第4話

「楓が最初に覚えた言葉はね、パパでもママでもなくて『おねーちゃん』だったんだよ」


 お母さんはどうして、こんな言葉を最後に残したのだろう。未だに答えは見つかっていないけれど、多分「私がいなくなってもお姉ちゃんがいるから大丈夫」ということが言いたかったんだと思う。

 申し訳ないけど、それはなんの気休めにもならなかった。


 お母さんが旅立ってしまった七年前は本当に地獄だった。お父さんもお姉ちゃんも一人で重いものを背負い込もうしていて、末っ子である私が何か苦労しようものならそれは自分たちの力不足だと思い詰めてため息ばかりついていた。

 消灯の後、二段ベッドの上から啜り泣く声が聞こえてくる毎日。心配になって声をかけても、お姉ちゃんはいつも見えすいた嘘で誤魔化してきた。

 実際、そのせいですぐに気付けなかったこともある。涙の理由は全てお母さんを失った喪失感からきているものだと、そう思い込んでいた。


 これはあくまで想像である。お姉ちゃんは集団の中で器用に立ち回れるような人間ではない。だからお母さんのことで悩みを持ったまま周囲との関係を維持するのが難しくて、結果的に孤立してしまったんじゃないかと思う。

 そうして、次第に悪意を向けられるように。本当にくだらないと思うけれど、いじめなんてそんなものなのだろう。


 ある時、私の前では頑なに涙を隠してきたお姉ちゃんが真っ赤な目をして帰ってきたことがあった。何があったのか問い詰めたところ、お母さんの肩身である大切なハンカチを無くしてしまったのだと言う。

 それを聞いた私は、考えるより先に外へと飛び出していた。


 この世界に絶望して、今すぐにでも消えてしまいそうな、お姉ちゃんはそんな目をしていた。それが本当に怖くて、苦しくて。

 お姉ちゃんの心を繋ぎ止めるには、大切なハンカチを見つけるしかない。とにかく必死で、身体中に擦り傷を作りながら手当たり次第辺りを駆け回った。


 そうして、自宅から最も近いチューリップ公園でようやく探し物を見つけた時、私は安堵と怒りで吐きそうになっていた。でもそんな暇はない、一刻も早くお姉ちゃんに返さなくては。そう言い聞かせて再び走り出そうとする。

 その時だった。私と同じくらい土にまみれたお姉ちゃんが、公園に現れたのは。


「楓、心配したんだよっ!」


 強く強く抱きしめられる。どうも急に飛び出していった私が心配で、お姉ちゃんもずっと近所を探し回っていたらしい。

 窮屈な胸の感覚。それを味わいながら私は泣いた。お姉ちゃんの分まで泣いてあげるみたいに、込み上げてくるものをどうしても抑えられなかった。


 それから落ち着くまで、私はずっと抱きしめてもらっていた。

 ようやく顔を上げた時、「ありがとう」という声と共に額を柔らかい感覚が襲う。お姉ちゃんの唇だった。

 その時のお姉ちゃんはさっきまで目を腫らしていたとは思えないほどスッキリとした表情をしていて、何か心境の変化があったことは一目瞭然だった。


 キスされたことに戸惑いつつも、お姉ちゃんの変化について考える私。

 その時ふと、お母さんがこんなことを言っていたのを思い出した。子供が産まれてから、自分のことなんてどうでも良くなったと。

 その時のお母さんの表情と、今のお姉ちゃんの表情が重なって見えたことが、私を一つの結論に導く。

 お姉ちゃんは自分自身を捨てて、姉として私のために生きることを選んだ。それを生きる理由にして、苦しみから耐え抜く事にしたのだろう。

 その考察は間違いなく当たっていたと思う。


 それが正しい選択だったのかはわからない。ただ、その並々ならぬ覚悟はちゃんと伝わっていて、私もそれに応えたいと思った。

 そっちが完璧な姉として生きることを決意したのなら、私だって完璧な妹として生きたい。とびきりの甘え上手になって、お姉ちゃんからいっぱい愛してもらおう。

 額に残る柔らかい感覚に、そう誓ったのを覚えている。


 この日を境に、二段ベッドの上から啜り泣く声が聞こえてくることは無くなった。

 どうしても時々辛そうにしていることはあったが、私との関係がちゃんと心の拠り所となっているようだった。

 それが本当に嬉しくて、こんな毎日がいつまでも続けばいいと思った。二人で支え合って、どんな事があってもお互いを満たし合うことができる。私たちは最強の姉妹だった。


 ずっとこのままでいれば、中学生になっても、高校生になっても、幸せなままでいられるはず。

 そう、思っていたのに。


「私たち、普通の姉妹に戻らなくちゃいけないと思うの」


 お姉ちゃん、どうしてなの?

 私はずっとこのままでいいんだよ。姉妹二人だけの完璧な世界、それさえあれば他には何もいらなかったのに。

 どうして、お姉ちゃん――。

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