ふれんず&あるかほる

佐井乙貴

第1話【Hello】 A-side

 立花たちばな愛那あんなは疲れていた。

 東京メトロ東西線から中央・総武線。勤め先の日本橋から自宅までの約50分間。

 両隣を貫禄のある男性に挟まれた、0.7人分の座席。

 じっとり汗ばんでいく、白のブラウスと、グレーのビジネススーツ。

 視線の先には、黒く地味な己のパンプス。

 音量に細心の注意を払ったイヤホンから流れる、今期のアニメOP・EDコレクションもその実、頭の中までは届いていない。

 そろそろ上昇のきざしを見せ始めた初夏の気温も、疲れに拍車をかける。


(はぁ、疲れた…… 先輩が辞めちゃって以来、仕事が全部私のところに来るんだもんなぁ……)


 相方兼教育係だった先輩は、ある日体調を崩し、一週間の欠勤ののち、そのまま退職してしまった。

 どれだけ優秀で、後輩想いで、辛抱強い先輩だったか。

 それを真に理解できたのは、社会人二年目の一般職OLには、荷が勝ちすぎる仕事量を背負わされてからだった。


(優しくて、指導が丁寧で、私なんかにも気を遣ってくれる、いい先輩だったのに……)


 昨年、大学を卒業して北海道から上京し、現在の職場に入社して以来、どれだけ可愛がられたかわからないくらいだ。

 そんな愛すべき先輩は、大量の業務を自身のもとで処理し、後輩である愛那の負担が増えないようにしてくれていた。

 それを思うと、気分は落ち込み、心は暗くなる。


(なんか、もう、なんもする気になれないや……)


 朝の時点ではプランを立てていた、夕食のメニューも、買うべき食材も、どこかへ霧散むさんしていた。

 もはや、近所のスーパーに寄ることすら、億劫おっくうなのだ。

 それでも、立花愛那を形成する最後の砦は、この重い疲労に必死であらがおうとする。


(でも、ネームどころかプロットもできてないし。少しでも手と頭、動かさなきゃなぁ。また前日入稿でボロボロになるのも嫌だし……)


 イラスト、漫画。二次創作。同人活動。

 それら所謂いわゆるオタク趣味と呼ばれるものが、彼女の生きがいであり、彼女という人間の骨子こっしであった。

 小学生の頃には絵を描き始めた。両親に褒められ、自信を深めていった。

 高校に上がる頃には、地元の小さい規模ではあるものの、同人誌即売会にも参加していた。

 コミュ障が災いして、同好の士は一人もいなかったとはいえ、である。

 なりたくてなった訳でも、やりたくてやっている訳でもない仕事なんかよりもずっと、自分のままでいられ、自分を認めてもらえる、なによりも趣味なのだ。


 愛那は、しばし目を閉じ、考える。

 今は6月初め。参加予定のイベント、コミックマート102は8月中旬。

 現状、やるべきこと。印刷所の入稿締め切り。残る日数。自身の作業スピード。

 熟慮に熟慮を重ねた愛那が、カッと眼を開いた。


(まあ、金曜の夜だし、明日あさっては休みだし、今晩くらい外でお酒飲んだっていいよね。うん、明日から本気出そう。土日あるんだから)


 陥落。崩壊。あまりにもろかった、最後の砦。

 そもそも彼女には、月曜から金曜までの平日、帰宅してからのプライベートタイムに、少しずつ作業を積み重ねるといった発想がなかった。

 それでいて、土曜日曜はアニメ視聴、動画視聴、そして飲酒で時間を空虚に浪費することも珍しくない。

 常にイベント当日の半月前にならなければ、頭も手も動き出さない、そんなある種の因業いんごうにも似た性質を抱えていたのだ。


(そうだ。今日はFABファブで飲もっかな。一週間頑張ったんだから、自分にご褒美をあげなきゃ。よぉーし、グィネスとフィッシュ・アンド・チップスだ)


