第2話【Rock 'n' Roll Star】 A-side

 サリー・サムナーは首をかしげていた。

 なにやら思案顔で。

 ポークスクラッチングに伸ばした手も、宙で止まっている。

 テーブルの向かい側では、立花たちばな愛那あんながフォーク片手にシェパーズパイをパクつき、こちらはご機嫌な笑顔だ。


 そう、ここは吉祥寺南町のパブ、“Nowhereノーウェア Landランド”。

 サリーと愛那が、この店で友情を結んだあの夜から、一ヶ月近くが経とうとしていた。

 七月上旬の東京は、気温30℃超えの真夏日が続き、ビールが進む季節を迎えている。

 さらには、金曜の夜ということもあり、Nowhere Landにしてはややめずらしい、満席という客の入りを見せていた。

 カウンター席に座る、黒づくめの老紳士。低く静かな声で、店主となにごとかを語らっている。

 その隣には、中年男性の二人組。いかにも仕事帰りのサラリーマンだ。

 二つしかないテーブル席のひとつでは、若いカップルが仲むつまじく、グラスを交わしている。

 そして、もうひとつに、愛那とサリーがいた。


 さて、その二人、である。


 愛那は、ここでサリーに教えられた“シェパーズパイ”が、近頃のお気に入りとなっていた。

 会社帰りでも休日でも、曜日を問わず頻繁ひんぱんに訪れ、店主があきれるほどに、毎度シェパーズパイを食べていく。無論、ビールと共に。


 ところで、この料理、「パイ」と名が付いてはいるが、通常のパイに使われる小麦粉のパイ生地ではなく、マッシュポテトをパイ皮の代わりに使う。

 ラム肉のミートソースの上にマッシュポテトを敷き詰め、オーブンで焼き上げたものだ。

 イギリスの伝統的な家庭料理であり、英国版おふくろの味、と言っていい。

 その発祥は比較的よく知られており、

 ――貧しい労働者階級の人々が、より安価に入手できたのがジャガイモだったので、料理に使いやすかった。

 ――サンデーロースト(ローストした肉をメインにした日曜日の昼食)の際に生じる、食べ残しや余った肉を、平日も食べるために考案された。

 まずは、そんなところである。

 では、「その味は?」と言えば、


(このミートソース、ハーブの香りとラム肉独特の匂いがクセになるよねぇ。味がとっても濃厚だから、ビールによく合う~!)


(マッシュポテトは、焼けた表面がさっくりしてて、中はふわっとしてて、どっちも「THE イモ!」って感じで最高!)


 などと、例によって脳内でだけは饒舌じょうぜつな愛那が、教えてくれる。


(この料理って、濃い味のおかずで白いご飯を食べる時の感覚に、よく似てるんだよねぇ。マッシュポテトとお肉の関係がさ、ご飯あってこそのおかず、おかずあってこそのご飯、って感じ)


 Nowhere Landのシェパーズパイは、肉の層もマッシュポテトの層も厚めに作ってある。

 食べごたえたっぷりのそれを、フォークで大きめに切り分け、大口を開けてぱくりと一口で頬張る。

 とは思いつつも、慣れ親しんだジャガイモとラム肉の味が、北海道出身の彼女の味覚を刺激し、どうにも手が止められない。

 ついには、感激は脳内で収まらず、声となって現実世界へ飛び出す。


「これって、やっぱイギリス人と道民のための料理だわ! んもー、毎日食べたい!」


 そんな愛那の問わず語りが聞こえているのか、いないのか。

 サリーは、油が抜けてカリカリになるまでり上げた豚の皮をつまみ、口に放り込む。

 やはり首を傾げたまま。

Hmmフーム...」

「どしたの? サリー」

 急に考え込み始めたサリーが気になるのか、今度は愛那が手を止める。

 コミュ障の愛那も、この頃ではサリーとこの店にすっかり慣れ、ごく自然な会話ができるようになっていた。

 思案顔のサリーは、ポークスクラッチングを充分に咀嚼そしゃくし、飲み込んだのち、

Uhアー、ちょと気になったのデスガ…… Summerサマー comicコミック martマートの通常入稿まで、もう一ヶ月ないのデハ?」


(ぎくっ)


