第1話【Hello】 B-side

 その店は、サリーの言う通り、たしかに近かった。FABファブから南西へ、3分程度しか歩いていない。

 民家の一階を改築したのであろう、欧州の雰囲気を漂わせる、小さな造りの店舗。

 サリーの後ろに愛那がついていく形で、入口の前に立っていた。

 小ぶりな木製の看板には、筆記体で“Nowhereノーウェア Landランド”の文字。店の名前であろう。

「のーうぇあらんど……?」

 日本語に訳するならば「存在しない場所」「どこでもない場所」といったところか。

 サリーが振り返り、付け加える。

The Beatlesビートルズの“Nowhereノーウェア Manマン”デスネ」

「のーうぇあまん」

 音楽に興味のない愛那には、なんのことを言っているのかわからず、オウム返しするしかない。

 サリーが木製の古びたドアを開き、二人は中へと足を運んだ。


 店内は、やはりと言うべきか、さほど広くない。

 正面のカウンターに三席、四人までなら座れそうな小さなテーブルが二つあるのみ。椅子やテーブルは、どれもヴィンテージ風の、古めかしい物だ。

 装飾品などはほとんどなく、その代わりかはわからないが、壁にはビートルズのポートレートがいくつか掛けられている。

 照明の具合なのか、店内全体が、やや暗めの黄色みがかった光に照らされていた。

 ひかえめな音量で流されているBGMが、愛那の耳に入り――


(あ、これ、ビートルズだ。なんて曲か知らないけど、ビートルズだ。どっかで聴いたことある)


 客は、一人。

 カウンターに、全身黒づくめの老紳士が背を丸くして座っており、ウイスキーグラスと向かい合っている。

 そして、カウンターの向こうでは、店主らしき日本人男性が頬杖ほおづえをついて、こちらを見ていた。

 白髪交じりの髪を短く刈り込み、丸眼鏡をかけている。年の頃は五十半ばといったところだろうか。黒い無地のTシャツが似合う、スリムな容姿だ。

「いらっしゃい。サリー」

 少しく高音だが、静かな調子の声で、店主が呼びかけた。

 サリーは、軽く片手を上げ、挨拶を返す。

Hiハイ、マスター。お元気デスカ?」

「まだ冷たくなっちゃあいないな。その様子じゃ、シティは勝ったか」

Yeahイェー! ゲキテキな逆転勝利デス!」

 途端に、サリーはカウンターの向こうへ走り寄り、店主に抱きつこうとした。

 店主が渋面しぶづらで身を引く。

「おい、ハグはよせ。ハグはだ」

 そこで初めて店主は、依然として入口ドア近くに突っ立っている愛那に気づいた。

 と同時に、ほんのわずかな驚きの色が、彼の顔に浮かぶ。

「サリーがここに誰か連れて来るなんて珍しいな」

 そのサリーはすぐに、愛那のもとへ戻り、彼女の肩を抱き寄せた。一体に忙しいと言ったらない。

CITYシティの勝利を喜んでくれマシタ! いい人デス!」

「ほう。よろしく、お嬢さん」

 愛那はぺこりと頭を下げ、

「あ、よ、よろしくお願いします!」

 と、やけに丁寧過ぎる挨拶を返す。


 それから、テーブル席に着いたあとも、愛那はこっそりと店内を見回していた。

 こぢんまりとした店内。静かなBGM。客の少なさ。サッカー中継も流していない。

 愛那にとっては、理想と言っていい。

 ここなら一人で気軽に来れそうな気がする。


(ここがサリーの行きつけかぁ。素敵なお店……)