 荷を下ろしたとなれば、切り替えも早い。すでに頭の中は、自分を待っている酒とさかなで、いっぱいである。

 電車は緩やかにスピードを落とし、やがて、止まった。

 そこは、気取って言えば彼女の本拠地ホーム、平たく言えば最寄り駅。

 開くドア。吐き出される乗客。

 吉祥寺駅のプラットフォームに、愛那もまた、降り立った。


 吉祥寺。

 東京二十三区外の繁華街としては、代表的な街である。

 吉祥寺駅を中心に、ムーンロード商店街やサファイヤ街、ピアニカ横丁などの商店街があり、それ以外にも複数の大型商業施設が建ち並んでいる。そろわぬものはなく、大抵の用事はここで片付く、といったところだ。

 無論、居酒屋、バー、ビアホールなども多数営業しており、酒を飲むにも事欠かない。

 この街では、平日も休日も、昼も夜も、たくさんの人々でにぎわいを見せていた。

 ちなみに、吉祥寺は多くの漫画家が住んでいたり、アニメ制作会社があったりと、サブカルチャーの街としての側面も有している。


 閑話休題それはさておき


 南改札を抜け、駅南口へと急ぐ愛那。

 人の波に乗り、駅構内を足早に進んでいく。

 週末の夜。気もはやる。

 向かう先は、駅南口から歩いてわずか1分足らずの場所にあるブリティッシュパブ、FAB吉祥寺南口店だ。

 しかし、愛那はふと、エスカレーターが見えたあたりで、歩調を緩めた。


(あっ、あの人だ)


 伏し目がちに歩く一人の人物が、こちらへ向かってくる。

 長身と色の白さに、プラチナブロンドの髪がよく似合う、精悍せいかんかつ整った顔立ちの美しい女性。

 その美しさに似合わぬドギツいパンク・ファッションに身を包み、肩にギターケースをかついでいる。

 会社帰りや休日に、この駅でたまに見かける、おそらくは同年代の女性なのだが、どうしても目のはしで観察してしまう。

 地味な自分が持っていない美しさ。オタクの自分が持っていない不良性。そういったものにかれているのだろうか。遭遇した日は、少しばかりテンションが上がるくらいには。


(ひさしぶりに見れちゃった。ちょっと嬉しい…… って、のんびりしてる場合じゃない!)


 愛那はハッと我に返り、ふたたび、足を速めた。

 エスカレーターを降りて、路線バスも通る狭い道を行き、ほどなく、FABの前に到着。

 この駅近えきちかぶりも、フットワークの重い愛那には魅力のひとつだろう。

 店の前に置かれている看板には「FABファブ BRITISHブリティッシュ PUBパブ 」「FRESHフレッシュ BEERビア, FISHフィッシュ & CHIPSチップス」という文字が光っていた。

 少し重い木製のドアを開け、ほの暗く狭い階段を降りる。店は地下にあるのだ。


 だが、おかしい。妙だ。どうも、いつもと違う。


 店内に近づくにつれ、なにやら大勢の人間が騒ぎ立てる声が聞こえてきた。

「いらっしゃいませー。お好きな席にどうぞ」

 という店員の挨拶もかき消されそうなほど、熱狂的な声が渦を巻いている。

 見れば、フロアいっぱいの外国人の集団が、グラスやびんを片手に、複数あるテレビに釘づけとなっている。

 彼ら彼女らの視線の先にある画面には、外国のサッカー中継が映し出されていた。

 愛那が軽く固まっている間にも、選手の一挙手一投足に、歓喜の叫びや失意の溜息があがる。


(な、なんか外人さんでいっぱいだ。みんな、サッカーをに来てるのかな)


