一枚ラバー
馬人
第1話
テナジーというものを皆さんはご存じだろうか。
テナジー。TENARGY。
テナジーというのはラバーだ。
……、ラバーというのは、卓球のラケットについているゴムみたいな部分で、
卓球というのは……、まあ、さすがに、これはみなさんご存じだと信じたい。
テナジーはラバーだ。すごく高く、すごく厚く、すごく重く、すごく凄い。
私は昔テナジーに憧れていた。周りのみんながおしゃれな服や、魔法少女の返信道具や、携帯ゲームをねだる中、私はテナジーが欲しかった。
どうしてだったのかは、よく覚えていない。先輩が使っていたからだろうか。
たぶん、そうだったと思う。
今ではもう、そんなことを思うことはなくなったけど。
「まーい」
ぐるぐると、思考の回る脳の中、豆腐に指を差し込むように穂香の声がしみこんできて、私はそっと目を開ける。視覚。その次に聴覚と、感覚が眠りの沼から上がって来て、私の思考を、クーラーのききが悪い体育館へと押し戻してくる。
「おはよう」
視界の先には、皆城穂香の顔があった。いつもは長く伸ばした髪を一つに結んで、普段隠れている首元がすっきりとしている。
「……、おはよう」
視界の先には、半分以上かたづいてしまった、試合会場だったものが残っている。県総体使わなくなった卓球台は小さくたたまれていて、それだけ涙をのんだ人間がいる事実を無言で告げていた耳に入るのは、体育館の床を擦れるゴムの高い音と、それから台をはねるピンポン玉の乾いた音。試合の日特有のざわざわとした雰囲気の中でも、射抜くようにそれは聞こえて、自分がいま戦場にいるのだということを様々と思い出させる。
「また一人で寝て……、先生にどやされても助けてあげないからね」
呆れた様にそう言って、彼女はひらひらと手を振って歩き出した。
視線を下に向けると、ちょうど前の台の子が撃ったスマッシュで、試合が終わったところだった。そう遠くないうちに私の出番だ。
相手の名前は、頭に叩き込んである。
「行くか………」
私は意を決して立ち上がった。
県総体、準決勝。
戦う相手は、村上汐里。
高校3年間、結局一度も買い替えなかった相棒を手に取る。
ラバーは数えきれないくらい張り替えた。
今そこには、テナジーが貼られている。
母親が大学から趣味で続けている卓球というものに、幼い私が興味を持ったことに、たぶん大きな意味はない。せいぜい親の真似事か、或いはそれを親が喜ぶ程度しかなかったはずだ。ただ、4月生まれだった私は、同学年の中では少しだけ運動神経がよく、少しだけ発達が早く、少しだけ大人びた子供だった。
だから、練習すれば皆よりも前に行けた。それが楽しくて練習をもっと頑張った。母は、そんな私を近所の卓球教室に連れて行った。彼女が相手をするには、少し練習量が足りなくなっていたからだ。そう聞いたのは10歳のころだったと思う。
私にとって幸運だったのは、そこが日本有数の卓球教室で会った事、母親が背を押してくれたこと、そして、体の成長が期待についてきたことだ。
テナジーに憧れたのもそのころだった。かじりつくように大会を見て、世界卓球の舞台に憧れた。卓球で最もオーソドックスな戦い方が、私の戦闘スタイルだ。両面裏ソフトのシェイクハンドラケットが私の武器。母からも、先生からも値段と実力の両方から止められていたテナジーは、その中の最高峰の武器だった。すごく高く、すごく厚く、すごく重く、すごく凄い。その半額の軽いラバーを必死で振り回しながら、先生と一緒にテナジーに耐えられる体を作っていくのが、そのころの私の目標だった。
汐里と出会ったのは、そんなころだった。
腰ほどの敷居を少しずらして、準決勝のコートに足を踏み入れる。もうそのころには、汐里は手持無沙汰なようにラケットにボールを弾ませていた。彼女はいつだって試合に来るのが早かった。そのくせ遅く来た相手に文句も何も言わない。変だよ。と言ったことがある。返事は私が後から来る方が嫌なんだ、だった。いまだに意味はよくわかってない。
汐里は変な奴だった。初めて会った時からずっと。お互いにそれなりには強くて、だからまあ、それなりにライバルで、それなりに反目していると思っていたけど。
彼女は、そうではなかったんじゃないかなあ、と。
コート越しに手を振る彼女を見て苦笑しながら、私は思う。
汐里と出会ったのは小学4年生の時だ。私の通っていた卓球教室は、土曜日以外好きな曜日に練習ができるよくわからないシステムを取っているとこで、汐里は私が入っていない曜日に練習を入れ始めたというやつだった。小学四年生は、卓球教室の新入生としてはかなり遅いし、それをみんなわかっているから珍しい。だから両方の日に通っている友人から聞いた時も、すぐに辞めるだろうな、と思っていた。
顔を合わせたのは月に1回行われる全体練習の日。ただ、全体練習とは名ばかりで、ここで行われるのは試合だけだった。教室に通う、同学年の子たちを選別しランク付けする、趣味の悪い場所だ。ただ、子供はそんなことは考えない。私なんかは、むしろ先輩のテクニックを痛感できる場として楽しみにしていた。