 サリーも、愛那の好反応に、にんまりご機嫌な様子である。

 そこへ、カウンターの向こうから、店主の声がかかった。

「お二人さん、なんにする?」

 ぶっきらぼうな言葉に、頬杖をついたまま。お辞儀も愛想笑いもなく、テーブルまで注文を取りに来るでもなく、水もおしぼりも持ってこない。

 口うるさい者ならばSNSやグルメサイトに文句を書きそうな接客態度だが、愛那はまたほのかに、この店に好感を抱いてしまった。

 タッチパネルじゃないのなら、こういう店がいい――

 愛那がまたしても自分の世界に入りかけている横で、サリーは快活に声をあげた。

Lagerラガークダサイ。アナは?」

「えっ!? あ、えっと…… ラ、ラガーって普通のビールのことですよね?」

Yesイエス。フツー? のBeerビアデス」

「じゃ、じゃあ、私も……」

 やけにおどおどしている愛那を見かねたのか、店主は直接、彼女に声をかけた。

「お嬢さん。うちはサッホロだけど、いいかい?」

 初見しょけんの客ということもあり、一応気を遣ってはいるようだ。

 愛那は、グッと親指を立て、

「あ、はい! 大丈夫です! サッホロビール大好き!」

 酔いのせいか、緊張のせいか、多分におかしなテンションである。

 店主は数瞬迷ったが、受け流すことにした。

 そのままパイントグラスを手にディスペンサーへ向かい、実に手慣れた様子でグラスにビールをぐ。

 自己嫌悪のあまりテーブルにす愛那の横で、サリーがにこやかに言った。

「日本のビール、とってもおいしいデス。故郷のパブでも飲みたいくらいデスヨ」

 続いて二杯目のビールが注がれる中、サリーが店主に手を振る。

「マスター、Crispsクリスプスもクダサーイ」

「あいよ」

 ふと、愛那が顔を上げた。サリーが頼んだ、“クリスプス”なるものが気になったのだ。

 今まで聞いたこともない。日本ではなかなか食べられない、イギリスの変わった食べ物であろうか。

「くりすぷす?」

Uhアー、日本やUSAで言うPotatoポテト chipsチップスデス」

 なんと。正体はただのポテトチップス。

 国によって呼び名が違うというだけ。

「あ、そうなんだ。 ――ん? そういえば、フィッシュ・アンド・チップスのチップスって、フライドポテトのことですよね」

 愛那が思う、疑問とまではいかない引っかかりである。

Yesイエス、ワタシの国ではFrenchフレンチ fryフライChipsチップス言いマス」

「ふれんちふらい」

Friedフライド potatoポテトはUSAではFrenchフレンチ fryフライデスネ」

「え、じゃあ、フライドポテトって……」

ChipsチップスFrenchフレンチ fryフライのコトをFriedフライド potatoポテトと呼ぶのは和製英語デス」

「な、なんか、ややこしい……」

 などと話しているうちに、店主がビールを運んできた。「ほいよ」と一言だけを添えて。


(このマスターさんなら、「“お待たせ致しました”くらい言え」って文句をつけられたら、「待たせてないだろ」とか「ビールを注ぐ時間くらい黙って待ってろ」とか言って、やり返しそうな気がする……)


 なんとも勝手な想像ではある。

 さて、愛那とサリーは受け取ったパイントグラスを、カチリと合わせ、


KANPAIカンパイ!」


「乾杯」


 ビールをぐびぐびと、一気に喉へ流し込むサリー。

 ここまで相当な量を飲んでいるだろうに、まったくペースが落ちる様子を見せない。さらには、動作があやしくなることもなく、言葉もしっかりしている。

 愛那は、彼女の酒豪っぷりに感嘆しつつも、ひとつ気にかかることがあった。

「サリー、ポテチだけで大丈夫なの? FABでも、なにも食べてなかったし」

 そろそろ回ってきた酔いのせいと、話しやすい店の雰囲気もあり、少し砕けた、打ち解けた口調になっている。

 それが嬉しいのか、サリーはニコニコしながら、愛那の疑問に、

「ワタシ、Pubパブにはお酒だけを飲みに来マス」

 と、事もなげに答えた。

「ええっ…… そういうものなの? 私なんて、なにも食べないで飲んだら回っちゃうよ」

「ワタシの国では、そういう人、多いデス。お酒を飲んで、バカ騒ぎして、Footballフットボールを観て。Uhアー、モチロンほとんどのPubパブではちゃんと食事も出しマスヨ。お昼は食事する人イマス。しっかり食べながら、お酒を飲む人が、あまりいないだけデス」

