ふれんず&あるかほる
佐井乙貴
第1話【Hello】 A-side
東京メトロ東西線から中央・総武線。勤め先の日本橋から自宅までの約50分間。
両隣を貫禄のある男性に挟まれた、0.7人分の座席。
じっとり汗ばんでいく、白のブラウスと、グレーのビジネススーツ。
視線の先には、黒く地味な己のパンプス。
音量に細心の注意を払ったイヤホンから流れる、今期のアニメOP・EDコレクションもその実、頭の中までは届いていない。
そろそろ上昇の
(はぁ、疲れた…… 先輩が辞めちゃって以来、仕事が全部私のところに来るんだもんなぁ……)
相方兼教育係だった先輩は、ある日体調を崩し、一週間の欠勤ののち、そのまま退職してしまった。
どれだけ優秀で、後輩想いで、辛抱強い先輩だったか。
それを真に理解できたのは、社会人二年目の一般職OLには、荷が勝ちすぎる仕事量を背負わされてからだった。
(優しくて、指導が丁寧で、私なんかにも気を遣ってくれる、いい先輩だったのに……)
昨年、大学を卒業して北海道から上京し、現在の職場に入社して以来、どれだけ可愛がられたかわからないくらいだ。
そんな愛すべき先輩は、大量の業務を自身のもとで処理し、後輩である愛那の負担が増えないようにしてくれていた。
それを思うと、気分は落ち込み、心は暗くなる。
(なんか、もう、なんもする気になれないや……)
朝の時点ではプランを立てていた、夕食のメニューも、買うべき食材も、どこかへ
もはや、近所のスーパーに寄ることすら、
それでも、立花愛那を形成する最後の砦は、この重い疲労に必死で
(でも、ネームどころかプロットもできてないし。少しでも手と頭、動かさなきゃなぁ。また前日入稿でボロボロになるのも嫌だし……)
イラスト、漫画。二次創作。同人活動。
それら
小学生の頃には絵を描き始めた。両親に褒められ、自信を深めていった。
高校に上がる頃には、地元の小さい規模ではあるものの、同人誌即売会にも参加していた。
コミュ障が災いして、同好の士は一人もいなかったとはいえ、である。
なりたくてなった訳でも、やりたくてやっている訳でもない仕事なんかよりもずっと、自分のままでいられ、自分を認めてもらえる、なによりも楽しい趣味なのだ。
愛那は、しばし目を閉じ、考える。
今は6月初め。参加予定のイベント、コミックマート102は8月中旬。
現状、やるべきこと。印刷所の入稿締め切り。残る日数。自身の作業スピード。
熟慮に熟慮を重ねた愛那が、カッと眼を開いた。
(まあ、金曜の夜だし、明日あさっては休みだし、今晩くらい外でお酒飲んだっていいよね。うん、明日から本気出そう。土日あるんだから)
陥落。崩壊。あまりにもろかった、最後の砦。
そもそも彼女には、月曜から金曜までの平日、帰宅してからのプライベートタイムに、少しずつ作業を積み重ねるといった発想がなかった。
それでいて、土曜日曜はアニメ視聴、動画視聴、そして飲酒で時間を空虚に浪費することも珍しくない。
常にイベント当日の半月前にならなければ、頭も手も動き出さない、そんなある種の
(そうだ。今日は
荷を下ろしたとなれば、切り替えも早い。すでに頭の中は、自分を待っている酒と
電車は緩やかにスピードを落とし、やがて、止まった。
そこは、気取って言えば彼女の
開くドア。吐き出される乗客。
吉祥寺駅のプラットフォームに、愛那もまた、降り立った。
吉祥寺。
東京二十三区外の繁華街としては、代表的な街である。
吉祥寺駅を中心に、ムーンロード商店街やサファイヤ街、ピアニカ横丁などの商店街があり、それ以外にも複数の大型商業施設が建ち並んでいる。
無論、居酒屋、バー、ビアホールなども多数営業しており、酒を飲むにも事欠かない。
この街では、平日も休日も、昼も夜も、たくさんの人々でにぎわいを見せていた。
ちなみに、吉祥寺は多くの漫画家が住んでいたり、アニメ制作会社があったりと、サブカルチャーの街としての側面も有している。
南改札を抜け、駅南口へと急ぐ愛那。
人の波に乗り、駅構内を足早に進んでいく。
週末の夜。気も
向かう先は、駅南口から歩いてわずか1分足らずの場所にあるブリティッシュパブ、FAB吉祥寺南口店だ。
しかし、愛那はふと、エスカレーターが見えたあたりで、歩調を緩めた。
(あっ、あの人だ)
伏し目がちに歩く一人の人物が、こちらへ向かってくる。
長身と色の白さに、プラチナブロンドの髪がよく似合う、
その美しさに似合わぬドギツいパンク・ファッションに身を包み、肩にギターケースをかついでいる。
会社帰りや休日に、この駅でたまに見かける、おそらくは同年代の女性なのだが、どうしても目の
地味な自分が持っていない美しさ。オタクの自分が持っていない不良性。そういったものに
(ひさしぶりに見れちゃった。ちょっと嬉しい…… って、のんびりしてる場合じゃない!)