 愛那の知るFABとは別次元の客の入りではあるが、幸いにも満席ということはなさそうだ。ちらほらとだが、空席も見られる。

 盛り上がるサッカーファンたちを横目に、愛那はキャッシャーのほうへ向かった。

 他の客にフードを運び終わった店員がそれを見て、愛那のもとへ足早にやって来る。

「お待たせしました。ご注文をどうぞ」

 さあ、注文の時間だ。

 コツは、メニューを見ているように見せかけて、店員の目を見ない。

 それと、可能な限り、声を大きく。自分が思っているよりも、大きく。

「グィ、グィネスを、1パイント……」

「はい?」

 まずい。声が小さかった。店内の喧騒けんそうに負けてしまった。

「あっ、へぁっ、す、すみません。グィネスを1パイント……」

「グィネスを1パイントですね。かしこまりました」

「あ、あと、フィッシュ・アンド・チップスも、ください。2ピースのほう、です……」

「はい、かしこまりました。グィネスは二度ぎしますので、少しお時間をいただきます」

 店員に金を払い、ふう、と胸をで下ろす。


(FABはこれがねぇ。タッチパネルだったらいいのに……)


 せん無きことを、もにょもにょと悩む愛那。

 普段、スーパーやコンビニではセルフレジを利用し、他者とのコミュニケーションを最小限に抑えている彼女にとっては、さぞかしつらいのであろう。

「こちらの番号札をお持ちになって、お席のほうでお待ちください」

 番号札を受け取り、振り返る。

 そこには外国人サッカーファンの集団。

 “一難去って、また一難”は言い過ぎであろうか。

 この騒がしさ、この熱気。はっきり言って、苦手な部類だ。

 しかし、まさか、嫌な顔をする訳にもいかない。

 今この瞬間、この店の正義は彼らなのだから。


(じゃ、邪魔にならないように、はじっこにいよう……)


 背中を丸めてこそこそと移動し、キャッシャー横にひっそりもうけてあるカウンター席の、さらに一番端に座る。

 この小さな空間が自分の宇宙だ、と己に言い聞かせて。


 さて、ドリンクを待つ間の、手持無沙汰な時間。こればかりは、致し方ない。

 正面の壁に飾られたボブ・マーリーやセックス・ピストルズのポートレートをしばし見つめ、なにげなくテレビのほうへと視線を移す。

 画面の中では、スカイブルーのユニフォームを着た男たちと、黒のユニフォームを着た男たちが、激しくボールを奪い合っていた。

 特になんの感慨もなく、頬杖ほおづえをついて、それを眺める愛那。

 彼女は、スポーツにあまり興味がなかった。強いて言えば、WBCやサッカーW杯で日本を応援する程度だが、それすら積極的ではない。朝の情報番組で試合結果を見て、「勝ったんだ。よかった、よかった」と思うくらいのものである。

 目の前に広がる光景は、自分とはまるで無縁の世界。真逆と言ってもいい。

 たかがスポーツでここまで熱狂できる人種に辟易へきえきする一方、わずかばかりのうらやましさを覚えてしまう。

 ここに溶け込めたら、少しは人生楽しくなるのかしら。いや、まさか。

 そんなことを取りとめもなく考えていると、不意に横合いから声がかかった。

「お待たせいたしました。グィネスです」

 来た。

 待ちに待った、グィネスビール。

 ようやく、来た。

 普段自宅で使うグラスよりも大きめの、頼もしさすらあふれる、パイントグラス。

 黒い液体と白い泡のコントラスト。

 クリーミーな泡の表面には、キリスト教の父と子と聖霊、“三位一体さんみいったい”を表す、三つ葉のクローバーシャムロックが描かれている。

 グラスにそっと口づけ、泡の向こうからやって来る液体を、遠慮がちにすすった。

 濃厚なコクが口中いっぱいに広がり、香ばしさが鼻に抜ける。喉を通る、ごく穏やかな炭酸の、優しげな刺激も心地よい。

「っぱ、これだわ! くー!」

 思わず、喜悦の声が漏れてしまった。

 愛那は、顔を真っ赤にして、高速で周囲を見回した。

 どうやら客にも店員にも聞かれていないようだ。

 気を取り直し、ふたたびグィネスと向かい合う。


(グィネスは普通のビールみたいにがぶがぶ飲んじゃダメよね。ウイスキーを飲むみたいに、ちびりちびりとやって、味を楽しまなきゃ)


