ざくっ

久賀池知明(くがちともあき)

ざくっ……ざくっ……

 私が住んでいる岡部マンションは築27年と割かし新しく、ファミリー向けな事もあって子連れの入居者が多い。近くには隣接する小中学校もあり、夜でも煌々と街灯が照らし続けているために、体感ではあるが、犯罪の数も少ないように思う。近所の噂好きのママ友たちに聞いても「だいぶ前に酔っ払いが道に飛び出した」くらいしか話に上がってこない。それほど平和な街だった。


 このマンションに決めたのもその安心が理由だったし、現に住み始めてから半年が経つが、事故も事件も若者の小うるさいバイクの音も無い。春になると虫のように湧いてでてくるのが一般的だと思っていたが、この街ではそういった心配もしなくて良いと安心した。


 夏になるとインドアの私は5歳の娘とともに部屋の中で過ごす。アウトドア派の夫がいれば公園だったりレジャーつ施設に行くのだが、私自身としては家でのんびり絵を描いたりテレビを見ている方が性にあっている。娘は娘で保育園で習った歌の練習で大忙しらしい。「忙しい」と言うのは私の口癖で家事に追われている時によく使う言葉で、最近よく真似しては私に叱られている。

 その娘が何か音が聞こえる、としきりに訴えるようになったのは八月に入ってからの事だった。初めはただふざけているのだろうと「そうだね」と合わせていたが、あまりに何度も言うので仕方なく付き合ってみる事にしたのだ。

 マンションは1フロアに3住戸ずつで12階と屋上がある割りかし大きめの物件だ。間取りはどの住戸も2LDKで、玄関から入ってすぐ右手に浴室とトイレ、左手は娘とこれから産まれる子供の為の洋室、その一つ奥が夫婦で使う和室。廊下を挟んだ洋室の前がキッチンで、キッチン・廊下・和室に繋がっているのが14畳程あるダイニングとリビングだ。


 問題の音は子供部屋になっている洋室から聞こえるらしかった。


 娘に連れられ部屋へと入る。娘の話によると、夕方5時を回り数分経ってから音が鳴り始め、五分もしないうちに聞こえなくなると言う。それに何と無くスコップで穴を掘っているみたいだ、とも言う。想像したのは課外授業で農家にお邪魔して、ジャガイモを作りそれを掘り起こす光景。大人になって土をいじる経験などそうそうしてこなかったので、思い起こされるのはそういった小さい頃の思い出だった。丁度娘も6月の下旬に体験したばかりだったので、脳内で音楽が再生されるみたいに掘る音が流れているのだろうと適当に考えていた。


 5時を回り娘に手を引かれるまま、二人で娘のベッドに座った。1秒1秒針が進んで行くのを見つめながら音が聞こえてくるのを待っていた。


 そして時計の針が10分を刺そうとした時、カチコチという音に紛れて例の「掘る様な音」が聞こえてきた。ザクッ、ザクッと等間隔のリズムが子気味よく部屋に反響する。娘から「ね?聞こえるでしょ?」と私に訴えの目を向けられ、ごめんの意味を込め頭を撫でた。大体10秒に一回程度で二、三分続き、パッタリと消えた。


 子供部屋はマンションの南側にあり、玄関を出てすぐ右に行くと階段がある。住んでいるのは7階なので人が通るとは中々考えにくいが、ないでもない。

 私もエレベーターの故障の時には7階まで登った事がある。

 しかし5分に渡り人がそこを通り続ける、もしくはその数段を昇降し続けるなんてありえない。

 実際にそんな人物がいるのだとしたら、すぐにでも管理会社か警察に電話して対処して貰わなければ。

 夫の帰宅を待って相談した後、翌日すぐに管理会社に連絡した。


 結論から言えば気のせい、考えすぎの線で話が片付きつつあった。連絡を入れてから半月が経っても該当しそうな人物や業者も発見出来ず、私自身も全く音を聞く事も無かった。その為私含め夫や娘の頭の中から抜け落ちるのに、あまり時間は掛からなかった。


 それから凡そ一年が経ち、8月がまたやって来た。



 娘は年長組に上がり、9月にお遊戯会で発表する劇の練習をしているようだった。

「ああ、どんどん眠くなってしまったわー」

 本人はバレていないつもりなのだが、どうやら眠れる森の美女をやる事に決まり、しかもオーロラ姫の役を当てられたらしいのだ。部屋に見に行くといつも

「来ちゃだめー!」

 と部屋から追い出されてしまう。あまりやり過ぎると拗ねてしまうし、楽しみは本番に取っておかなければ。

 昼の3時を過ぎて部屋からは物音がしなくなった。昼ごはんを食べてからずっと部屋に籠りっきりで練習していた様だったし、いつも保育園では3時頃にお昼寝があるから習慣的に寝てしまったのだろう。これからスーパーにでも行こうと思っていたが、今日は残り物でどうにかすれば良いし、今のうちに私も軽く寝ておこう・・・・・・。



 ふと目が覚めたとき西日が部屋に差し込んでいた。目覚ましを掛けていたはずが、いつの間にか電源が落ちていたらしい。窓の外は夕立でも降ったのか、レースのカーテンを突き刺す夕日はいつにも増して赤く、角度を変えれば鈍い青も含んでいる。

