23歳の夜

「もお――っ、信じらんない!」


 夏織かおりは120%で感情を吐露すると、再び手に持った缶をあおった。


「……っぷはぁ! 葉月はづきもそう思わない!?」

「その前に、もう少し静かにね。前も隣の人から注意されたんでしょ?」

「うっ……そうでした」


 私がそう嗜めると、夏織はしゅんとなる。70%くらいだろうか。

 夏織の住むアパートは会社からも近くてそこそこの広さという優良物件だったが、壁の薄さだけが難点だ。


 とはいえ、お酒の入った夏織がボルテージの放出を止められるはずもなく、


「でもでも、葉月もひどいって思うでしょ?」

「わかった、わかったから」


 まったく、まだチューハイ1本しか飲んでないっていうのにこの酔いっぷり。なんてコスパのいい酔い方か。


「話を整理するけど」

「ふぁい! 葉月さん!」

「……。合コンで知り合った男の人と二人で出かけることになって、夜に食事をして――それからホテルに行かないかって話になった、と」

「ん! そのとうり!」


 大きく頷く夏織。そこからまた支離滅裂な愚痴が始まりそうになるのを制して、私は手に持った缶ビールをひと口飲む。

 ビールは苦手だった。お酒を飲めるようになってから5年ほど経つけど、まだ一度もまともに酔えたことはなくて、むしろ口の中に広がるビールの苦味は私を酔いから醒まさせた。


「夏織の言いたいこともわかるけどさ」

「うん! うん?」

「私たちだってもう大学出て社会人で、大人なんだから。そういうお誘いの一つや二つあるのはおかしくないわけで」


 そして、昔のようにいつも私が近くで見守ることができるわけでもない。


「そんなわけだから、断りたいときはスパッと断るようにすること」

「うぅ……はあい」

「ま、相手もそこまで悪気があるわけじゃないんだろうし、綺麗さっぱり忘れたら?」


 そう言って、テーブルの上のポテトチップをつまむ。テーブルを挟んで向かい合っての恋バナは相変わらず恒例行事となっていた。といっても夏織の話ばかりだけど。


「でもでもー! なーんか『コイツ馬鹿っぽいし押せばいけるんじゃね?』的な雰囲気が漂ってるんだよー。そんなにお馬鹿か私はー?」

「んー、まあ夏織の魅力のひとつではあるかもね」

「えぇー、葉月ってばひどいよー。こーなったら今日は飲み明かすしか」

「やめなさい。そう言ってもどうせ寝落ちして遅刻しそうになるんだから。嫌だからね、同じ会社だからって二日酔いの人の介抱しながら出社するの」

「はぁーい」


 そう言いつつも新しいチューハイを開けようとしていたので取り上げる。すると「うにゃあ」と水を浴びたあんパンヒーローみたいに脱力してテーブルにしなだれかかる。今まで何度も見てきた仕草。だけど私は思わず小さな笑みがこぼれる。


 高校を卒業し、同じ大学に進学し。奇しくも同じ会社に勤めることとなった私と夏織の関係は、大きく変わってはいなかった。多少変わったといえば、夏織の愚痴につきあってこの部屋に泊まることが増えたくらいか。


「はーあ、なかなかうまくいかないなあ」


 そして彼女の恋路もまた、目立った変化を見せることなく似たようなことの繰り返しだった。……一体誰がそれを望んだのか。


「みーんな私のことを見てくれてるかんじがしないんだよなあ」

「そりゃあ、人間関係っていうのは一朝一夕ではどうにもならない部分もあるからね」

「わかるよー。わかるんだけどさー」


 目がとろんとしてきている。これはそろそろ寝落ちかな。そうなる前に起こしてあげないと。


「夏織、寝るならちゃんと化粧落として――」

「もう、ほんとに葉月と付き合っちゃいたいなあ……」


 そんな言葉が聞こえてきて、私は硬直した。

 見れば、夏織はテーブルから身体を起こしてこちらをじっと見つめている。


「……ね、試しにさ。付き合ってみる? 私たち」

「い、いやいや。何言ってるの。酔いすぎよ」

「酔ってませーん。わりと私、本気で言ってるんだから」


 葉月ならずっと一緒にいるから私も安心だし、葉月も知らない人よりずっといいでしょ、とメリットばかりだと言わんばかりに挙げてくる。


「わかってるの? いくら私が男っぽいっていっても、女なのよ?」


 どれだけ身長が高かろうが、どんなに男っぽくても、私は生物学上の女に属する存在だ。


「いーじゃん、お試しなんだし。それに高校生のときと違って、今はそーいうのにも寛容な世の中になってきてるし」


 だけど、香織は自身の提案を曲げようとはしない。お酒が入っていつもより強情になっているのか……あるいは本音をさらけ出しているのか。


「ねえ、葉月」


 私を呼ぶ。いつになく、水分を帯びた声で。


「こっち、来てよ……。葉月はいつも私の隣じゃなくて、正面に座るじゃん。テーブルがあると遠い気がするの」


 瞳も、頬も潤んでいる。化粧などではない。彼女の心の変化が外に表れているのだ。


 ――――だけど。


「……ダメ」


 私は思わず、残ったビールを飲み干した。瞬く間に苦味が沁み渡り、私を冴えさせる。


「私はこれを、越えることはできない」

「なんで?」

「……そう、決めてるの」


 呟いて、テーブルを撫でる。それは部屋のテーブルかもしれないし、ファミレスのそれかもしれない。


「これはね、テルミヌスなの。私にとっての」

「テル……なに?」

「境界。決して踏み入ってはならない、不可侵の領域への」


 私と彼女を隔てるテーブル。私が必ずつくるようにしていた、境界を示す標石。


「葉月は、私といるのは嫌なの?」

「そんなことない。あなたといるのが、一番楽しい。でもね」


 こうなることを幾度となく夢に見た。こうなればいいな、と数えきれないくらい思い描いた。

 私はあなたが好き。大好き。

 だけど、だからこそ。


「私はあなたとは付き合うつもりはないの」


 あなたには、普通の幸せを掴んでほしいから。

 そして私は、一番近い場所でそれを見られればいい。特等席で、見届けたい。

 私の人生は、そのためにある。

 だから私は己のすべてを胸の内に秘め、そっと蓋をする。


「ん……そっか……」


 潤んでいた目は、もう半分以上閉じかけている。私の言葉より、酔いの方が勝ったみたいだ。それでいい。


「ほら、ちゃんと寝ないと風邪引くよ?」

「ふぁーい……」


 返事だけして、夏織はテーブルに突っ伏す。間髪を入れずに小さな寝息が聞こえてきた。


「……おやすみ」


 そう声をかけてから、私はクッションで即席の布団を作って横になる。もちろん、彼女とはテーブルを挟んで反対側に。


 ああ、この調子だと明日の朝はドタバタで会社に行くことになるだろうな。泣きつくような表情を見て。思わず笑って。しょうがないなと言いながら。


 考えながら、私も眠りにつく。ビールを飲んだおかげだろうか、すぐに寝つけそうだ。今夜はいい夢が見れるといいな。


 そうして何度目かの二人だけの夜が訪れる。

 いつものように、決して境界を侵すことなく。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

テルミヌスの標石 今福シノ @Shinoimafuku

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説