 どこぞで聞きかじった知識を脳内で独り語り、えつる彼女ではあるが、それを他者に表明する場面は一度としてなかった。反論されるのが怖かったし、第一、話す相手もいない。

 やがて、フィッシュ・アンド・チップスも運ばれてきた。

 英字新聞風の耐油紙が敷かれたかごに乗せられた、フィッシュ白身魚のフライチップスフライドポテト。どちらも熱々だ。

 ケチャップとタルタルソースが添えられ、さらに別で、モルトヴィネガーの瓶が置かれる。

 愛那は、大きく太めにカットされたチップスをつまみ上げ、


(まずはなんにも付けずに、っと)


 口に入れると同時に、火傷せんばかり熱さが、舌に伝わった。まさに揚げたて。

 ほふほふと熱気を逃しつつ、チップスを慎重に咀嚼そしゃくしていく。


(んー、ホックホク。大きく切ってあるポテトって、食べ応えがあって好き。イモ食べてるー、って気分になれるもん)


 ごくりと飲み込めば、灼熱感が喉を通り、緩やかに胃へ降りていくのがわかった。熱々のうちにしかできない味わい方である。

 お次は、フィッシュだ。

 15cmほどの長方形に似た白身魚のフライを、やはり指でつまみ上げる。

 箸も一緒にきょうされてはいるのだが、彼女はフィッシュ・アンド・チップスに関しては、なぜかいつも、かたくなに箸を使おうとはしなかった。それが本場の食べ方と信じているらしい。

 勇んでフィッシュにかじりつくなり、サクリという軽快な音と食感が伝わってきた。


(んんー! おいしー! ころもはカリカリ、サクサクだけど、中の魚はふんわり柔らかぁい!)


 便宜上、フライと呼ばれているのだが、パン粉ではなく小麦粉を使った厚く硬い衣であるため、食感としてはフリッターに近い。

 この衣の硬さと白身魚の柔らかさの共存が、複雑かつ心地よい食感を完成させるのだ。

 そして、愛那はここで、チップスにもフィッシュにも、モルトヴィネガーをたっぷりとかけ回す。

 添えられたケチャップとタルタルソースに、ちらりと目を向けるも、


(ケチャップもタルタルもなんか違うんだよねぇ。やっぱりフィッシュ・アンド・チップスはお酢なんだよー)


 などと、やたらにつうぶってはいるが、根が貧乏性の彼女のことだ。どうせケチャップもタルタルソースも、あとからたっぷりとつけるに違いない。

 空腹も手伝ってか、今度はチップスを四つばかり、立て続けに頬張っていく。

 さらに、残るフィッシュのかけらを放り込もうと、口を開けた、その時——


「Nooooooooooo! Fucking wanker!」


 女性の悲痛な絶叫が、フロアを切り裂き、愛那の耳をつんざいた。

 愛那は目を丸くして驚いた。尻が椅子から2cmは跳ね上がったほどだ。


(び、びっくりしたー。なになに、なんなの)


 愛那からさほど離れていない、右斜め前方の席。

 そこでは、ビール瓶片手の白人女性がテレビを凝視しつつ、頭を抱え、愕然としていた。

 画面を確認すると、黒いチームの選手たちが、抱き合って喜びをあらわにしている。表示は「0-1」。彼らが先取点を決めたようだ。

 それに加えて、女性が着ているスカイブルーのレプリカユニフォームに気づくに至り、愛那はようやく合点がてんがいった。


(なるほど…… あの人はあっちのチームのファンなワケね)


 よほど悔しいのであろう。太い眉をハの字に下げて、元々大きいであろう口を、さらに大きくぽっかりと開けている。

 その表情は、日本人には多少、大袈裟に見えなくもない。まるで、漫画やアニメに出てくるキャラクターのそれである。


(それにしても背のおっきい人だなぁ。私もそんな低いほうじゃないけど、私より頭半分以上はあるよ。さすが、外人さん。うらやましいねぇ……)