愛那はハッと我に返り、ふたたび、足を速めた。
エスカレーターを降りて、路線バスも通る狭い道を行き、ほどなく、FABの前に到着。
この
店の前に置かれている看板には「
少し重い木製のドアを開け、ほの暗く狭い階段を降りる。店は地下にあるのだ。
だが、おかしい。妙だ。どうも、いつもと違う。
店内に近づくにつれ、なにやら大勢の人間が騒ぎ立てる声が聞こえてきた。
「いらっしゃいませー。お好きな席にどうぞ」
という店員の挨拶もかき消されそうなほど、熱狂的な声が渦を巻いている。
見れば、フロアいっぱいの外国人の集団が、グラスや
彼ら彼女らの視線の先にある画面には、外国のサッカー中継が映し出されていた。
愛那が軽く固まっている間にも、選手の一挙手一投足に、歓喜の叫びや失意の溜息があがる。
(な、なんか外人さんでいっぱいだ。みんな、サッカーを
愛那の知るFABとは別次元の客の入りではあるが、幸いにも満席ということはなさそうだ。ちらほらとだが、空席も見られる。
盛り上がるサッカーファンたちを横目に、愛那はキャッシャーのほうへ向かった。
他の客にフードを運び終わった店員がそれを見て、愛那のもとへ足早にやって来る。
「お待たせしました。ご注文をどうぞ」
さあ、注文の時間だ。
コツは、メニューを見ているように見せかけて、店員の目を見ない。
それと、可能な限り、声を大きく。自分が思っているよりも、大きく。
「グィ、グィネスを、1パイント……」
「はい?」
まずい。声が小さかった。店内の
「あっ、へぁっ、す、すみません。グィネスを1パイント……」
「グィネスを1パイントですね。かしこまりました」
「あ、あと、フィッシュ・アンド・チップスも、ください。2ピースのほう、です……」
「はい、かしこまりました。グィネスは二度
店員に金を払い、ふう、と胸を
(FABはこれがねぇ。タッチパネルだったらいいのに……)
普段、スーパーやコンビニではセルフレジを利用し、他者とのコミュニケーションを最小限に抑えている彼女にとっては、さぞかしつらいのであろう。
「こちらの番号札をお持ちになって、お席のほうでお待ちください」
番号札を受け取り、振り返る。
そこには外国人サッカーファンの集団。
“一難去って、また一難”は言い過ぎであろうか。
この騒がしさ、この熱気。はっきり言って、苦手な部類だ。
しかし、まさか、嫌な顔をする訳にもいかない。
今この瞬間、この店の正義は彼らなのだから。
(じゃ、邪魔にならないように、はじっこにいよう……)
背中を丸めてこそこそと移動し、キャッシャー横にひっそり
この小さな空間が自分の宇宙だ、と己に言い聞かせて。
さて、ドリンクを待つ間の、手持無沙汰な時間。こればかりは、致し方ない。
正面の壁に飾られたボブ・マーリーやセックス・ピストルズのポートレートをしばし見つめ、なにげなくテレビのほうへと視線を移す。
画面の中では、スカイブルーのユニフォームを着た男たちと、黒のユニフォームを着た男たちが、激しくボールを奪い合っていた。
特になんの感慨もなく、
彼女は、スポーツにあまり興味がなかった。強いて言えば、WBCやサッカーW杯で日本を応援する程度だが、それすら積極的ではない。朝の情報番組で試合結果を見て、「勝ったんだ。よかった、よかった」と思うくらいのものである。
目の前に広がる光景は、自分とはまるで無縁の世界。真逆と言ってもいい。
たかがスポーツでここまで熱狂できる人種に
ここに溶け込めたら、少しは人生楽しくなるのかしら。いや、まさか。
そんなことを取りとめもなく考えていると、不意に横合いから声がかかった。
「お待たせいたしました。グィネスです」
来た。
待ちに待った、グィネスビール。
ようやく、来た。
普段自宅で使うグラスよりも大きめの、頼もしさすらあふれる、パイントグラス。
黒い液体と白い泡のコントラスト。
クリーミーな泡の表面には、キリスト教の父と子と聖霊、“
グラスにそっと口づけ、泡の向こうからやって来る液体を、遠慮がちにすすった。
濃厚なコクが口中いっぱいに広がり、香ばしさが鼻に抜ける。喉を通る、ごく穏やかな炭酸の、優しげな刺激も心地よい。
「っぱ、これだわ! くー!」
思わず、喜悦の声が漏れてしまった。
愛那は、顔を真っ赤にして、高速で周囲を見回した。
どうやら客にも店員にも聞かれていないようだ。
気を取り直し、ふたたびグィネスと向かい合う。
