私のおさななじみは

天原カナ

第1話

 幼馴染がAV女優になった。

「これがアタシのデビューDVD。一番に桃ちゃんにあげるって決めてたんだ」

 にこにこしながら半裸の女性が表紙にいるDVDを渡してくるのは、私の隣の家に住む映子だ。もちろん表紙の半裸の女性は目の前にいる映子だし、女として二十年間生きてきた私には縁のない種類のDVDだ。

「いらないよ」

「桃ちゃんに見て欲しいんだもん」

 そう言って私にDVDを押しつけると、映子はふわりとスカートを翻して、隣の家に帰って行った。

 ため息をついて渡されたDVDを見ると、半裸の映子がこちらを物欲しげな目で見つめている。(可愛こもも 新鮮桃パイデビュー)

 ふざけた煽り文句だと思っても、これにつられて買う男たちはたくさんいるのだろう。

「あんたは映子だろーが」

 田中映子が本名なのに、可愛こももなんて、小さくて可愛い映子にぴったりな芸名をつけてもらって、知らない男に抱かれるなんて。

「馬鹿みたい」

 呟いても誰もその言葉を拾う人はいない。映子が消えた隣の家をちらりと見て、私はDVDを鞄の奥に押し込んで、実家のドアを開けた。



 都心から一時間半かかる町が、私と映子が生まれた場所だ。

 その町から大学進学を機に、私は家を出た。通えない場所ではないが、毎日通うにはキツい微妙な距離で、迷わず私は一人暮らしを選んだ。

 親にとっても私の合格した大学は喜ばしかったようで、その選択を反対することはなかった。

 私は実家を出て、隣の映子はそのまま残った。

 たまに実家に帰ると、映子は私の実家にやってきてあれこれと話して帰った。

「映子ちゃんまた来てたわね」

「んー」

 夕飯の片づけをしながら、母が言う。

 生まれたときから知っている相手だから、お互いの家族も今なにをしているかも筒抜けだ。

「映子ちゃん、なんかいかがわしいビデオに出てるんだって?」

「DVDね。誰から聞いたの?」

「村田のおばちゃんよ」

 映子の母親からじゃなくて、近所のおばちゃんの名前が出てきて、私は露骨に嫌な顔をした。映子の母親が自分の娘がAV女優になったなんて言うわけないけど、いつの間にかこうして知られていることに、なんとなく嫌悪感があった。

「アンタもせっかくいい大学入ったんだから、付き合い考えなさいよ」

「は? なにそれ」

「影響されて変な道にいかないでってことよ」

「自分の親が職業に貴賤があるって思ってることが恥ずかしいんだけど」

 一気にそう言うと、持っていたお皿を流し台に置いて、自分の部屋のある二階に駆け上がる。そうして荷物を鞄に詰めると、そのまま玄関に行った。

「ちょっと桃香?」

「帰る」

「帰るって、今から!?」

「まだ終電あるし。じゃあまたね」

 なにか言いたそうな母を置いて、玄関を出る。どうせ週末に一泊のつもりで帰ってきただけだ。荷物だって着替えと下着ぐらいで、まだお風呂にも入っていないから、そのまま飛び出しても大丈夫。

 家の外までは母は追ってこなかった。今頃父に愚痴でも言ってるのだろうか。それとも家についた頃合いを見計らって、嫌みのメールでも来るだろうか。

 駅への道を歩きながら、それでも自分の言った言葉を撤回する気にはなれなかった。母の顔を真っ直ぐ見ながら言えなかったのは、私の弱さだけど、それでも飲み込まずに言えたのは胸を張ってもいいと思う。

 映子と一緒に通った小学校を過ぎて、幼い頃よく遊んだ公園の前を通り過ぎる。私は中学で私立に進んだから、映子と毎日遊んだのは小学校までだ。中学に上がってからも週末になると映子は、うちに上がり込んで他愛のない話を日が暮れるまでしていたし、高校受験をする映子に、エスカレーター式の私は勉強を教えた。