 愛那は、女性が応援に夢中なのをいいことに、彼女をまじまじと見つめ始めた。絵師特有の観察眼、職業病、と言えなくもない。

 しかし、彼女のどこが、そこまで気になるのだろう。

 取り立てて美人という訳ではないし、鼻や頬にはそばかすも多く、ライトブラウンのミディアムボブはひどいくせ毛だ。

 しばしの間、観察を続ける愛那。


(あー、そっかぁ——)


 次第に、少しずつ、彼女の魅力を理解していく。

 表情だ。たくさんの、大きな感情の表し方。眉、目、口。そして、身振り手振り。

 喜怒哀楽のひとつひとつが、なんとも愛嬌にあふれているのだ。

 そんな表情が、くるくると多彩に変わり、こちらの興味を途切れさせない。

 ともすれば欠点となりかねないそばかすも、彼女の鮮やかな表情の変化に花を添えるようで、より一層のチャーミングさを引き出している。

 そこからの愛那は、彼女から目が離せなかった。

 必死で応援している彼女には悪いが、愛那にはサッカー中継を観ているよりも、彼女を見ていたほうが、ずっと楽しい。


 しばらくして、愛那が観ていない画面の中で、スカイブルーのチームに動きがあった。

 髭面ひげづらの選手のクロスに合わせ、金髪の選手がシュート一閃。キーパーの手をすり抜け、ゴールに突き刺さる。

 土壇場の同点弾イコライザー。ついに1点を返した。

 見開かれる彼女の目。喜びはいかばかりか。


(飛び上がって喜んでる! あのまぶしいくらいの笑顔……!)


 同点に追いつき、試合時間は残り少ない。

 彼女の顔に緊張の色が浮かぶ。周囲の客とはげまし合う。

 それを見る愛那の拳が、ギュッと握り締められる。相変わらず試合は観ていない。


(頑張って…… 頑張って……)


 スカイブルーが飛び出した。またも金髪の選手だ。

 キーパーとの一対一の勝負。だが、ゴールまでは、いまだ遠い。

 緊迫のこの場面で、ソフトに繰り出される左足。

 ボールは華麗な弧を描き、キーパーの頭上を、精一杯に伸ばした手を、ふわりと飛び越す。

 直後、審判の笛が、ピッチにもFAB店内にも、響き渡った。


「Yes! Yes yes yes yes! Woooooooooo!」


 彼女の歓声もまた、店内にこだまする。

 終了間際、ドラマティックな逆転劇。ファン冥利みょうりに尽きる、といったところか。

 彼女は、両の目にわずかな涙をにじませ、それでも満面の笑みで「High five!」と声をあげながら、周囲の酔客すいきゃくとハイタッチだ。

 あらかたの仲間たちと喜びを分かち合ったあとは、妙なふしで歌いつつ、ゆらゆらとリズミカルに身体を揺らせている。

「All the young blues♪ Carry the news♪」

 歌とダンスで表される、勝利の喜び。

 その姿を眺める愛那も、思いがけず顔をほころばせ、胸の前で小さく拍手していた。


 瞬間——


 踊る女性が、くるりとターンを決めた際、図らずも彼女と愛那の目が合ってしまった。

 まっすぐに彼女を見つめ、ニッコリと微笑みを浮かべて、手を叩く愛那と。


(やばっ! こっち見た!)


