かじりかけの林檎
sayaka
第1話
歯型のついたりんごを向けられて、その断面を見つめている。
ツヤツヤでみずみずしい果物はとても美味しそう。
「食べてもいいよ?」
本当に食べてもいいのだろうか。毒とか入っていないかな、気が動転するあまり有り得ない発想が思い浮かんでくるので慌てて打ち消す。
そうこうしているうちに半開きの口に無理矢理にして押し込まれた。
甘い。毒々しいくらい甘い。
林檎ってこんなに美味しかったっけ。
私、林檎が大好きなのかもしれない。
いや違う、きっと目の前の少女が大好きだから、それで美味しく感じられるのかもしれない。これが最高の味わい、究極の味覚、甘美なフレーバー、全身の感覚を研ぎ澄ませるようにして、鮮明に記憶しておこうと強く誓った。
由以とは小学生の頃からの付き合いで、仲良くなったきっかけはよく覚えていないけれど、気がつけばいつも隣に居て、いくつもの季節を過ごしてきた。
中学校は別々のところに通っていたので、高校で再会したときはお互いに喜び合った。
同じクラスで席も近くて、通学路も同じ。
家もそう遠く離れているわけではないので、放課後はどちらかの家に入り浸っていることが多かった。
「
そう言われると断る理由もないので、承諾する。
今日は由以の家に行きたいと思っているときにはお誘いを受けるので、そのまま返事をしていた。
思えば私から提案したことがなかった。
別にどちらでもいいと思っているといえばそれはそうなんだけど、これではあまりにも自分の意思がなさすぎるような気がする。そのことを由以に話すと、変なことを気にするんだね、と笑われてしまった。
確かにそうかもしれない。
私も初めは、何でもないことが気になっていた。
由以の横顔とか、睫毛が長いなとか、ふわふわの長い髪の毛が似合っていてとても可愛いとか、容姿を見つめるあまりに話を聞いてないことが多く、結構怒られもした。
怒っているときの顔も可愛い、由以はもともと可愛い顔立ちをしているけれど、より一層可愛く思えていた。
高校生になって成長したということなんだろうか、それとも私の情緒が発達したのかもしれない。
そんなふうに懐かしの回想をしていたら、思っていた以上に時間が経過していた。
林檎を食べて物思いに耽る私は、側から見ると空腹に黄昏ているように見えるだろうか。
「考えごと?」
「うん、えっと、そうでもないかな」
すっごく真剣な顔してたよ、と言われてしまう。
首を傾げる仕草がとても愛らしい。
「もっと食べたいかなって」
「いいよ、はい」
林檎を皿ごと渡される。
そもそも林檎を剥いたのは私で、林檎自体も私の購入したものなので、許しを乞うものでもない気がする。
「そうじゃなくて」
「えっ、違うの」
「さっきみたいに……それ、食べさせてほしい」
我ながら何を言っているのか。
由以はぽかんとしている。やがてニッコリ微笑むと、手づかみで林檎をかじって、ゆっくり咀嚼する。
「はい、あーん」
さっきと同じ光景がよみがえる。
心なしか先程よりもキラキラと輝いて見えた。
何の変哲もない私の部屋も、目の前にいる由以の顔も姿形も、林檎の断面も。
「あ……」
あーんと言うべきなのか、迷って恥ずかしくなり声が上手く出せない。
「……いただきます」
口を開くと、なんだかドキドキしてきた。
「茉里奈ちゃん、目閉じて?」
「え、はい」
言われるままに瞼を下ろす。ふわっといい匂いがして由以が近づくのが分かる。
「そのまま」
どれくらい待てばいいのだろう。
何となく気になって片目を開くと、軽く頭突きするかのように額をコツンとされた。全然痛くなくてとても可愛い。
「もー、なんで開けるの」
「え、ご、ごめん」
「みっつ数えたら目を開けて」
いつもと同じ調子の声。柔らかめのハイトーンでずるいくらい可愛い。
耳元でそんなふうに囁かれると一気に心臓が高鳴る。彼女の目に映る私はどう見えているんだろう。じっと見つめていてもよく分からなかった。
一般的に考えて、至近距離で目を閉じるなんて、これは思いがけずキスされるパターンなのかもしれない。緊張のあまり頭がおかしくなりそうになりながらも、目を閉じて、ゆっくり三秒数える。
いち、に、さん……。
何も変わらない気がする。
何なのだろう?