 よくお菓子を買いに行ったスーパーの明かりを見えてきたら、後ろからよく知っている声が聞こえてきた。

「桃ちゃぁん」

「映子?」

 振り返ると映子がいた。

 ぽろぽろ泣いて、可愛い顔の左頬が赤く腫れている。

「どうしたの?」

「ママに叩かれた」

「どうして?」

「AVに出たことバレた」

「言ってなかったの?」

「うん」

 高校を卒業した映子は小さな事務所でグラビアアイドルのようなことをしていた。週末になると都内に出かけて、水着になってたくさんのファンに写真を撮られる。

 そこまでは私も、映子の母親も、うちの母だって知っていることだ。

「なんでバレたの?」

「山田のおばちゃんから聞いたって」

 本当に人の噂はどこから回ってくるかわからない。

 私より頭一つ小さい映子の頬を撫でると、しっとりと湿っていた。

「ほら、ハンカチ」

「ありがと」

 渡したハンカチで涙を拭く映子をじっくり見る。ワンピースにカーディガン、小さめの鞄にはきっとスマホと財布が入っているのだろう。

「うち来る?」

「え?」

「東京のうちの家」

 服は貸せばいいし、下着は買えばいい。家出なんて簡単なものだ。しかも映子は定職についているわけじゃない。ここから一時間半離れた場所に行っても困ることはないだろう。

 だから、提案した。

「行く。桃ちゃんのとこ行きたい」

 こうして私たちは終電間際の都内行きの電車に乗った。



 大学から電車で三十分の場所に、私の住むワンルームマンションはある。一人暮らし用だから、二人で住むように設計されてはいない。私の寝るベッドの横に客用布団を敷いたら、部屋はいっぱいになった。

「桃ちゃん、本当にいいの?」

 この家に一緒に帰ってきた日、映子は何度もそう聞いた。

「いいよ。仕事もここから行きやすいでしょ。別に小さい頃からお泊まりなんて何度もしてるし、好きなだけいればいい」

「桃ちゃん、大好き。でも光熱費とか家賃とかちゃんと出すよ」

「私だって親に出してもらってるし」

「じゃあ食費とか」

 映子はショッキングピンクの財布から二万円を取り出して、端に追いやられたローテーブルの上に置いた。

「居候代」

 えへへと笑って、客用布団じゃなくて、私のベッドに上がってくる。

「映子は客用布団」

「いいじゃん。小さい頃は一緒に寝てたし」

「小さい頃はね」

 どうやっても客用布団に戻らない映子のことは諦めて、私は寝る体勢になった。横を向けば映子の小さい頃から変わらない可愛い顔があって、昔はよく電気が消された寝室で小声で話したなと思った。

「ねぇ」

「なぁに?」

「なんであんな芸名にしたのよ」

 昔の癖か、電気を消したからか、自然と小声で聞いた。

 可愛こもも。

 私の名前は桃香。

「桃ちゃんみたいになりたかったから」

「なにそれ」

「背が高くて、綺麗で、お勉強できて、東大なんか行っちゃって。きっと将来はすんごいとこに就職してキャリアウーマンするような」

 幼い頃から勉強はできた。背が高くて、男みたいだとも言われてきた。

 そんな私と映子は正反対だった。

 勉強は不得意でも、愛嬌があって小柄で可愛い映子は、私の持っていないものをたくさん持っていた。いつだって映子の周りには男女問わず人がいたし、そんな映子は私の傍に必ずいて、私は一人勝手に優越感を覚えたものだ。

 私の胸元に頭をくっつけてすり寄るように寝る映子の姿は、久しぶりに見る。長いまつげも、綺麗に切り揃えられた前髪も変わらない。

 髪が顎のあたりに当たるのがくすぐったいなと思いながら、私はいつの間にか眠っていた。



「桃ちゃん、おはよ」

「……おはよ」

 映子と暮らしだして、朝は映子の声で起きるようになった。起きれば映子が朝ご飯の支度をしてくれていて、大学から帰れば夕飯の支度ができている。勉強に追われる日々に、それはありがたかった。

 休みの日の今日は、甘いフレンチトーストの朝ご飯を食べると、ローテーブルで向かい合って、私は勉強、映子は化粧をする。ファンデーションを塗るまでに色んな液体を塗って、アイメイクを時間をかけてした。

