第5話

「私知ってるんだよ、無くしたっていうのは嘘だってこと。本当はいじめっ子に隠されたんだよね」


 楓の口から出てきた衝撃的な言葉に、私はどう反応すればいいのかわからなかった。

 悔しさ、惨めさ、申し訳なさ。近い言葉は出てきても、感情を形容するのに最適な言葉が見つからない。


「ごめんねお姉ちゃん、嫌なこと思い出させちゃって」

「気にしてないよ、もう昔のことだから」

「そっか、ふーん……嘘つき。気にしてるから普通にこだわってるんでしょ?」


 突然鋭い声色が突き刺さってきて、思わずハッとなってしまう。楓の言う通りだった。

 普通であるということは、集団の中で身を守る鎧になる。私がそう気付いたのは、まさに七年前の出来事がきっかけだった。


 母を亡くしたばかりの私は、当たり前だと思っていた幸せが失われた事に絶望していた。

 普通の幸せ。みんなはそれを持っているのに、私は持っていない。その事実に耐えられなくて、私は周囲の人間を羨み、拒絶した。

 人間関係は脆く崩れ去り、それからどうなったかは楓も知っている通りだった。


 自分が未熟だったというのもわかっている。ただ、私が普通のままでいられたのなら、こんなことは起きなかった。

 楓に普通であって欲しいと願うのは確かにこの時のことがきっかけだった。


 しかし、ここで一つの疑問が浮かぶ。ここまで知っていて、楓はなぜ普通の姉妹に戻ることを拒絶するのだろうか。

 その疑問をぶつけると、楓は悲しそうな表情で私を見つめてきた。どうしてそんな表情を見せるのか、私には全く見当がつかない。


「ねぇ、お姉ちゃんは普通の姉妹なってどうしたいの?」

「どうしたいも何も、普通にしてれば他人から傷つけられなくて済むから――」

「違うよ。それは私のことでしょ? 今はお姉ちゃんのことについて聞いてるの」

「私? それは……」


 どうしてか、何も答えが浮かんでこなかった。空の箱にいつまでも手を突っ込んでいるみたいで、もどかしい気持ちになってくる。

 普通の姉妹という漠然としたイメージ、なんとなくそれを求めていた。しかし、今の姉妹関係が終わったとして、私はどんな自分に変化するのか、それについては全くの白紙だった。


「やっぱりね。どうして何も浮かばないのか教えてあげようか? お姉ちゃんにはね、もう自分というものが残ってないんだよ」


 楓の透き通るような声は、空洞に響くみたいに私の全身を駆け巡っていった。私が空っぽであることを証明されているようで、強引に納得させられてしまう。


 そうか、そうだった。私は七年前、自分を殺したんだった。

 あの時は毎日が憂鬱で、不安で、大切にしていたお母さんの形見まで奪われたりして、何もかもに絶望していた。

 妹の前では涙を見せちゃいけない。あの日の私はその誓いすら忘れて、たった一つの願望を反芻していた。


 お母さんのところへ行きたい。


 なんて状態で家に帰ると楓が待っていて、見たことないくらい必死な表情で何かを訴えかけてきたのを覚えている。そのあと彼女は急に飛び出して行ってしまって、私は呆然と立ち尽くしていた。


 ふと我に帰って、ベランダへと出る。マンションの五階だった。下を向くと結構高くて、少しだけ怖い。

 そんな中で視界に入ってきたのは、先ほどまでここにいた実の妹だった。思い切り転んで、アスファルトで膝を擦りむいていた。


 私が死んだのはこの時だ。もう自分のことなんてもうでも良くなってきて、ただただ妹のことだけが脳内に広がっていった。彼女を置いていっていいのかと。

 姉としての責任を感じた。そう言えば聞こえはいいが、改めて思い返すとあれは押しつけに近かった。自分自身の存在価値を、楓に全て背負わせたのだ。

 私はこれから彼女のために生きる。そうすれば自分の問題と向き合わなくて済むから。


「ごめんねお姉ちゃん、嫌なこと思い出させちゃって」


 私は首を横に振る。

 楓はいつの間にか涙を流していた。あの時の私の姿を思い出して不安になっていたのだろう。私の腕を掴む手からは、二度と離さないという強い意志が感じられた。


「わかったでしょ? お姉ちゃんの幸せは私たち二人だけの世界にしかないんだよ」


 頷かなかったが、それが肯定と受け取られることをわかっていてそうした。彼女に全て委ねることが、私の癖になっていた。


「信じてたよ。あの日と同じように、この公園までお姉ちゃんが迎えにきてくれるって」


 楓は優しく微笑んで、華奢な体を私に預けてくる。

 これがあの日の繰り返しなら、これからもう一つ大切な出来事が起きる。彼女はもちろんそれを知っているだろう。前髪を左右に寄せて瞼を閉じる楓。


 七年前は、衝動的にやったことだった。今はどうだ、頭は落ち着いている。

 やってみなくちゃわからない。私はそっと、楓の体を抱きしめた。

 黒い日傘が、止まったコマみたいに投げ出されていく。


「んっ――!」


 私は不意を打ち、唇に唇を重ねた。

 驚いたように見開く瞳。それが虚ろに変わるまで、呼吸を許すつもりはない。


 ごめん、と何度も誤った。楓には未来があったのに、私が道連れにしてしまった。

 私はずっと、楓のお姉ちゃんでいなくちゃいけない。そうする以外に道は残されていなかった。だって私は空っぽだから。自分の人生を生きることができない。

 妹が、楓がいなくちゃダメで、楓がいることで初めて生きる意味を持つことができる。他でもない楓自身が、それを教えてくれた。


 震える手足と、弱まっていく全身の力。ここまでするとは思っていなかっただろうか。

 でも、これからは普通でいることを諦めて楓のことだけを想うって決めたから、このぐらいは覚悟しておいてほしい。


 ありがとう楓。二人だけの幸せな世界に私を招待してくれて。

 最低なお姉ちゃんだけど、これからはずっと一緒だからね。

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