「ココ最近、この店によく来てイマスガ、大丈夫デスカ?」


(ぎくぎくっ)


 うつむき、固まる愛那。背中を冷汗が流れる。

「く、詳しいね、サリー…… イギリス人のくせに……」

OTAKUオタクデスカラ。それにデス」

 漫画やラノベの表紙をメインにデザインする、グラフィックデザイナーにとっては、けっして縁遠い話題ではない。

 また、締め切りに追われるイラストレーターを見てきているし、自分も納期に追われる身だ。

 だからこそ、こういう追い打ちが出る。

「それで、進捗しんちょくはどうデスカ?」

「えーっと、その…… そ、そろそろプロットに手を付けようかなー、なんて……」

 つまり、プロットはまだ真っ白。

 要するに、まだなにを描くかも決まっていない。

 すなわち、なにひとつ進んではいない。

 入稿予定日まで、一ヶ月を切っているのに。

 それを聴いたサリーは、目をむいて驚いた。

 欧米人特有のオーバーアクションだが、ここで使わないで、どこで使うのだ。

Whatワッ the fuファ... hellヘル⁉ それで間に合いマスカ?」

「だ、大丈夫! この土日でプロット、一週間でネームと表紙ラフ、あとは二週間で仕上げるだけ! ほぉら、入稿日まで三、四日の余裕まで残しちゃう!」

 そんなことができていたら、今頃はとっくに脱稿だっこうしている。

 二月末にサークル参加を申し込み、六月には当選通知が来ていたのだから。

 楽天家でポジティブの擬人化と言えるサリーでさえ、愛那のダメ人間思考を、危ぶまずにはいられない。

「シカシ、そんなScheduleシェジューウデハ……」

「しぇじゅーう?」

Uhアー、すけじゅーる、デス」

「大丈夫だって! いざとなったら前日入稿できる印刷所さん知ってるし!」

 この女、もとより通常入稿に間に合わせる気がない。

 同人作家がこのやりとりを見ていたならば、誰もがそう思うかもしれない。

 それでもサリーは不安をぬぐえず、首を傾げ続けていたが、やがてニッコリ笑い、

「OK。アナは何年も同人誌を描いてマスシ、Comicコミック martマートにも慣れているからAllオール rightライトデスネ」

 セリヌンティウスがメロスを信じるがごとく、サリーは愛那を信じることにした。

 彼女は、前向きの天才であり、信頼の天才なのだ。

「その通りっ! オーライオーライ! ははっ……」

 厚い信頼を受けた愛那は、サリーから目をそらし、シェパーズパイを口に運ぶ。

 店内のBGMに耳を傾ければ、相変わらずビートルズが流れている。

 ポールとジョンが「Lifeライフ isイズ veryベリー shortショート」と歌う声が、誰の耳にも届いていた。


 時計の針は進み――


 午前零時を回った吉祥寺。

 金曜の夜の、この街だ。

 帰路きろく二人の周りには、まだまだ人が多い。

 七月の街を行き交う人々の服装は、涼しげなよそおいが当たり前となり、それは愛那とサリーにも表れていた。

 ビジネススタイルの愛那は、タイトスカートとパンプスはそのままなものの、トップスは半袖のブラウスに変わっている。

 サリーは無地の白いTシャツ、Levi'sリーバイス501、サンダル。なにひとつ洒落しゃれのない服装だ。

 さらには、これで職場に出勤しているのだから、驚きである。


 ほどなく、吉祥寺駅南口。

 二人は、エスカレーターで、改札階へ上がっていく。

「改札まで見送るよ」

Thanksサンクス

 この二人、同じ武蔵野市在住であった。

 ただし、愛那は吉祥寺駅から歩いて10分弱だが、サリーは30分以上かかる。最寄り駅の三鷹駅からですら15分はあった。

 女性が深夜に一人歩きをするのは不用心であり、定期券もあるのだから、ひと駅とはいえ電車に乗るのが賢明だろう。

「昼間なら歩きマスヨ。Healthyヘルシー lifeライフデスネ」

「あれだけ飲んでおいてー?」

 そんな冗談を交わしながら歩く二人。

 そのうち、愛那がバッグをごそごそとやり出した。

「あー、帰りにコンビニ寄ってこうかなぁ。お財布、お財布……」

 手元が若干あやしい。

 それを見たサリーは、愛那の肩に軽く手を回し、顔を頻繁ひんぱんに愛那のほうへ向ける。

 さすがに足元まではあやしくはないのだが、友達を想う気持ちが働くのか。

 サリーの172cmという高身長も手伝い、遠目に見れば、仲の良いカップルに見えなくもない。


(イギリス人だけあって、やっぱりストレートな愛情表現だなぁ。うへへっ……)


 やがて、南改札が近づいてきたあたりで、

「おい、あんた。ちょっと」

 と、何者かが愛那に声をかけた。

 振り返ると同時に、愛那は飛び上がるほどの衝撃を受けた。

 目の前にいるのは、時折見かける、あのパンクファッションの女性ではないか。


(うわっ! ウソ! あの人だ! あの人が! なんで!?)


 横では、サリーが目を丸くして、「Ohオー, Punkパンク」とつぶやいている。

 彼女は愛那に一枚のカードを差し出し、

「これ、落としたぜ」

 愛那が通勤用にしている、交通系ICカードだ。

 裸のまま無造作にバッグへ入れているところに、彼女の性格が出ている。

 しかし、当の愛那は、ひどく狼狽ろうばいしていた。

 憧れの女性を、ここまで間近で見ることになるとは。

 プラチナブロンドのセミロングウルフカット。

 白人に負けない色白の肌と、ワイルドなアイメイク。

 硬質さを感じさせる美形な顔。


(うっひょお! こんな近くで見ちゃった! 遠くから見るよりずっと綺麗きれい! 声も低くてイケメン! あっ、カラコン入れてるんだ! 目つき悪いけど垂れ目なとこがまたいい! 好き!)