「桃ちゃん。見られてると手元狂うよ」

「だって化粧なんて十分あればできるじゃん」

「そういうわけにはいかないの。今日は撮影だし」

「そういうのってメイクさんいないの?」

「売れたらね」

 デビューしたての女優にはヘアメイクなんてものはいないらしい。ビューラーで長いまつげを上げながら、映子はよく喋った。

 売れたらイケメンの男優さんが相手になることもあるのだと、映子には推しの男優さんがいて、いつかその人と共演するのが夢なのだと。

「喘ぎ声とかほとんど嘘だし、まぁそれっぽく見えるようには研究するよね」

「ふーん」

 最後に唇を引くと、すっぴんのときにはあったあどけなさが消えて、映子の存在が薄くなった気がした。映子の声で話す、知らない人が目の前にいるような。

「どう?」

「いつもの方がいい」

「んふふ」

「なによ、気持ち悪い」

「素顔のあたしは桃ちゃんが知ってればいいの」

 そんな戯れ言を言って、映子は出かけてしまった。

 行き先は聞いてないけど、どこかのスタジオかホテルかそんなところで、男優に抱かれて喘ぐ演技をするのだろう。

 知らない男に抱かれて、それを撮られて、全世界に見られるなんて、なにがいいのかわからない。

 映子がいなくなった目の前を見ながら、私の勉強する気はすっかりなくなってしまった。

 代わりに映子のDVDを見ようという気がどこからともなくやってきた。あの日鞄の底に入れたDVDは、今は洋服ダンスの中に押し込まれている。

 それを取り出して、パッケージの映子の姿を確認すると、私はデッキにディスクを入れた。

 嫌になったらすぐに消せるようにリモコンを手に持ったまま、私は再生して、そして最後まで見た。

 素人にインタビュー形式で始まって、男優に誘われるまま服を脱ぎ、あられもない声を出す。

 それは知っている幼なじみの顔じゃなくて、一人の女の顔だった。

 可愛くて、艶があって、目が離せない。

 映子なはずなのに、そこには「可愛こもも」としての姿が映っていた。

 この気持ちをなんと言えばいいのかわからない。知らない男が映子に触っているのに嫉妬すればいいのか、それともこの女優は私しか知らない顔があるのだと優越感に浸ればいいのか。

 日が暮れるまで、私は何度もそのDVDを見た。



「小学校の同窓会があるんだって」

 唐突に映子がそう言ったのは、秋の終わりだった。夏の初めにうちに転がり込んできて、映子はそのまま住み着いた。途中実家に帰って服を持ってきたが、親子仲が修復したかはわからない。

 私の方はというと大学が忙しいという建前で、実家に帰ってはいない。たまに母から当たり障りのないメールが届くから、年末には実家に帰ってしまえば今まで変わらない状態に戻るだろう。

「冬休みのさ、成人式前にやろうって」

「映子は行くの?」

「うん。だって桃ちゃんと行けるの小学校の同窓会くらいじゃん」

「幼稚園だって一緒だったでしょ」

「幼稚園の同窓会なんてないよ」

 そんなやりとりをして、私と映子はいつもよりちょっとだけ着飾った格好をして、地元のそこそこ広いイタリアンレストランに行った。

 入り口で受付と会費を払って、中に入ると見覚えのある顔がちらほらといた。人の集まりは悪くなくて、あちことで笑い声が上がる。

「桃ちゃん、なに飲む? ジンジャエール?」

「うん」

 私がいつもジンジャエールを頼むし、映子はオレンジジュースが好きだ。きっとジンジャエールと一緒にオレンジジュースを持ってくるだろう。もう二十歳になったからお酒を飲んでもいいけど、まだビールのおいしさはよくわからない。

「川崎じゃん。お前、東大行ったってマジ?」

「マジ」

 名字を呼ばれて振り返れば、六年生の時に同じクラスだった男子がいた。確か野球をしていて、いつも丸坊主だった記憶があるが、今髪を伸ばしていてその面影はあまりない。

「なぁ、田中映子ってAV女優になったってマジ?」

 声のトーンはそのままに言われて、一瞬なにを聞かれたのかわからなかった。

「今日来てんだろ? 一発ヤらせてくれねぇかなぁ。マジもんのテク味わってみてぇ」

 下卑た声に、今日パンツスタイルで来てよかったと思った。いつでも蹴れる。中学受験で忙しくなるまで空手を習っていたこともよかった。

 足を浮かせた瞬間、目の前の男が「いてぇ!」と叫んで膝から落ちた。

 その向こうに片手にジンジャエール、片手にオレンジジュースを持った映子が片足を浮かせた状態で立っている。ジュースの入ったグラスは半分ほど中身がこぼれてなくなっていた。