もう一度数えてみる。ワン、ツー、スリー。
そういえば林檎はどうなったのか、遠い記憶を手繰り寄せてみる。
林檎、と思いながら目を開けると、視界の端にそれが見えていた。
口の中に入ってくる。
由以が林檎を口に咥えていて、それがゆっくりと私の口内に押し込められる。
驚きのあまりそのまま受け入れてしまうけれど、口が触れる前にパッと身を引かれた。
「美味しい?」
私は何と答えたらいいのか分からなかった。
味なんて、全然しない。
かじってみてその水分が感じられて、やがて形状が変化していく。
なんだかどろどろとしたものに思えてきた。
美味しくないのだとしたら、何なのだろう。
かじりかけの林檎は美味しくて、口移しの林檎は美味しくない。そんなことってあるのだろうか。
心臓が早鐘のようにとてもうるさくてざわざわしていた。
白い皿の上に残った林檎に目を向ける。
皮を残してウサギのようにすれば少しは可愛げもあったかもしれない。
なんだかひどく色褪せて見えた。
手を伸ばしてその一切れを指で掴む。
別に何の変哲もない、ただの林檎だった。
少しざらざらした手触りと水分を指先に感じる。
ひとくちかじって、咀嚼もせずにそのまま飲み込むと、やっぱりごく普通の林檎の味がした。
「美味しい」
なんだか初めて林檎を食べているかのような、不思議な体験をしている。
「美味しかったの?」
由以は相変わらず微笑んでいる。
ふわふわの笑顔と白い指先を頬にやる仕草がとても愛らしい。
「由以も食べて」
「食べてるよ、もうお腹いっぱいかも」
そうなんだ、と口を動かしながら別のことを考えていた。
よくよく考えると、自分の食べかけを他の人の口に入れるというのは変わった行動なのかもしれない。
さっきと交代じゃないけど、私のかじった林檎を由以は食べてくれるのだろうか。それは気持ちを受け入れてもらうことよりも、ずっと難しい問題に思えてきた。
実際に問いかけてみると、案の定の答えが返ってくる。
「うーん、それはイヤ」
「そうだよね」
由以はこういうところはきっぱりしているので譲らないだろう。
心の中がどんよりしてきた。
「でも茉里奈ちゃんがしたいならいいよ」
「え」
そんなふうにあっさり受け入れられてしまう。
私は自分のかじった林檎を見つめて考える。これを由以の口の中に、入れて、食べさせる。
胸の高鳴りを抑えながら想像してみると、それはひどく蠱惑的で耐えられないような感情が次から次へとあふれてくる。
「好きなの」
言葉にしてみるとやけにあっさりしている。
こんな単純なことで伝わるのかよく分からなくなってきた。
もっと想いを連ねたほうがいいのか、考えあぐねていると、由以はいつになく真剣な表情をしていた。
「それってわたしのこと?」
他に該当することが思い浮かばないまま頷く。
「りんごのことかなとも思ったけど」
そういえば林檎を食べるとか食べさせないとかそういう話をしていたはずだった。
どうして急にこんな発言をしてしまったのか自分でも驚いていたけれど、今さら訂正する訳にもいかないので、このまま押し進めようか、それとも今ならまだ何とかして誤魔化せるのだろうか。由以の両眼を見つめたまま逡巡していた。ぱっちりした瞳が瞬きもせずにずっと私のことを見返している。このまま吸い込まれてもいいくらい、とても綺麗でキラキラしている。
「わたしも茉里奈ちゃんのこと好き」
ほとんどいつもの調子で口を開く。
「友達としてだよ」
あっけにとられたまま、動けずにいると、手に手を重ねられる。林檎を持ったままの片手。由以がいつのまにか私のそばに寄っていたことにも気がつかないくらい、思考が停止していた。
由以はそのまま私の手を導いて、彼女の口元に近づけていく。手を離そうとしたけれど、どうしてなのか抗えない。シャリ、と林檎をかじる音が聞こえた。
サクサクサクと噛み砕いて食べていき、しまいには指も舐めとられた。由以の舌がそんなふうに動くのを見ていて、心が揺さぶられる。
「好きじゃないの?」
声が震えた。
由以の境界線がどこにあるのか分からなかった。
友達として好きだから、口移しでも間接キスでもできるけれど、それはどこでラインを引いているのだろう。
「好きだよ」
「だって」
「茉里奈ちゃんの好きとちょっと違うだけ」
「かなり違うと思う……」