(グィネスは普通のビールみたいにがぶがぶ飲んじゃダメよね。ウイスキーを飲むみたいに、ちびりちびりとやって、味を楽しまなきゃ)
どこぞで聞きかじった知識を脳内で独り語り、
やがて、フィッシュ・アンド・チップスも運ばれてきた。
英字新聞風の耐油紙が敷かれた
ケチャップとタルタルソースが添えられ、さらに別で、モルトヴィネガーの瓶が置かれる。
愛那は、大きく太めにカットされたチップスをつまみ上げ、
(まずはなんにも付けずに、っと)
口に入れると同時に、火傷せんばかり熱さが、舌に伝わった。まさに揚げたて。
ほふほふと熱気を逃しつつ、チップスを慎重に
(んー、ホックホク。大きく切ってあるポテトって、食べ応えがあって好き。イモ食べてるー、って気分になれるもん)
ごくりと飲み込めば、灼熱感が喉を通り、緩やかに胃へ降りていくのがわかった。熱々のうちにしかできない味わい方である。
お次は、フィッシュだ。
15cmほどの長方形に似た白身魚のフライを、やはり指でつまみ上げる。
箸も一緒に
勇んでフィッシュにかじりつくなり、サクリという軽快な音と食感が伝わってきた。
(んんー! おいしー!
便宜上、フライと呼ばれているのだが、パン粉ではなく小麦粉を使った厚く硬い衣であるため、食感としてはフリッターに近い。
この衣の硬さと白身魚の柔らかさの共存が、複雑かつ心地よい食感を完成させるのだ。
そして、愛那はここで、チップスにもフィッシュにも、モルトヴィネガーをたっぷりとかけ回す。
添えられたケチャップとタルタルソースに、ちらりと目を向けるも、
(ケチャップもタルタルもなんか違うんだよねぇ。やっぱりフィッシュ・アンド・チップスはお酢なんだよー)
などと、やたらに
空腹も手伝ってか、今度はチップスを四つばかり、立て続けに頬張っていく。
さらに、残るフィッシュのかけらを放り込もうと、口を開けた、その時——
「Nooooooooooo! Fucking wanker!」
女性の悲痛な絶叫が、フロアを切り裂き、愛那の耳をつんざいた。
愛那は目を丸くして驚いた。尻が椅子から2cmは跳ね上がったほどだ。
(び、びっくりしたー。なになに、なんなの)
愛那からさほど離れていない、右斜め前方の席。
そこでは、ビール瓶片手の白人女性がテレビを凝視しつつ、頭を抱え、愕然としていた。
画面を確認すると、黒いチームの選手たちが、抱き合って喜びをあらわにしている。表示は「0-1」。彼らが先取点を決めたようだ。
それに加えて、女性が着ているスカイブルーのレプリカユニフォームに気づくに至り、愛那はようやく
(なるほど…… あの人はあっちのチームのファンなワケね)
よほど悔しいのであろう。太い眉をハの字に下げて、元々大きいであろう口を、さらに大きくぽっかりと開けている。
その表情は、日本人には多少、大袈裟に見えなくもない。まるで、漫画やアニメに出てくるキャラクターのそれである。
(それにしても背のおっきい人だなぁ。私もそんな低いほうじゃないけど、私より頭半分以上はあるよ。さすが、外人さん。うらやましいねぇ……)
愛那は、女性が応援に夢中なのをいいことに、彼女をまじまじと見つめ始めた。絵師特有の観察眼、職業病、と言えなくもない。
しかし、彼女のどこが、そこまで気になるのだろう。
取り立てて美人という訳ではないし、鼻や頬にはそばかすも多く、ライトブラウンのミディアムボブはひどいくせ毛だ。
しばしの間、観察を続ける愛那。
(あー、そっかぁ——)
次第に、少しずつ、彼女の魅力を理解していく。
表情だ。たくさんの、大きな感情の表し方。眉、目、口。そして、身振り手振り。
喜怒哀楽のひとつひとつが、なんとも愛嬌にあふれているのだ。
そんな表情が、くるくると多彩に変わり、こちらの興味を途切れさせない。
ともすれば欠点となりかねないそばかすも、彼女の鮮やかな表情の変化に花を添えるようで、より一層のチャーミングさを引き出している。
そこからの愛那は、彼女から目が離せなかった。
必死で応援している彼女には悪いが、愛那にはサッカー中継を観ているよりも、彼女を見ていたほうが、ずっと楽しい。
しばらくして、愛那が観ていない画面の中で、スカイブルーのチームに動きがあった。
土壇場の
見開かれる彼女の目。喜びはいかばかりか。
(飛び上がって喜んでる! あのまぶしいくらいの笑顔……!)