「あたし、桃ちゃんがやめてからも空手やってたから」

 男を蹴ったのは映子だった。

 えへへと笑う顔が、あの日頬を叩かれて家を飛び出した映子と重なって、私は崩れた男に軽く蹴りを入れて、映子に近づいた。

「帰るよ」

「え、でも」

 映子の持っていたグラスを取って、ジンジャエールを一気飲みする。それを見ていた映子も、持っていたオレンジジュースを一気飲みした。

 空になったグラスをすぐ傍のテーブルに置くと、映子の手を引いてレストランを出た。

「桃ちゃん。あたしの手、べたべただよ」

「駅のトイレで洗えばいいじゃん」

「うん」

 同窓会ではいつもよりお洒落をするんだと、映子が新しいワンピースと靴を買っていたのを知っている。

「桃ちゃん、ごめんね。せっかくの同窓会」

「べつにいい」

 べたべたしている手は、いつもより密着している気がした。息を吐けば白い。外は寒いのだと今更ながらに気がついた。

「桃ちゃん」

「なに」

「悔しい」

「うん」

 振り向けば、泣いている映子がいた。撮影のときみたいな化粧じゃなくて、ナチュラルメイクだけど、マスカラが涙で落ちてきている。

「マスカラ落ちてる」

「ウォータープルーフなのに」

「信じちゃダメだね。ウォータープルーフって」

「うん」

 鞄からティッシュを取り出して、涙を拭いてやる。アイシャドウも一緒に落ちたが、仕方ない。

「そんなにダメなのかなぁ、AV女優って」

 ぽつりと映子がこぼす。

 足を止めた私たちの横を自転車が通り過ぎた。

「演技がしたかった、女優になりたかった、でも全然オーディション受かんなくって、グラビアなら仕事があって、AVなら演技の仕事もできたし、喜んで見てくれる人がいるの」

 中学に上がった頃から、映子がオーディション雑誌を見て応募したりしているのを知っていた。応募する写真を撮ってやったこともある。小さな事務所に決まったと聞いたのは、高校二年のときだった。

 小学校の卒業文集の将来の夢の欄は、女優と書いていたのを思い出す。

「桃ちゃんが、賢い私立中行って、東大行って、夢だった弁護士に進んでるのみて、羨ましかった」

 映子が女優と書いた同じ場所に、私は弁護士と書いた。だから、勉強して大学に入ったし、司法試験への勉強も始めている。私の夢は、努力でどうにかなってしまうといえばそうだ。

 だけど、映子の夢は努力だけではどうにもならない。

「普通の女優と、AV女優ってなにが違うの? 女優だってベッドシーンあるじゃんね」

「職業に貴賤はないよ」

「きせん?」

「貴いとか賤しいとか」

「桃ちゃんは難しい言葉を知ってんのね」

 映子が笑う。その笑顔にほっとした。

「帰って牛丼テイクアウトしよう」

「うん。お腹すいたね」

 それから駅のトイレで手を洗って、二人で都内に戻った。牛丼をテイクアウトして、ジンジャエールとオレンジジュースも買った。

 もう最近では客用布団を敷くこともなく、当たり前のように映子は私のベッドで一緒に寝た。

 だから、この日も当たり前のように一緒に寝て、そうして朝起きたら映子はいなくなっていた。

 


 映子は来たときと同じように身軽な状態で出ていって、部屋の中にはまだ映子の荷物が残っていた。買い足した食器や夏服、靴、まるでちょっと出かけてくるといった気軽さで、映子は出ていった。

 書き置きの一つもなくて、メールをしても返ってこない。既読はつくからどこかで生きてはいるのだろうけど、それがどこなのかはわからなかった。

 年末年始で実家に帰ったときに、映子の母親にそれとなく居場所を聞いたが、私の家にいるということしか知らなかった。だから、帰れたら帰ると言っていたと誤魔化した。

 冬休みが終わって、映子のいない成人式が終わって、レポートとテストに追われているうちに季節が変わっていた。

 映子は帰ってこないけど、私は映子がなにをしているかを知っていた。

 現代の世は便利だ。

 インターネットで「可愛こもも」と検索すれば、映子の出演したDVDの販売ページが見られる。私がもらったデビュー作の次に、いなくなった間に一本出していた。そして来月にはもう一本新作が出るらしい。