「うーん、お国柄なのかしら……」

 と、やり取りを続ける二人の間に、ポテトチップス、いや、クリスプスが山と盛られたかごが置かれた。店主の手によって。

「まあ、客がみんなサリーみたいだったら、楽なんだがな。だけど、そういうワケにもいかないから、うちも食事は出す」

 店主の言葉を受け、愛那はテーブルに置いてあるメニューを手に取り、開いた。

 手書きの文字で、フィッシュ・アンド・チップス、ローストビーフ、ポークスクラッチング、ミートパイ、シェパーズパイ、蒸したムール貝などが書き連ねられている。

 割合シンプルな内容と言える。もしくは、昔ながらのパブの食事と言い換えてもよい。

 どれもイギリスのパブで、当たり前のように出てくる料理ばかりなのだ。日本人向けのメキシコ料理やイタリア料理が混じっていることもない。

 母国のパブに慣れ親しんだサリーが行きつけにするのも、うなずけるのではないだろうか。

 やがて、サリーもメニューを覗き込み、

「ここのRoastロースト beefビーフは、とてもおいしいデス。日曜日は必ず食べに来マス」

「ほほう、ロートビーフかぁ」

 愛那も、肉は好きだ。肉は、酒にも飯にも、よく合う。

 ローストビーフに合わせる酒ならば、やはり赤ワインが定番かもしれないが、愛那はなにしろビールである。

 グレイビーソースをかけ回したローストビーフの上に、ホースラディッシュを多めに乗せてくるくると巻き、ぱくりと一口。充分に噛んで、肉とソースのうま味、ホースラディッシュの辛みを楽しんだのち、ビールを流し込む。

 脳裏のうりにイメージが湧き過ぎ、


(ロートビーフ頼んじゃおうかしら…… でも、今はおなか空いてないし……)


 などと考える愛那であったが、ある料理が目に留まった。見慣れない名前だ。

「ん? このシェパーズパイって?」

「パイ生地の代わりにMashマッシュ potatoポテトを使った、LambラムMeatミート pieパイデス」

「なにそれ! めっちゃおいしそう! ぐぬぬ、空腹の時に来たかった……!」

 生まれも育ちも北海道の愛那にとって、ジャガイモとラム肉を使ったパイとは、まるで奇跡のような料理だ。これは絶対に食べなくては気が済まない。それもベストコンディションで。

 サリーは、愛那の出身地など知る由もなかったが、祖国の料理に関心を持ってもらえるのが嬉しかった。是が非でも食べてもらいたい。

「フフッ、今度はDinnerディナーで来マショウ」


は……)


 サリーの言葉を聞き、愛那は自身の中のなにかが、スーッと冷めていくような気がした。

 そのせいで、どうしてもサリーのほうを見ることができず、視線は店主のほうへ向いてしまった。

「マスター自慢のシェパーズパイやローストビーフ、食べるのが楽しみです」

「別に俺の自慢じゃあない。店の自慢だ。料理は弟の担当だしな」

「へー。弟さんが」

「クソバカだが、まあ、よくやってるほうだ」

 すると、突如、店の奥から、

「聞こえてっぞ! 誰がクソバカだ!」

 という怒鳴り声が聞こえてきた。声の主は無論、厨房ちゅうぼうにいる店主の弟だ。

 カウンター席の老紳士が、くっくっと静かに笑う。

 テーブル席の二人も、苦笑いせざるを得ない。

 サリーは気を取り直し、愛那が読み終わったメニューを手にして、

Menuメニューには書いてマセンガ、ここはCurryカリー andアンド Riceライスもすごくおいしいデスヨ。ウラMenuメニューデス」

「カレーが? あー、そういえば日本のカレーはイギリスから伝わったものだもんね」

Englandイングランドの若い世代はパブで飲んだあと、インド系の人たちの店で、Uhアー, Callコール itイッ a nightナイト... 日本語だと…… 飲んだあと、最後に……」