泣きそうな気持ちが一気にばらばらと散らばってしまう。
それでも好かれているだけ良いのかもしれない。
さすがに嫌われていると思ったことはないけれど、あまり夢を見たり願望を抱いたりしていなくてよかったということなのだろうか。
「可愛いね、茉里奈ちゃん」
よしよし、と頭を撫でられてしまう。
「ありがとう」
そんなふうに優しくされていると、単純に嬉しくなってしまう。そんな場合でもないような気がするのを抑えて、されるがままになっていた。
由以の柔らかな匂いを間近で感じていて、私は改めて彼女のことを想う。
私と同じ気持ちでいて欲しかったのだろうか、私はどういう関係性を望んでいるのだろう。
今までも仲が良くてずっと一緒にいて、お互いの気持ちや時間を共有したり、それだけでは物足りないから、他のことがしたいとか、他の人とは違うことがしたいとか、そういうことなのかもしれない。
それでも無理強いするわけにはいかないので、現状は林檎を食べたり食べさせあったりくらいしか出来ない。
それはなんだかとても淋しいような、それでいてときめくような高揚感があって、私の感情はとてもゴチャゴチャしていた。
「由以のばか……」
そんな恨み言を呟いても、何でもなさそうな顔をしている。
これではどうしようもない。
「でも好き」
気持ちを打ち明けたらやたら好き好き言うようになってしまったかのようで、自分でも可笑しく思う。私に向ける由以の笑顔がとても眩しく美しく見えた。それも錯覚なのかもしれない。
「さっきのもう一回したい」
「だめ」
「そうですか……」
「嘘、いいよ」
そう言って由以は最後の林檎のひときれをゆっくり頬張ると、そのまま食べ尽くしてしまった。
「今度はりんごじゃなくてコーラにしよ」
炭酸が噴きこぼれそう。
それからというもの、私と由以は林檎をよく食べるようになった。
美味しい林檎が一年中出回っていてよかったと感謝するくらいには、いくら食べても食べ飽きることがなかった。
果実そのものでもアップルパイでもタルトタタンでも、リンゴの果汁百パーセントのジュースでも何でも美味しく思う。
これが幸せという代物なのかはよく分からないけれど、今はこのままでもいいような、それくらい満ち足りた気持ちを抱えながら、ふわふわした覚束ないものをそっと手繰り寄せる。かたちもなく、不確かなもの。そのことにずっと救いを求めていたくて、私は心の扉を開いたり閉じたりしている。
ぼんやりとそんなことを考えていると、由以に名前を呼ばれる。
「茉里奈ちゃん、お腹空いた?」
「空いてないけど食べる」
由以は果物ナイフを手にして、するすると慣れた様子で林檎の皮を剥いていく。
赤い色の薄くひらひらしたものがだんだんと垂れていき、長い帯状になるのを見つめる。
「よく考えるともったいなかったかも」
「そう?」
「林檎の皮」
「皮食べるの?」
ふふふ、と笑われてしまう。
本気でそんなことを考えていたのではなかったけれど、由以が林檎を剥いているのを間近で見ていることが急にとても嬉しく感じられて、適当なことを言ってしまう。
「もう少し待っててね」
空腹のあまり皮を食べたがっていると思われている。
「すっごく美味しい」
私は由以が剥いてくれた林檎を食べながら、素直に味の感想を述べる。
由以は手がべたべたすると言いながら、ウエットティッシュで丁寧に拭っていた。
「手からりんごの匂いがする」
そんなに気になるものなのだろうか、私は少し不思議に思っていた。
「手洗う?」
「んー、いい」
「美味しそうでいい匂いだよ」
「茉里奈ちゃん、りんご好きだもんね」
そう言われるとなんだかそんな気もしてくる。その曖昧な違いを感じとりながら、私は林檎を口に入れていた。
林檎よりも由以が好きだからというのも変な言い訳に思えて、その言葉ごと飲み込む。
喉の中を通る感触、そうしてやがて消化されていくもの。
口内でずっと感じていたいと思っていてもその時間はとても儚くて、短い。そんな断続的なことを繰り返しながら、もっともっとと願うのも、永遠にできることでもない。
それでも私は唱え続けてしまう。由以は快く応えてくれて、そのことがとても胸に響いた。
かじりかけの林檎 sayaka @sayapovo
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