総当たりの試合の中で、当然件の汐里ともやりあうことになった。小柄な体に、幼さの残る顔。一瞬同学年であるか疑ってしまったが、試合前のラリーで違和感はさらに強まった。変な打球と、変な音。変な奴だ、と決めつけてラケットを交換し、私はその理由に気が付いた。
古びた、日ペンのラケット。
片面だけに貼られているラバーは、ただただ薄い一枚ラバーだった。
私がその時憧れていた、テナジーとは真逆のラバー。
薄くて、軽くて、すごく安い。
思わず相手の顔を見た。汐里はとっくの昔に私のラケットを見終えていて、ほおけた私を照れくさそうに見返すだけだった。
その日、私は汐里には勝てなかった。
同学年では、初めての事だった。
玉の弾む音と、靴のすれる音だけが、耳に入る。カツカツと、時計の秒針のように音が刻まれるだけの、この試合前のラリーの時間が、私は好きだった。汐里の玉は、素直な回転をしていなくて、集中しないとラリーを続けるのも難しい。それでも無視して、私は自分の玉を打ち込む。私と同じような人なら、同じように自分の玉をぶつけ合うことになるし、汐里と同じように変な球を投げつけてくる人もたまにいる。卓球への姿勢が見える。
汐里のそれは、変な回転で、不格好で、相手の都合なんか考えない。考えないけど、まっすぐで、何かにおびえているようにも感じる。相手に合わせるのを、怖がるような。
だけど、いや、だからこそ。それはどこまでもまっすぐだ。
私の卓球は、もっといやらしい。相手の回転を考えて、それに負けないように回転をかけ返す。相手に決して逆らわないようにして、相手のスキを待ち、時には自分から主張して、相手を置き去りにする。これが卓球のオーソドックスだというのだから笑えてしまう。
ネットスポーツは性格のいい奴にはできない。なんて監督は笑って言っていたけれど、それは本当にそうだと思う。私も汐里も、嫌な奴だ。
汐里はいい性格している奴で、私は陰湿。
噛み合わないのは仕方ないのに、二人の間を玉だけが往復している。
結局それが、私たちの全てだった。
私が打った球を、こん、と上にあげて、汐里は台の下からタオルを取り出す。たぶん100回打ち合ったはずだ。昔から彼女は生真面目だったから。
お互いのこれまでをさらけ出すようなラリーは終わって、これからは本格的に相手を蹴落とすための試合が始まる。
台の横、お互いに歩み寄ってラケットを交換する。
ずっしりと重い私のラケット。軽すぎて笑ってしまう彼女のラケット。
卓球教室をやめてから、試合でしか触らなくなった彼女のそれは、しかし試合の度に触っているから、もう確かめることなど何もない。汐里もラバーの銘柄だけ確認してそっと私にラケットを戻してきた。
「真衣ちゃん、あのね」
「うん?」
試合前だけれど、多少会話するくらいならだれに止められるものでもない。
だから、それくらいの会話は、私達の間では普通だった。
「私、高校で卓球やめるから」
思わず振り返ると、汐里は相変わらず困ったように笑っていた。そう。と短く答える。
いつかはこんな日が来るんだろうな、とは、思っていたから。
ねえ、待ってよ、という後ろから聞こえる声を無視して、私は歩く。よりにもよって彼女と出会うなんて、というのが、その時の私の正直な気持ちだった。今から6年前。小学6年生の、3月。誕生日まで、あと1週間という時だった。
「待って」
今一番顔を見たくない女は、こういう時には誰よりもしつこくて、強情だった。いつも台にかじりついて練習をしているくせに、そんなものよりも大事だって、その眼がそう訴えている。腹が立った。
「ねえ、真衣ちゃん」
つかまれた手が、じんわりと熱い。それは断じて私のものではなく、彼女の持つ熱量の表れだ。その熱さに、私は苛立ちを隠せなかった。なに。と短く尋ねる。
「ここやめるって、ほんと?」
消え入りそうな声で、汐里が尋ねる。
「そうだよ」
「なんで?」
理由ならいくらでも上げられる。少なくなっていく伸びしろ、鈍くなる成長、自覚していく才能。そのどれもが小学生の私には苦痛だったし、何よりも、それを自覚させられるのが耐えられなかった。
コーチとの、マンツーマンの時間。監督からの直接指導。お金を払っているからと言って、あの人たちも事前作業で指導しているわけではない。私たちの成長よりも、大事なものがあの人たちにはある。それは、チームの成績だったり、個人の成績だったり、様々だ。
低学年のころ、コーチたちは私につきっきりだった。それがだんだんと少なくなって、そのころは、機械と向き合って練習を終える日まであるようなありさまだった。足りないのは、才能で、体で、技術だ。知識じゃない。だから、体を動かす方が大切だ。理屈は、理解できた。12歳になって、練習を任せられているのだという事も、理解していた。
『そうかい。……すまなかったね』
でも、今の挨拶の時も、先生は引き留めることはなかった。