「締め?」

That'sザッツ rightライト! シメ! シメにCurryカリー andアンド Riceライスを食べるデス。遅くまで開いてマス」

「へえー、そうなんだ。日本のラーメンみたい」

「ワタシ、日本のラーメン、大好きデス! Iアイ loveラブ イェケー!」

「イェケー? ……ああ、家系いえけいね。ふふっ」

 この英国人女性は、愛那が思うよりもずっと、日本の生活を受け入れ、楽しめているようである。


 そして、時は経ち――


 Nowhere Landでの三杯目のビールを飲み干す頃。

 愛那は、すっかり店の雰囲気になじみ、また、サリーとの会話のぎこちなさも消えていた。

 おかげで、サリーの個人的なことに関する質問も、するりと出てくる。

「サリーはどうして日本に? 遊びに? お仕事?」

「仕事デス。ワタシ、日本の会社でGraphicグラフィック designerデザイナーしてマス」

「グラフィックデザイナー?」

UhアーComputerコンピューターを使って本の表紙やPosterポスターDesignデザインシマス」

「ええっ!? すごい! なんかクリエイティブ! カッコイイね!」

 サリーが、嬉しさと照れ臭さで、頬を染める。真正面からの尊敬と賛辞の言葉には、さすがの彼女もおもゆい。

 褒められて気を良くしたのか、サリーは尻のポケットからスマートフォンを取り出し、

「最近の仕事は…… これデス」

 画面を愛那のほうへ向けた。そこには、ある漫画の表紙が映っている。

 それを目にした瞬間、愛那は勢いよく席から立ち上がり、身を乗り出した。


「こ、これ、“異世界バキュームカー”のコミカライズじゃん! 私、持ってる! この前、買った! 好き! えっ、これ、サリーが表紙を作ったの!? ウソ! すごい! ヤバい!」


 同じ愛那とは思えぬほど、ばやに言葉をり出していく。

 しかし、愛那のリスペクトが、いまいちサリーに伝わっていないのか、

「絵を描いたのはIllustratorイラストレーターサンで、ワタシは表紙のDesignデザインをしただけデスヨ?」

 などと、見当違いの説明をしている。

 趣味とはいえ、イラストや漫画を描いている愛那だからこそ、“なにかをつくる”という行為に対して、尊敬の念が湧くものなのだ。しかも、それを生業なりわいにしているのだから。

「それでもすごいよ! プロの仕事だもん! 商業だもん! 憧れちゃう! こういうお仕事、多いの!?」

「マンガやラノベはすごく多いデス。いつもありマス―― Hmmフム?」

 ふと、なにかに気づいたように、サリーが尋ねた。

「アナはマンガやラノベを読むデスカ?」


(し、しまった…… つい……)


 いつであろうが、どこであろうが、誰であろうが、本性はひた隠しにするのが、己の定めたルールだったはず。悔やんでも悔やみきれない。

 取りつくろいたいところだが、酔った頭では上手い言い訳も出て来ない。

 こうなったら観念するしかないのか。

「あっ、う、うん。実はその、私、オタクで…… アニメたりとか、イラスト描いたりとか……」

 今度はサリーが、皆まで聞かず、身を乗り出す。


Ohオー! OTAKUオタク! ワタシ、日本のOtakuオタク cultureカルチャー愛してマス!」


「えっ……? そ、そうなんだ。すっごく意外…… ていうか、信じられない……」

 フットボール好きなコミュ力オバケの陽キャ英国人が、日本のオタク文化を愛している?

 にわかには信じられない話だ。特に根っからのオタクで、ネガティブをこじらせた愛那には。

 芸能人やクラスメート、会社の同僚。「私、オタクです」などと自己申告する手合いに、何度失望し、何度腹を立ててきたことか。

 もう同じ思いを繰り返したくない、という思いから、勢い懐疑的になってしまうのも無理はない。

 そんな愛那の思惑を知らないサリーは、嬉しさいっぱい、楽しさいっぱいにOTAKUオタク LOVEラブを主張する。

「食、衣服、建築、芸術、礼儀作法。日本文化はどれもスバラシイデスガ、ワタシが日本大好きになったイチバンの理由はアニメやマンガの、オタク文化デス」

 サリーのある意味、真摯しんしな姿勢に、愛那の心はわずかずつではあるが、歩み寄りを見せていた。

「え、じゃあじゃあ、普段もアニメ観たり……?」

Ofオブ courseコース! ワタシ的コンキのハケンは――」

 妙な日本語に続いて、ある深夜アニメのタイトルが、サリーの口から出るやいなや、愛那の瞳が輝きを増した。2万マイルはあった距離が、光の速度で縮まってしまった。


「それ、私も観てる! いいよね! 東京が舞台ってのが親しみが湧いてさ! そこに異種族っていうギャップがまた――」


 なんとも饒舌じょうぜつ。なんたる早口。今や愛那はすべてを解き放ち、目の前の同士に作品愛を余すところなくぶつけていく。

 だが、それは、サリーも同様である。


「あのCharacterキャラクター designデザインExcellentエクセレントデス! ヤヤOldオールド fashionedファッションドデスガ、その分CharacterキャラクターRealisticリアリスティックで、重要なMotifモチーフデアル日本のCultureカルチャー祭祀さいしと――」