「あ、ばっ、あのっ、どもっ、あり、ありっ、ありがとございますっ!」

 心の声は気持ち悪さ全開であり、言動はいちじるしく挙動不審。

 パンク美人も、口にこそ出さないが、怪訝けげんな表情だ。

 その時――

 偶然にも、カードの“タチバナ アンナ”という記名が、ちらりと彼女の目に入った。

 瞬間、彼女は大きく目を見開いた。

 愛那はペコペコと頭を下げながら、カードを受け取ろうとする。

「あれ……?」

 しかし、取れない。

 パンク美人が、力みに手を震わせて、カードを離そうとしないからだ。

 なぜか、彼女は視線を、愛那とカードの間で、往復させていた。

 さらには、愛那の顔を凝視ぎょうしする。

 自分以上の奇行を目の当たりにし、さすがの愛那もやや引き気味になっていた。

「あ、あの、離してくれると…… ありがたいん、ですが……」

「おまえ、愛那か!?」

「へっ?」

「マサ子だ! 砂原すなはらマサ子!」

 聞き覚えのある故郷のイントネーションと、もっと聞き覚えのある名前。

「ええっ!? まーちゃん!? まーちゃんなの!? 全然わかんなかった!」

 なんということか。両者とも、非常な驚きである。

 たまに見かけては、憧れていた女性が。

 落とし物を拾ってやった、挙動不審な女性が。

 自身の幼なじみだったとは。

 マサ子が、愛那の両手を、強く握った。満面の笑顔で。

「おまえ、なしてこんなとこいんのよ!」

「まーちゃんこそ! まさか、まーちゃんもこの辺に住んでたなんて!」

「あ、いや、あたしは立川のほうで…… って、んなことより、しばらくだな!」

「うん! 中学卒業したあと会ってなかったから、八年ぶりくらい――」

 二人は、そこで、ハッと我に返った。同時に、やはり二人とも、表情がくもる。

 少なくとも愛那のほうは、一生の親友だったのに疎遠そえんになってしまった、という事実を思い出していたのだ。

 言葉を失くし、うつむく二人。

 それを不思議そうに見つめるサリー。

 その横を、若者のグループが「終電、間に合わないぞ!」とわめきながら、バタバタと走り抜けていった。

 マサ子は顔を上げ、

「あっ! やべっ!」

 それから、またすぐに、愛那とサリーを見る。

 数瞬の迷うような素振りのあと、ポケットから紙切れを出し、愛那に手渡した。

「あたし、バンドやってんだ! 今度、高円寺でギグやるから来てくれよ! そっちのの分も!」

 チケットに複数書かれたバンド名のうちのひとつを指し、

「これがあたしのバンド! したらな!」

 そう言うが早いか、マサ子は改札のほうへ走り出した。

「ま、まーちゃん! せめて連絡先――」

 愛那が叫ぶひまもあらばこそ、全力疾走のマサ子の姿は、見る見るうちに小さくなる。

「行っちゃった……」

 嵐が過ぎ去ったあとのごとく、愛那は、しばし、その場で立ち尽くしていた。

 表情はさえず、暗い。


(会えたのは嬉しいけど、今さら…… だって、八年も……)


 愛那はまたもや、自分の世界に沈もうとしている。

 そんな彼女の肩を、サリーが今度はしっかりと抱いた。

「アナ、悲しそうな顔。あのトモダチと、なにかありマシタカ?」

「ううん、なんでもない…… サリーも急がないと、終電が行っちゃ――」

Noノー! なんでもなくないデス!」

 サリーは、真剣な顔だった。

 真剣な顔で、愛那の両肩をつかみ、真正面から向かい合う。

「アナ、そんな顔するのダメ。ダメデス」

 まるで母親が子供を叱るかのようであり、いくぶん滑稽こっけいに見えなくはないのだが、サリーはすこぶる大真面目だ。

「ワタシ、アナを笑わせマス。それがトモダチの役目。よかったら話してクダサイ」

 それは愛那に、骨のずいまでわからせてくれる言葉。

 

 いつも一人だった今までとは、まったく違う、この感覚。


(サリーは、優しいなぁ……)


