出身の娘で、自ずから輝くような美貌を持った少女だった。幼少のみぎりからその可憐さには一切の瑕疵なく、間近にしたものは褒め称える事さえ出来ず溜息を零すしかなかったという絶世の美少女。母に倣い華道と舞踊をよく修め、その立ち居振る舞いだけで目が眩むような……言葉を尽くせば尽くすほど無力さを実感してしまうほどの、完全。

 何者も冒せないような神聖を帯びた彼女は常に注目の的であったが、天は二物を与えずとは先人の誤りであったか、それでなお悪い噂の方が嘘くさく聞こえたのだから、彼女の人格の高潔も推して知るべしと言ったところだ。彼女の周りにはいつでも人だかりが出来、例えどんなに矜持の高い少女でも、この代において──いや、この学院史上において一番は美白沢祥恵であると認めざるを得なかった。

 あまりの埒外に、美しい少女がいればこぞって花に例えたがる学院のものたちでさえ、彼女を如何なる花に例うべきか決めあぐね、ついにどの花としても呼ぶことがなかったほどだ。

 一方、対照的にすぐさま何と呼ぶべきか満場一致で決まった少女もいた──ただし、尊敬ではなく侮蔑の現れとして。

 少女の名は黒葛川くずぬき依子よりこ。家はそれなりの名門であるのだが、彼女自身は妾腹の子であり、半ば厄介払いのような形で学院に押し付けられた。

 そんな境遇もあってか、その性根は社交的とは曲がり間違っても言うことの出来ぬ暗く湿った、日陰そのものと言った風情。友人を作ることもなく、どこで仕入れてきたのかも定かでない、怪奇的な、あるいは廃頽的な書物を好んで読み耽り。古い校舎の隅にわだかまる闇から滲みでてくるのがよく似合っているなどと囁かれる始末。

 家からも見放された彼女は身なりにも気を遣わず、ぼさぼさの髪に酷い猫背、そばかすだらけの顔で世間を睥睨するように徘徊する彼女の花名蔑称は、誰がつけたか腐肉花ラフレシア

 祥恵とはまさに頂点と底辺、光と影と言って過言でない少女。

 そんな二人だが、全く関わりがなかったわけではない。級友ということもあったが、何より万人に等しく笑顔を振りまく祥恵が依子にも分け隔てなく接したためである。学院内で腫物の如く扱われる彼女にも全く変わらぬ様子で話しかける彼女の、なんと清らかなことかと周囲は崇敬の念を新たにせざるを得なかった。

 とはいえその交流は決して深いものではない。ただの級友としての、他愛もない、世間話にもならないような二、三言。


「黒葛川さん、一緒にお食事でも如何?」

「……今日は本を読みたい気分なの。たくさんいるお友達と食べてちょうだい」

「そう、それは残念。また機会がありましたら」


 その程度の、会話に数えるのも躊躇われるやり取り。

 ただ、周りと関わりを持とうとしない依子のことを鑑みると、それだけであまりにも十分すぎた。

 同じ名門の子、同じ代、同じ性別──それなのにあまりにも対照的な二人。

 だからこそ、手の届かぬ存在としてその孤高に焦がれたのは、当然の帰結だろう。



                                 ✛



 そんな、彼女が。

 少女にとってあまりにも長く、重たい意味を持つ6年もの間焦がれ続けた彼女が目の前に居るというのに。

 女の中には、ただただ憤怒だけが──神経の末端まで灼き尽くすような憤怒だけが渦巻いていた。

 このくだらない祝宴の中、自らの装飾品旦那や夫をひけらかす級友たちを適当にあしらい、広い会場の中でようやく貴女を見つけたというのに。

 あれからの10年の間でさえ、ただのひと時も忘れたことはなかったというのに。

 なぜ貴女は面影も見つけられないほどに、腑抜けた笑顔を浮かべているのか。

 あの、誰も寄せ付けないような高貴さはどこへいってしまったのか。

 彼女が笑う。あのころとは似ても似つかぬ、生ぬるい笑みを浮かべる。

 彼女が笑う。俗気に塗れた、愚にもつかぬ女に似た声が、耳障りに響く。

 お願いだから、やめてほしい。あなただけはそんな顔を見せてはいけない。

 そんな幸せそうに指輪など見せてはいけない。


 女は──は、眼前のに対して、そう叫びだしたくなる衝動を必死に堪える。

 貴女だけは、違うと思っていた。

 周囲の嘲笑に構わず澁澤龍彦や江戸川乱歩と戯れ、アロイーズやマッジ・ギルじみた不気味な画を描き殴り、度々敷地を抜け出してはふらりと帰ってくる貴女だけは──孤高であり続けたあなただけは、愛だの恋だのに焦がれるような、くだらない女になんてならないと思っていたのに。

 あの嘘だらけの学院の中で、あなただけが何よりも自由で、私の本当であったのに、と。

 冗談だと、悪夢であると誰か言ってくれ。

 そんなに家庭料理で丸くなった輪郭では、あの骸骨のように尖らせていた感性を見つけられない。

 そんなに水仕事に荒れた指先では、あの暗闇を愛おし気に撫ぜていた姿を思い返せない。

 嗚呼、焦がれた少女は、私が憧れた少女は、何処へと消えてしまったのか。

 あの頃貴女が話しかけてくれて本当は嬉しかったのだ、とはにかむ愚鈍な女の中に、あの日の彼女が、埋まっているというのか。

 だとしたら、と。女は憧れだった物の横に立つ、いかにも平凡そうな、善良さだけが取り柄であるような男に目を向ける。

 この男さえ奪ってしまえば──あの日の彼女をもう一度掘り起こせるだろうか。

 あの、誰にも阿ることなく孤高に在った一輪の漆黒を、もう一度目の当たりに出来るだろうか。

 臓腑を灼かんと荒れ狂っていた激情が指向性をもって蜷局とぐろを巻き、頭をもたげて標的を見据える。

 そうして女は──蛇のように蠱惑的な目で、毒花ラフレシアのような笑みを浮かべて語り掛ける。


「旦那さん、素敵なお人ね。よろしければ今度一緒にお食事でも如何?」


 全ては、あの日の狂い花をもう一度咲かせるために。


<了>

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