 こちらも興奮のあまり、英語の占める割合が増え過ぎ、インチキ英語を話す昔の芸人のようなしゃべり方へと変貌へんぼうしている。

 国際オタク談議に花が咲き、言葉と酒が入り乱れる中、相変わらず店主はカウンターに頬杖をつき、老紳士はゆるりとグラスを傾けていた。


 吉祥寺で突如、始まった日英オタク会議。

 現在だけではなく、過去のアニメ作品、漫画作品についてまで、ひとしきり語り合い、手にするパイントグラスは六杯目のものとなっていた。

 愛那としては、人生初めてと言える熱狂的なオタク談議の相手が、まさか異国の人とは思いもよらなかった。

 サリーにしても、ここまで同好の士と存分に交歓こうかんできたのは、日本に来て以来、初めてのことだ。

 どちらの心も、酒の酔い以上に、幸福感で満たされていた。

 それと、サリーには、もうひとつ。

「アナが楽しくなってくれて、よかったデス。この店のほうが、アナがRelaxリラックスして話しやすいと思いマシタ。誘ったのはGoodグッド choiceチョイスデシタ」

「そんなに気を遣ってくれてたんだ。ありがとうね、サリー」

 愛那は感謝を込めて、深々と頭を下げる。その際、額がテーブルに当たり、鈍い音を立てたが、彼女は意に介していない。

 サリーは、愛那の額をでつつ、

「アナ、ステキな笑顔。私がお礼言いマス。アリガトウ」

「いや、そんな、素敵だなんて……」

 すると、どうしたことか。サリーは急に笑いを引っ込め、

「好きなことを話しているアナ、とてもステキでイキイキしてマス。Butバット... アナは、時々さびしそうで、悲しそうデス。笑ってても、笑ってマセン」

 まっすぐに愛那の目を見つめて、言った。

「アナは、悩みがありマスカ? ワタシに話してくれマスカ?」

 悩み。悩みなら数えきれないほど、ある。

 ただ誰にも話せないだけだ。

 でも、ここまで打ち解けられたサリーになら、話してもいいのでは。

 それに、自分は誰かに話を聞いてもらいたいのかもしれない。

 愛那は、重い口を開いた。

「う、うん…… 実は、職場でお世話になってた先輩が、急に辞めちゃって――」

 その先輩が、社内で唯一の理解者と言ってもいい存在だったこと。

 先輩が辞めたことによって、大量の仕事が自分の両肩にのしかかったこと。

 毎日ひどく疲れて憂鬱ゆううつな気分になること。

 暗い性格が災いして、他人と上手くコミュニケーションが取れないこと。

 いつしか、仕事だけではなく、自身の内面的な部分にまで、話が及んでいた。

 ここまで話すつもりはなかったのだが。


 ――老紳士が、静かにグラスを置き、かたわらにある革製の黒い中折れ帽を手に取った。

「だいぶ飲んだ。帰るよ」

「まいど。気をつけて」

「うん」

 短い言葉を交わすと、老紳士は帽子をかぶり、丸い背をより一層丸くして、店をあとにした――


 愛那は話し続け、サリーはなにも言わずに話を聞き続ける。

 もう自分でもなにを話しているのか、なにが言いたいのかも、わからなくなっていた。

「私には、ともだ……」

 そこで、言葉は口から流れるのをやめ、頭蓋ずがいの中でぐるぐると回っていた。

 なにかにせき止められた言葉は、暗く重苦しい思いとなり、心を氾濫はんらんさせる。


(さよならだけが人生だ……)


 いつどこで知り憶えたのか忘れてしまった言葉。

 脈絡もなく浮かぶ、呪いのような言葉。

 こういう時にいつも思い出すのは、郷里きょうり疎遠そえんになってしまった幼なじみだ。

 一生の親友だと思っていた、あの頃。

 違う高校になっても、進学と就職で道が違っても、親友でいられるはずだったのに。

 今では友人と呼べる存在など、皆無だった。職場でも、プライベートでも。

 それもしかたない。どうせ、私は――

「アナ?」

「あっ、ご、ごめんなさい。ちょっとボーッとしてた。酔ったのかも」

 かもではない。酔っているのだ。

 酔いが、現実と自分の世界の境界を、曖昧あいまいにしていく。

 行ったり、来たり。

 そのうちに、自分の世界の声が、唇の間から漏れ出ていた。

「いい人はみんな、私の前からいなくなっちゃう……」

「なんデスカ?」

「別に、もう慣れたけどね。私の性分もあるんだろうし、そういう人生を送るようにできてるんだよ。きっと」

Whatワット? どういうコトデス?」

「日本には“さよならだけが人生だ”って言葉があってね。ええっと、英語で言うと“Lifeライフ isイズ onlyオンリー goodbyeグッドバイ”かな。どうせ、みんな、私の前からいなくなる。私には、一人がお似合い。それに……」