 おぼれて、力尽き、深く暗い水中へ沈んでいこうかという、その時。

 手をつかんで、引き上げられる、安心感。頼もしさ。

 神と名がつくあらゆる神に感謝したいくらいだ。

 もちろん、本人にも。

「ありがとう、サリー。……んじゃ、もう一軒行こっか」


 それから、十分ほどの時を経て――


 二人は、“24時間 餃子仲間 吉祥寺サファイヤ街店”に、腰を落ち着けていた。

 吉祥寺駅北口から歩いて五分足らず。サファイヤ街のほぼ西端に位置する、この中華居酒屋。

 ここは、店の名前通り、二十四時間営業である。

 終電を逃してしまった時や、何時間でも腰をえて飲み明かしたい時に、重宝する店だ。

 多種多様な餃子がメインであり、それ以外にも、豊富な中華料理を楽しめる。

 そして、なんといっても、安い。

 とはいえ、テーブルに並んでいるのは、豆苗とうみょう炒め、冷やしトマト。それと、ビール。

 さすがに、今から餃子は少々重かった。

 二人は、ビールをひと口、二口。

 そして、愛那が、覚悟を決めたように、


「さっきの子は、砂原マサ子ちゃん。私の幼なじみなの」


 愛那は、なるべく暗い顔や声にならないよう、努力していた。

 そう努力しようと思えるだけ、実際にそうできているだけ、以前より少しはマシになっているのかもしれない。


「私たち、北海道の函館出身でね。生まれも育ちも函館なんだ」


 サリーが、声には出さず「Hokkaidoホッカイドー」とつぶやくも、けっして口を挟まない。


「私とまーちゃんは家がご近所でさ、物心ついた時には一緒に遊んでた」


「小学校も中学校も一緒でね、私はこんなだから、よくからかわれたり、いじめられたりしてた。けど、そのたびに、いつもまーちゃんが守ってくれたんだ」


「まーちゃん、気が強くて、喧嘩けんかぱやくてさ。男の子相手でも、全然怖がらずに向かっていってたんだから。まるで、ヒーローみたい……」


「そのうち私はオタクになって、まーちゃんはギターを始めて…… でも、いつでも一緒にいた、最高の親友だったんだ」


 サリーは、やはり口は挟まず、うんうん、と笑顔でうなずく。


「それが、違う高校に入ることになって…… イギリスにもあるでしょ? 学力によって行く高校が決まるとか」


Englandイングランドでは5歳から18歳までが義務教育で、それから大学だったり、職業教育Collegeカレッジだったり、就職だったりシマス。日本で言う“高校”はありマセン」


「へー、そうなんだ。……って、それはいいとして。私は進学校に、まーちゃんはそうじゃない高校に進むことになったの」


 話が途切れ、続く言葉が出てこない。

 サリーはたまらず、続きをうながす。

「ソレカラ?」

「それっきり。中学の卒業式に顔を合わせたのが最後。それから、もう会うことはなかった。連絡も取れなくなってね」

「じゃあ、さっきグーゼン会ったのは、15歳の時以来デスカ!?」

 サリーは驚愕きょうがくした。

 彼女は、持ち前のコミュニケーション能力で、友人が多い。