 刹那せつなの速度で、目をそらし、カウンターテーブルのほうへ向き直る。

 が、時すでに遅し。

 彼女は、一足いっそく飛びに愛那のもとへ近づき、その肩を力強く抱いた。

「アナタもCITYシティの勝利、祝ってくれマスカ!?」

「えっ!? えっ!? あ、あ、あっ、あの……」

 挙動不審なくらいに戸惑い、身を固くする愛那。それも当たり前か。

 女性は、お構いなしに強烈なハグをめ、ビールの瓶を高々と掲げる。

 あの、素敵な笑顔で。


「お祝いシマショウ! 飲みマショウ! 今日はワタシのおごりデス!」


「ええええええええええええ……」


 これはとんでもないことになってしまった。

 呆気あっけに取られる愛那であったが、このそばかすの外国人女性は、隣の席へ腰を下ろし、お構いなしに話を続けた

Ohオー、自己紹介、まだデスネ。ワタシ、“Sallyサリー Sumnerサムナー”デス。Manchesterマンチェスターから来マシタ」

「マンチェスター…… イギリス、ですよね?」

Yesイエス、いぎりすデス」

 妙に日本なまりの「イギリス」という発音に、愛那は内心、首をひねる。

 直後、その疑問は、乏しい海外知識によって、自己解決に至った。


(あ、そっか。イギリス人は“イギリス”なんて言わないもんね。“Britainブリテン”とか“Unitedユナイテッド Kingdomキングダム”とか、言うの、かな? たぶん……)


 そこまで考えて、愛那はと気づいた。

 サリーが、わくわくとした顔でこちらを見つめ、なにかを待っていることに。

 いけない。そういえば、まだ自己紹介をしていなかった。

 愛那は慌てて、

「私は、立花愛那、です。アンナ・タチバナ」

Annaアナ! ステキな名前デスネ! ヨロシク、アナ」


(アナ、かぁ。ちょっといいかも…… えへへ)


 現代的な当て字の、なんの意味もない我が名も、ネイティブの発音で呼ばれると、なかなか悪くない。

 まるで、ファンタジーアニメ映画の主人公みたいではないか。

 などと、くだらないことを考えているうちに、サリーからの声が飛んだ。

「アナ?」

 しまった。また自分の世界に入りかけていた。

 妄想や脳内ナレーション、自分との会話がへきの自分が、うらめしくなる。

「あっ、すみません! サムナーさん!」

Noノー、アナ」

 サリーが突如、細く形の良い人差し指をリズミカルに左右へ振りつつ、愛那の話をさえぎった。

 そして、己の胸に手を当て、

「ワタシは“サリー”と呼んでクダサイ」

 なんということだ。名前呼びでさえハードルが高いのに、呼び捨てときた。

 だが、こうして仲良くしてくれる好人物が望んでいるのだ。無下むげにはできない。

 愛那はうつむき、彼女から目をそらして、必死の思いで発声を試みた。

「サ、ササッ、サリー……?」

「よくできマシタ」

 悪戯っぽく笑うサリーが、愛那の肩をポンポンと叩く。

 さらには、その手を愛那の肩に置いたまま、にこやかさが増した顔で、言った。

「アナは日本人なのにPremierプレミア Leagueリーグが好きなんデスネ。嬉しいデス」

「プレミア・リーグ……? す、すみません。よくわからないです……」

Ohオー、ではJジェイ.Leagueリーグデスネ?」

「い、いえ、Jリーグも別に……」

 どうやら多少の誤解を生んでいるようである。

 今日のこの日にFABを訪れたのはまったくの偶然だし、拍手して喜んでいたのは嬉しがるサリーに対してだ。別にサッカーファンな訳ではない。それどころか、スポーツそのものに興味がないのだ。

 サリーは、大きくつぶらな目を、さらに丸くしている。

 それでは、なぜ彼女は我が地元クラブの勝利を、あんなに喜んでいたのか?