 もう一人の自分が、必死に警告する。

 これ以上、しゃべってはいけない。

 早く口を閉じろ。

「どうせ、サリーだって…… なんて、ないよ」

 言ってしまった。

 酔っているとはいえ、絶対に言ってはいけない言葉だった。

 特に、、言ってはいけないのだ。

 ああ、やってしまった。こんなに自分のことを案じてくれる優しい人に、なんてことを。これで彼女を失望させたに違いない。

 後悔と諦めが重くのしかかり、愛那を深くうつむかせる。顔を上げられない。

 このままサリーは帰ってしまい、顔を上げた時には誰もいない。きっと、そうだ。

 しかし――

Noノー、ワタシはデスネ、アナ。“Myマイ lifeライフ isイズ SAYセイ HELLOハロー”デス。人生は出会い、イッパイ」

 テーブルの上に置いた愛那の両手が、サリーの両手に包まれた。なんだか、とても暖かい。

「ワタシ、Manchesterマンチェスター。アナ、東京。でも、こうして出会えマシタ。仲良くなれマシタ」

 愛那がおずおずと顔を上げると、そこにはサリーの笑顔があった。

 MANマン CITYシティが勝った時に見せた笑顔とも違う。オタク話をしていた時に見せた笑顔とも違う。

 穏やかで、優しくて、切ない笑顔。

「ワタシとアナ、もうトモダチデス。だから悩みも話してくれたのデショ?」

「と、ともだち……?」

Yesイエス、トモダチ。Weウィ areアー friendsフレンズ。だから、もう、悲しいコト言っちゃダメデス」

 口元は柔らかく笑っていたが、両の瞳は真剣みを帯びた光をたたえていた。

 怒っている。いや、叱っている。愛那のことを。真剣に。

 友達だから。


「ふれんず……」


 そっか――


 私は、さびしかったんだ。


 友達が欲しかったんだ。


 またもや、心から思いがあふれてくる。

 だけど、それは悲しさではなかった。もっと暖かいものだ。

 では、なんだろう。

 安心や安堵あんど。そういったものではないだろうか。

 こんな自分を受け入れてくれた、サリーの優しさへの。

 それとも、友達ができた嬉しさか、喜びか。

 自分はもう一人じゃない。

「あうっ……」

 愛那の感情は急激に高まり、両の目からは涙がこぼれ落ちた。

 涙があふれて、止まらなくなった。

 それを見たサリーは、ひどく困惑した。

 友達を勇気づけたくて、元気にしたくて、笑ってほしくて、そんな思いで伝えたのに。

 自分の言った言葉は、なにか間違っていたのか。

 自分の下手くそな日本語が、友達を傷つけてしまったのか。

「アナ、なぜ泣きマスカ? ワタシの言葉、悪いデスカ?」

「ううん。違うの。サリーの言葉、悪くない……」

 そう。違うのだ。

 たしかに、サリーの優しさも、友達ができたことも、嬉しかった。心の底から。

 こんなに感激したのは、これまでの人生でいくつもない。

 しかし、それが涙の原因ではなかった。

 自分は、いい年をした社会人だし、普段は容易に涙を流すこともないのだ。

「わ、私っ……」

 愛那は確信した。

 せっかくできた友達の前なのに。しかも、その友達が案内してくれた、初めての店で。

 自分の世界に入り込む以外の、もうひとつの悪いくせが、よりにもよって、こんな時に。


「私、酔っばらうど泣いぢゃうのおおおおおおおお!」


 泣き上戸じょうご

 みっともない酔っぱらい方のひとつではあるが、今晩ばかりは許されてほしい。

 なにせ、今晩は愛那の人生において、特別な夜になったのだから。

 神様から愛那への贈り物があった夜だ。


 その贈り物は、愛那がただの泣き上戸と知るや、その場に崩れ落ち、大爆笑してしまった。


 店主は、鼻でひとつ溜息をつくと、カウンターの下からボックスティッシュを取り出し、二人のテーブルに置いた。

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