去年IHに行った先輩は、12の時にやめようとして、滾々と諭されたのだと言う。
しいて言うなら、それが理由だった。
いや。
「……。なんでも」
そう、短く答えても、汐里の手ははなれなくて、ただ無言のまま、私の手を握っていた。
「先生、言ってたよ」
「何を」
「卓球、続けなよって」
ああ、そうだった。なぜか謝罪した後に、先生は確かにそう言った。
でも、ここをやめるなとは言わなかった。
汐里は、そのまま袖をつかんで何も言わない。もともと物静かな奴だった。だから、なんと言ったらいいのか分からないのは、理解できた。嫌だった。
「あんたさ」
口が滑ったと、未だに思う。嫌な奴だと、今も思う。
「なんでここ続けるの?」
それは、ちょっとした意趣返しのつもりで、自分への嘲りのつもりで、ついでに言えばあきらめのつもりだった。
汐里は変な選手だった。世界大会に一人もいないような戦法のやつだった。
コーチは、初めから見向きもしなかった。監督も、指導は楽しそうにしていたけど、力は入れてなかった。期待は、私以上にされてなかったはず。そんな汐里に、私は5分の勝負しかできなかった。だから、聞きたかった。あなたは何で、ここで卓球を続けたいのか。どうせいつかはやめるのに、と。
「それは」
困らせるかな、と思ったのに、返事はすぐに返って来た。
「楽しいから、じゃないの?」
彼女の顔を見る。そこにあったのは私の方を見つめる黒い眼だ。彼女の顔はそれだけでできているはずはないのだけれど、これだけが何故か記憶の中に残っている。吸い込まれるような、黒く、深い、瞳孔。私に合わせた反応ではない。私を説得するための言葉ではない。私に合わせた回転ではない。
村上汐里は、いつだってまっすぐだった。
汐里は結局教室に通い続け、私はやめて、中学の部活に入った。本当は、部活でも卓球を続けようなんて、思っていなかったのだけれど、7年間やっていたものを簡単に辞められる勇気は結局私にはなく、ずるずるとここに居続けている。
私も汐里も、よく似た実力を持っていたから、試合で最後か、その一つ前に当たるのはいつも彼女だった。練習試合みたいだ、とは彼女の談で、不本意ながら全くもって同意だった。敵同士で、違う服を着て、でもおんなじ台の前で、二人して相手の事だけを考えている。
「汐里」
試合の時には、それに集中したかったから、試合の前に彼女が話すことはあっても、私から声をかけたことはなかった。ラリーで何が言いたいかなんて、分かってしまうんじゃないかなんて、夢見心地で考えたりもした。
でも、今は何もわからなかった。だから、口に出した。
「理由聞いてもいい?」
驚いたように振り返った、瞳が揺れた。そのまま、少し考えるようにして、汐里は口を開く。
「なんでも、だよ」
そっか、と答えた。それ以上は聞かなかった。
「ラブオール」
悔しさのためか、目をはらした審判が点数を読み上げる。汐里も私も台の両端についた。台の対角線、4mと少しの距離を挟んで向かい合う。
私は大学でも卓球を続ける。それで大学も決めた。だから、もちろん汐里も続けるものだと思っていた。あの子は口下手で、それなのにまっすぐだから、今の言葉はたぶん嘘ではないんだろう。だからきっと、これは汐里との最後の試合だ。
考えて、一瞬体を包みこんだ緊張は、試合の高揚感の前にすぐに溶けて行った。台でピンポン玉を弾ませる。カッカッという固い音。それを宙へと放り投げる。落ちてきた玉の下を捉える。ずっしりとした、ラケットとそれに張り付いたテナジーの重みが、ボールに回転をなじませてすぐに離れる。風が吹けば飛んで行ってしまうような軽い球は、セオリーを無視した汐里のスマッシュで、何倍の速さにもなって返って来る。
私が辞めると言った時、汐里はすごく悲しそうだった。
私は今、どんな顔をしているんだろう。
回り込んだ姿勢から勢いよく打ち込まれた球は、逆側の台に叩きつけられて、私はそれに手を伸ばす。そうして、そのままそれを台に叩きつけた。
賭けに出るようなカウンター。私らしくない。
台の真ん中に戻ろうとしていた汐里は、虚を突かれる形になって、バックハンドでそれを受けざるを得なくなる。体の前、ラケットとへそが重なるような位置にボールが叩きつけられて、上回転を殺し切れず、それが高く宙に浮いた。
高く上がった白い点を、目で追う。と同時に相手の位置を確認するように汐里を見ると、彼女の驚いたような顔と目が合った。瞳に映った、泣きそうな自分の顔が見えるようだった。
自分にないものを持ってくれていると、心のどこかで思っていたのかもしれない。あの時にやめなかった自分を相手の中に見ているような。たぶん、結果は何も変わらなかったんだろうけれど。
もう一度玉を叩きつける。今度は、汐里は反応しなかった。
ボールは台に叩きつけられて、点々と床を転がっていく。
それを、見て、汐里は困ったように笑っていた。
一枚ラバー 馬人 @nastent
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