Hmmフム? アナはFootballフットボールが好きではないデスカ?」

 この質問に、今度は愛那が目を丸くする番だった。

 愛那の頭には、肩パットをつけた屈強な男がラグビーボールを手に走っている姿が、思い浮かんでいる。

「えっ? フットボール? サッカーじゃなくてですか?」

 スポーツにもイギリス文化にも詳しくない愛那からすれば、当然の疑問と言っていい。

 しかし、その言葉を聞いたサリーは、ジト目に口をとがらせた不満げな表情で、ずいっと愛那へ顔を近づけた。

Soccerサッカー違いマス。ワタシたち、Footballフットボール言いマス」

「あ、そ、そうなんだ。フットボール、フットボールですね。あはは……」

“イギリスではサッカーのことをフットボールと呼ぶ”と心のメモ帳に書き込んだのち、愛那は失敗を取り返すように、自分が持っている唯一の会話のネタを振ってみた。

「さっきはすごく情熱的な応援でしたけど、サリーって本当にフットボールが大好きなんですね」

 強烈な印象であったし、正直な感想でもあった。それがなければ、このイギリス人女性に興味を抱かなかっただろう。

 そして、その言葉の効果は抜群だった。

 サリーは、不満げな顔から一転、

Yesイエス! ワタシはFootballフットボール大好きデス! Manchesterマンチェスター Cityシティ FCエフシーを愛してマス!」

 メーターの針が振り切れる勢いで、テンションが急上昇した。

 本当に表情豊かで、感情の大きな女性である。

 ただし、若干引き気味な愛那に気づいたのか、そこからのサリーは、いくぶん落ち着いた調子で話を続けた。

「オホン。ワタシの国では、Footballフットボールがすごく人気デス。Uhアー、国民的なSportスポーツデスネ。多くの人はワタシみたいに、自分のHometownホームタウンFootballフットボール clubクラブを応援シマス」

 なるほど、サリーが応援していたあのスカイブルーが、彼女の故郷マンチェスターのチームか、と愛那は心中で一人うなずく。

 心中うなずくだけで、言葉は続かない。

 そこで、会話は途切れる。

 愛那は、がっくりと地べたに両手を突きたい気分に陥っていた。


(やっぱり、こうだよ…… 私が会話なんて、続くワケないじゃん……)


 サリーは、へどもどしている愛那を不思議しそうに眺め、次に彼女のグラスに目を移した。

 愛那いわく、はずのグィネスは、とっくに空になっていた。

 緊張のあまり、がぶ飲みしてしまったか。


Uhアッ Ohオー、アナ、飲み物ないデスネ。ちょと待っててクダサイ」


 そう言い残し、軽やかな足取りでキャッシャーへ向かうサリー。

 カウンターに寄りかかり、笑顔で店員とやり取りを始めた。

 ブリティッシュパブでのレプリカユニフォームとジーンズという服装が、自然なものに見えてくる。

 まるで、洋画か海外ドラマのワンシーンのようだ。


(はぁ、お酒を頼む姿もさまになってるなぁ。私とは大違い…… って、そんなこと考えてる場合じゃない!)


 話題、話題。なにか話題はないか。話題よ、出てこい。

 愛那は脳みそをフル回転させる。

 まるで前日入稿締め切り日の二週間前のごとく。

 やがて、サリーが、ステンレス製のタンブラーを両手にひとつずつ持ち、戻って来た。

 片方を愛那に差し出し、

「ハイ、ドウゾ。Ginジン andアンド Tonicトニックデス。飲んだコト、ありマスカ?」

「あ、いえ、ないです」

Ginジンはワタシの国のお酒デス。おいしいデスヨ」

 そう言われたものの、ビール党の愛那は、ジンを飲んだことがない。

 名前だけは知っているが、どんな味なのだろうか。自分に飲めるのだろうか。

 タンブラーの中には、炭酸を含んだ透明な酒、氷、それとカットされたライム。

 おそるおそる口に運んでみる——


 悪くない。軽い驚きだ。


(おー、なるほど。少し薬臭い? ような気もするけど、さわやかな味だわ。そんなにアルコールがキツイってこともなくて飲みやすいし)


 すぐに、サリーのほうへと向き直る。

「あっ、お、おいしいです。私、結構好きかも」

 けっしてお追従ついしょうではなく、しんからの賛辞だ。

 それを聞いたサリーの大きな口は、三日月のような曲線を描き、そこから白い歯が見えた。

 喜んでくれて嬉しい、とでも言うべき、こちらも心からの表情である。

 他人の幸せで幸せになれる人間とは、こういう人なのかもしれない。愛那は、そう思えた。

 そんなサリーに後押しされたか。

 必死でひねり出した話題だが、なにげなくを装い、振ってみる。


「あ、あの、えっと、サリーのミドルネームはなんていうんですか? ほら、アメリカとかイギリスの人って、ミドルネームがあるでしょう?」


 口に出してから痛烈に後悔するまで、二秒とかからなかった。


(我ながらしょうもなああああああああい!)