 SNSも見つけたし、そちらは頻繁に更新していた。私の知らない化粧ばっちりの映子の姿だったけど、オレンジジュース片手に写っていたり、お気に入りのブランドの服を着ていたりと、知っている姿もあった。

 そんなものを見るのが当たり前になって、私は「可愛こもも」の二作目のDVDを通販で買って、次に出る予定のDVDも予約した。次に出るDVDには予約特典としてサイン会の参加券がついてくるらしい。

 毎日大学から帰ってくると、夕飯を見ながらDVDを見た。二つあるものを日替わりで。

 幼なじみの喘ぐ姿を見ながら、適当に作った野菜炒めを口に入れ、インスタント味噌汁を飲んだ。一人で寝ることで広くなったベッドも、目覚まし時計で起きないといけない朝も、映子がここにいた日々を知っていると、違和感を覚えた。

 そうして映子の日常を一方的に知っている日々が過ぎ、私は単位を取って無事進級することができた。

 進級祝いにと祖父母からもらったお小遣いで、私は華やかな春物のブラウスとスカートを買った。

 出かけるところがあるから、とびきりのお洒落をしないといけない。

 日頃より倍以上の時間をかけて化粧をして、普段しないネイルをして、新しい服に身を包んで秋葉原に出かけた。普段行かない場所に緊張しながら、地図を見ながら目的地に行く。

 男の人しか並んでいない列に並べば、あからさまに奇異の目で見られた。だけどここで怯むわけにはいかない。

 列の先には「可愛こもも サイン会会場」と書かれた貼り紙がある。

「ただいまより、可愛こもものサイン会始めます」

 スーツを着たスタッフの声が聞こえて、列が少しずつ動き出す。ほんの少しずつ、だけど確実に「可愛こもも」に近づいている。待っている人たちは誰も静かで、しばらくすると「可愛こもも」とファンの人たちの会話が聞こえてきた。

「い、いつも見てます。最高です」

「ありがとうございます! また見てくださいね」

「お風呂プレイ最高でした」

「あれ、楽しかったんですよっ!」

 普段より、少し高い声できゃらきゃらと笑うのは、余所行き声を出すときの映子の癖だ。私の部屋で初めての彼氏と電話をするときに聞いたのと同じで、普段との違いにぞわっとしたものだ。

 列が進んで、映子が座る場所が見えるくらいになった。DVDにサインをして、握手をして少し話したら次の人。

 こちらから映子はよく見えるけど、映子は目の前のファンに必死でこちらを見ない。

 あと何人。あと三人。あと二人。あと一人。

 じっと目を離さず見て、やっと私の番になった。鞄から通販した「可愛こもも」の最新作のDVDを取り出す。

「こんにちは! 今日は来てくれて……」

 「可愛こもも」と目が合って、言葉が途切れる。

 その瞬間、田中映子がそこにいた。

「桃ちゃん。そのDVD買ったの?」

「当たり前でしょ。私はあんたのファンなんだから。サインちょうだい」

「うん。うん。する。サインするね」

 映子が目に涙を浮かべながら。DVDにサインをする。

「桃ちゃんにファンって言ってもらえて嬉しかった。女の子一人で来にくかったでしょ」

「別に。私はあんたに会いに来たから」

 映子がサインを書き終えて、手を差し出す。ファンの人たちとしている握手だ。私は差し出された手を引っ張って、テーブル越しにぎゅっと映子を抱きしめた。

「帰っておいでよ、映子」

 誰にも聞こえないように、耳元で呟いた。

「AV女優の幼なじみなんて迷惑かけちゃうよ」

「大丈夫。そのくらいじゃ折れないつもり」

 スタッフの一人が近づいてくるのが見えたけど、映子がそれを制して「幼なじみなの」と笑った。後ろに並んでいるファンもそれを聞いて、私に視線を送る。

 私の幼なじみは可愛いだろう。お前たちは私の幼なじみで色んな妄想をしたんだろう。

 でも本当の「可愛こもも」を知ってるのは渡井だけだ。

「じゃあ、待ってるから」

 サインの書かれたDVDを受け取って、ファンの男たちの視線を振り切りながら、私はスカートを翻して会場を後にした。

 きっと映子は帰ってくる。

 そのためにカレーでも作っておこうか、オレンジジュースも買っておかないと。

 履き慣れないお洒落靴の踵を鳴らしながら、私は人混みにまぎれていった。

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