 こんなに寝るつもりはなかったのに・・・・・・早く夕ご飯の支度をしなければ。ぼやけた頭で献立を考えながらのそのそと起き上がり、キッチンへと向かう。

向かうのだが、思う様に足が前に進まない。作るのが億劫というのも無くはないがそれはいつもの事であって、今日に限った話ではない。漠然と空気が重い気がするとか床がネズミ捕りみたく粘着質な気がするとか、そういった錯覚による物だろうとは思う。まだ頭が覚醒しきっていないだけ・・・・・・。

 昨日の残りで、いや、冷凍したお肉を使って・・・・・・一先ず冷蔵庫の中を見れば何か思いつくだろうと、冷蔵庫の取っ手に手を掛けた。

 その瞬間、足元から頭の先までぶわぁっと悪寒が走り抜けた。それまでのぬるりとした纏わりつく様な空気が一転、重く鋭いものに変化して私の背中を殴り付けた。

 それは音だった。何処かで聞いた事のある、私の古い記憶にもある、しかし何処にでもありそうな音。振り向けばそこは子供部屋だった。


ざくっ


 また私を殴り付けた音は以前聞いた時よりもより鮮明に、より力強く響いていた。


 ふと、それまで照らす事をすっかり忘れていたかの様に、紅い夕陽が子供部屋に差し込んできた。私の部屋を紅く染め上げたあの夕陽と同じ、燃えるように赤く、冷酷な青と吸い込まれそうな黒を纏った夕陽。

 その光によって、室内の人物の輪郭が影となってガラスに映し出された。天井を見上げたまま微動だにせず、ベッドの上に座り込んでいる。


 何だったか・・・・・・そう、ダンスの練習をしていたんじゃなかったか。疲れて寝てしまったと思ったが起き出したのだろうか。にしては妙な感じがする。娘ではないものの気がしてならない。

 一回りか二回りは大きい・・・・・・

 光の関係かもしれないとも思ったがそうではない。明らかに体が大きい。

 夫か。今日は早く切り上げて帰宅してきたのか。いやしかし夫が帰宅するのは大抵8時を過ぎてからだ。朝からそんな事は一言も聞いていない。だったとしても聞いた事はないのだが、彼の纏う空気ではない。

 ではこの影は一体誰なのだ。


 体は自然と動いていた。シンクの上の包丁を掴み取り、真っ直ぐに駆ける。

 例え刺し違えようとも娘だけは。それしか頭に無かった。そこには恐怖を越えた、恐らく愛や母性本能と呼ばれる力が働いていた。

 重い空気の膜を裂き、子供部屋のガラス戸をこじ開ける。



 どう・・・・・・説明したら良いだろうか。

 いや、一言で済む話なのだ。ベッドに座り込む人物が誰かなど、それでしかない。


 そこには紛れもなく私がいた。


 幽霊の様に半透明ではなく、鏡の様に今の服装と瓜二つ。違うのは、正座する私の下半身が、眠る娘の下半身と同化していることだ。

 同化ではなく貫通と言ってもいい。恐らくこの私には実体が無く、娘の下半身が私の膝から下までを突き抜けて、ちょこんとその小さなつま先が見えているのだろう。

 先週だったか、義母がプレゼントした蛍光オレンジ一色の靴下・・・・・・


ざくっ


 どこからともなく例の音が響く。

 写し鏡の私がゆっくりと右手を上げる。

 その手には同じくぬらりと鈍く光る包丁が。


ざくっ


 左手を添え、胸より高く構える。

 いつでも振り下ろす準備は出来ている。

 しかしその包丁が娘に向けて振り下ろされる事は無い。

 代わりに実体のない涙がボタボタと、娘に向かって止めどなく落ちていく。


ざくっ


 行き場を失った刃先はすっと私の胸へと吸い込まれ


「ママ!」


 私は目を覚ました。



 傍らには泣きじゃくる娘がいた。

 何も持っていなかったが、ゴムグリップの吸い付く感触と押し返す肉の柔らかさは、この手の中にあった。


 夫が帰宅してすぐに体調が悪いと告げて、私は部屋に閉じこもった。


 あれは現実だ。

 リアルな夢を見るとその感覚が残っていたり、体の作用として例えばお漏らししてしまうとか、そういう事だと決めつける事は出来る。でもそうではなくて、荒唐無稽だと言われるかもしれないが、あれは私から抜け出た私。


 娘を殺したい私と、守りたい私。


 幽体離脱した私の意識だか魂だかが、娘の部屋でせめぎ合っていたのだ。

理由など挙げようと思えば幾らでもある。しかしそれはどうでも良い。

 私はただただ恐ろしく、身体の震えが止まらなかった。



 翌日には娘はこの出来事をすっかり忘れ、発表会の練習に打ち込んでいた。屈託の無い笑顔を見れば昨日の事が本当にあったなど微塵も思えない。これだけの幸せを感じているのに、娘を殺そうなんて・・・・・・。

 ふるふると頭を振って、思考の外へと無理矢理追い出した。来月になれば晴れ舞台が見れるのだから。





 翌年。

 とあるマンションの一室で、雨上がりの夕焼けの様に真っ赤に染まった母子の遺体が発見された。

 夫は取り調べに対して

「そんな素振りは無かった。関係は良好で親戚とも仲良くしていたし、悩んでいる様には見えなかった」

 と話している。

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ざくっ 久賀池知明(くがちともあき) @kugachi99tomoaki

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