 もはや自分の会話下手が、たぐいまれなる才能に思えてくる。そうでなければ、治る見込みのない病気か。

 見よ。その証拠に、尋ねられたサリーは、

Uhアー, Middleミドル nameネームデスカ……」

 と浮かない顔で、言葉を濁しているではないか。

「あ、ご、ごめんなさい。なんか、悪いこと聞いちゃましたかね……」

「イエイエ、悪くないデス」

 サリーはそう言って、軽く手を振る。顔はわかりやすい苦笑いだ。

「ワタシのFullフル nameネームは“Sarahサラ Cinnamonシナモン Sumnerサムナー”、いいマス」

「シナモン…… シナモンって、あのシナモン?」

 紅茶に添えられたスティックや、自宅の戸棚に収められている小瓶を思い浮かべる愛那。

「ハイ、そのCinnamonシナモンデス。お父サンがStoneストーン Rosesローゼズの曲から付けマシタ。ワタシはあまり好きではないデスガ…… ちょと、恥ずかしい名前デス」

 この恥ずかしがり方からして、外国にも“キラキラネーム”、“DQNドキュンネーム”という概念はあるのだろう。

 とはいえ、自分が日本人であり、当人が外国人ということもあってか、愛那は「シナモン」にそれほどおかしさや不自然さを感じていない。

 むしろ、チャーミングなサリーに、ぴったりの名前に思える。

「わ、私は好きですよ。シナモン。かわいいじゃないですか」

“かわいい”

 今では、世界でも一部、通用するようになった日本語。

 そんな形容詞で褒められたのだ。サリーは瞬時に上機嫌となっていた。

KawaiiカワイイThankサンキ youュー soソー muchマッチ! アリガトウゴザイマス!」

 愛那の両手を握り締め、ブンブンと振る。


 そうして、二人はペース良く杯を重ね、途切れがちに会話を重ね——


 愛那が気づくと、サリーは人差し指を顎に当て、店内を見回していた。

 試合の熱気はすでに冷めていたが、まだまだ勝利の余韻が残るファンたちの語り合う声、笑い声が、そこかしこから響いてくる。相変わらず、大勢の客で混みあってもいた。

 次にサリーは、隣の愛那を見つめた。すかさず目をそらす愛那。

 サリーからすれば、滅多に目を合わせてくれず、ぎこちない話し方で、時折なにか考え込んでいる、変わった日本人女性だ。

 すると、サリーはなにを思ったか、前のめりになって、唐突にこんなことを言い出した。

「アナ。別のお店に、ワタシとアナで、飲みに行きマセンカ?」

「えっ!?」

Uhアー、日本語で…… ニジカイ! ニジカイデスネ!」

 イントネーションが「二次会」ではなく「二時回」なのだが、それは置いておいて、サリーの誘いに、愛那はどうしても腰が引けてしまう。


(ただでさえ他人としゃべるのが苦手なのに、話が全然合わないイギリス人とサシ飲みで二軒目とか、どんな苦行……)


 うつむき、目をそらす愛那であったが、サリーは前のめりの姿勢を崩さない。

「ここから少し近く、ワタシのヒキツケのPubパブがありマス」

「引きつけ……? あっ、引きつけじゃなくて、行きつけですよ。行きつけ」

Ohオー、間違えマシタ! 日本語、難しいデスネ」

「あははっ」

 外国人にありがちな、天然めいた言い間違いに、思わず笑いが漏れてしまった。

 サリーは得たりとばかりに、愛那の瞳を見つめ、

「スゴク良い店。アナにも知ってほしいデス。きっと気に入りマスヨ」

 そう優しくささやき、ニッと笑う。


 及び腰だった愛那は、結局、ニジカイへの参加を決めた。この輝く笑顔に負けてしまったのだ。

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