 また、日本に来るまでは地元から離れたことがないため、友人連中との付き合いは長い。

 そんなサリーにとっては、やはり衝撃的な事実なのだ。

「うん。札幌の大学に進んでから、まーちゃんが高校を中退して東京に行った、ってママに聞いてはいたけど。東京って言ったって広いし、人も多いから会えるワケないって思ってた」

Butバット、家がご近所デスシ、会おうと思えば簡単だったのデハ?」

「まーちゃん、高校に入ってからは、家に寄りつかなくなっちゃってね。ほとんど不良みたくなってたみたい。それに、まーちゃんちは母子家庭で、お母さんはずっと働いてるから、いつ家に行っても真っ暗だった」

 それを聞いた途端、サリーは顔をしかめ、首を横に振った。

 国は違えど、家庭崩壊や貧困などの問題は、日本もイギリスも共通のもののようだ。

 愛那は、フウ、とひとつ、溜息をつく。

「私とまーちゃんの関係は、そんな感じ……」

 サリーは少しの間、考えていた。

 受け止めた話を自分なりに分析したのち、一番の疑問点を愛那に尋ねた。

「……どうして、マサコはアナに会わなくなったのデショウ」

「さあ。でも、なんとなくわかるよ。私みたいな暗いオタク、ロックで自分を確立しているまーちゃんに嫌われるのも当然かな、って」

 サリーは頬をふくらませて、

「アナ。悲観的、ダメデスヨ。メッ」

「あははっ。わかってる、わかってる」

「それに、Uhアー、中学校の時は、アナがOTAKUオタクで、マサコがGuitarギターPlayプレイするようになっても、お互いにGoodグッド friendフレンドだったデスヨ?」

「まあ、そうなんだけど。じゃあ、どうして……」

 愛那にはわからない。サリーにも。

 わからないことだらけだ。

 少しの沈黙を挟んで、愛那が視線を落とし、

「さっきね、まーちゃんが行っちゃったあと、ちょっとだけ思ったんだ。“八年間も友達じゃなかったのに、今さら”って。私にとって、その八年間は、ずっとつらい時間だったから」

 その言葉を受けて、サリーがなにごとかを言おうと口を開きかけたが、愛那は笑って、こう付け加えた。

「でもっ…… でもね、少なくとも、もう会えないと思ってたのに、この東京で再会できた。コンサートに誘ってくれたから、少なくとも、また会える」

 つっかえつっかえではあるが、愛那は言葉を続ける。

「そしたらね? そんなところから少しずつ、また友達として、やり直せる、かもしれない…… って、思うんだけど…… どう、かな……?」

 サリーは嬉しさのあまり、白い歯を見せて、相好そうごうを崩した。

 最後はだいぶ曖昧あいまいな言い方になったが、愛那は少しずつ前進している。

 これまでの、そして、出会った時の愛那から、確実に良い方向へ向かっているのでは。

 そう、思った。


 他方、その一時間ほどのち――


 中央線立川駅より、歩いて20分。

 築48年、家賃31,000円。

 ワンルーム六畳に、ユニットバス。

 そんな安アパートで、マサ子はベッドに転がり、驚きの再会に思いをはせていた。


(まさか、また愛那に会えるなんてな。しかも、吉祥寺で……)


 毎度乗り換えに使っている吉祥寺駅。

 そして、「まーちゃんもこの辺に住んでたなんて」という口ぶりからして、彼女はあのあたりに住んでいるのだろう。


(愛那、すげー大人になってたな。髪染めて、コンタクトして、化粧なんかしやがって。あのオタクの愛那がさ)


 そう考えると、笑えてくる。

 マサ子の記憶の中の愛那は、野暮やぼったい黒髪と分厚い眼鏡の典型的なオタク女子だった。

 再会した社会人の愛那は、まるで別人だ。


(それに、あいつがあたし以外の人間といるのも驚いたな。昔はあたしくらいとしかまともにしゃべれなくて、いつもすみっこに一人でいるような奴だったのに)


 別人か。愛那にきちんと人付き合いができるとは。たしかに、まるで別人だ。

 誰かと一緒に歩いているという事実だけでも驚きだが、一緒にいる外国人には我が目を疑った。


(でも、あの外人、一体何者だ……? なんで、愛那と外人なんかが……)


 思考が止まらない。こんなに脳が刺激されるのは、音楽以外では、まず、ない。

 そして、そんな思考の終着点は、と言えば、普段と似たり寄ったりのことだ。

 八年間、悩み続けた、あのこと。


(自分が選んだことなのに…… 後悔はしないって、あの時は思ったもんだけど……)


 立花愛那。

 一生の親友だと思っていた、あいつ。

 ひとりぼっちの、あいつ。


(いざ、会ってしまうと、な……)


 マサ子はベッドから飛び起き、ギターを手にした。

 インスピレーションにまかせ、思うままに弾いてみる。

 個々の音は、徐々にひとかたまりの群体ぐんたいとなり、なにかしらのを成していった。

 いいぞ。これは使える。

 マサ子はそのを、ノートに書き込んでいく。

 突如、壁がドンと鳴った。隣の住人が壁を殴ったのであろう。

 安アパートの薄い壁だ。ギターの音など、簡単に隣室りんしつへ漏れる。

 マサ子は、歯をきしませて、壁をにらみつける。にらみつけるだけ。

 暴力沙汰は函館で卒業したのだ。世話になっている叔父おじに迷惑をかけたくない。

 好きなギターを、自由にできなくなるのも、嫌だった。


 ギターを置き、CDプレイヤーの前へ。

 ごちゃごちゃと乱雑に置かれたCDの中から、ザ・ジャムの『Allオール Modモッド Consコンズ』を手に取り、ディスクをプレイヤーに入れる。

 ヘッドホンを着け、再生スイッチを押し、ふたたびベッドに寝転がった。

 目に入るのは、見慣れた汚い天井。

 両の耳に流れ込んでくるのは、すでにパンクからはかけ離れた、アーティスティックでメロディアスな名盤のロックサウンド。

 マサ子は、天井を見つめ続ける。


 どういう訳か、自分の意思とは関係なく、脳裏のうりに己の半生が浮かんでは消えていく。

 中学校の卒業式。さみしげな顔の愛那。

 ギターに明け暮れ、仲間と夜の開港かいこう通りを闊歩かっぽし、気に食わない者は殴りつけていた高校時代。

 下北沢の叔父を頼りに、家出同然で上京した十八歳の夏。

 現在のボーカルと出会い、バンド結成のきっかけとなった高円寺。

 増え続ける、聴きたいサウンド。増え続ける、中古CD。

 音楽が好きでたまらないからこそ、晴れない気分が続く自分。

 再会を喜ぶ、笑顔の愛那。


(あたし、なんでギグのチケット、渡しちまったんだろ……)

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