同点に追いつき、試合時間は残り少ない。
彼女の顔に緊張の色が浮かぶ。周囲の客とはげまし合う。
それを見る愛那の拳が、ギュッと握り締められる。相変わらず試合は観ていない。
(頑張って…… 頑張って……)
スカイブルーが飛び出した。またも金髪の選手だ。
キーパーとの一対一の勝負。だが、ゴールまでは、いまだ遠い。
緊迫のこの場面で、ソフトに繰り出される左足。
ボールは華麗な弧を描き、キーパーの頭上を、精一杯に伸ばした手を、ふわりと飛び越す。
直後、審判の笛が、ピッチにもFAB店内にも、響き渡った。
「Yes! Yes yes yes yes! Woooooooooo!」
彼女の歓声もまた、店内にこだまする。
終了間際、ドラマティックな逆転劇。ファン
彼女は、両の目にわずかな涙をにじませ、それでも満面の笑みで「High five!」と声をあげながら、周囲の
あらかたの仲間たちと喜びを分かち合ったあとは、妙な
「All the young blues♪ Carry the news♪」
歌とダンスで表される、勝利の喜び。
その姿を眺める愛那も、思いがけず顔をほころばせ、胸の前で小さく拍手していた。
瞬間——
踊る女性が、くるりとターンを決めた際、図らずも彼女と愛那の目が合ってしまった。
まっすぐに彼女を見つめ、ニッコリと微笑みを浮かべて、手を叩く愛那と。
(やばっ! こっち見た!)
が、時すでに遅し。
彼女は、
「アナタも
「えっ!? えっ!? あ、あ、あっ、あの……」
挙動不審なくらいに戸惑い、身を固くする愛那。それも当たり前か。
女性は、お構いなしに強烈なハグを
あの、素敵な笑顔で。
「お祝いシマショウ! 飲みマショウ! 今日はワタシのおごりデス!」
「ええええええええええええ……」
これはとんでもないことになってしまった。
「
「マンチェスター…… イギリス、ですよね?」
「
妙に日本
直後、その疑問は、乏しい海外知識によって、自己解決に至った。
(あ、そっか。イギリス人は“イギリス”なんて言わないもんね。“
そこまで考えて、愛那ははたと気づいた。
サリーが、わくわくとした顔でこちらを見つめ、なにかを待っていることに。
いけない。そういえば、まだ自己紹介をしていなかった。
愛那は慌てて、
「私は、立花愛那、です。アンナ・タチバナ」
「
(アナ、かぁ。ちょっといいかも…… えへへ)
現代的な当て字の、なんの意味もない我が名も、ネイティブの発音で呼ばれると、なかなか悪くない。
まるで、ファンタジーアニメ映画の主人公みたいではないか。
などと、くだらないことを考えているうちに、サリーからの声が飛んだ。
「アナ?」
しまった。また自分の世界に入りかけていた。
妄想や脳内ナレーション、自分との会話が
「あっ、すみません! サムナーさん!」
「
サリーが突如、細く形の良い人差し指をリズミカルに左右へ振りつつ、愛那の話をさえぎった。
そして、己の胸に手を当て、
「ワタシは“サリー”と呼んでクダサイ」
なんということだ。名前呼びでさえハードルが高いのに、呼び捨てときた。
だが、こうして仲良くしてくれる好人物が望んでいるのだ。
愛那はうつむき、彼女から目をそらして、必死の思いで発声を試みた。
「サ、ササッ、サリー……?」
「よくできマシタ」
悪戯っぽく笑うサリーが、愛那の肩をポンポンと叩く。
さらには、その手を愛那の肩に置いたまま、にこやかさが増した顔で、言った。
「アナは日本人なのに
「プレミア・リーグ……? す、すみません。よくわからないです……」
「
「い、いえ、Jリーグも別に……」
どうやら多少の誤解を生んでいるようである。
今日のこの日にFABを訪れたのはまったくの偶然だし、拍手して喜んでいたのは嬉しがるサリーに対してだ。別にサッカーファンな訳ではない。それどころか、スポーツそのものに興味がないのだ。
サリーは、大きくつぶらな目を、さらに丸くしている。
それでは、なぜ彼女は我が地元クラブの勝利を、あんなに喜んでいたのか?
「
この質問に、今度は愛那が目を丸くする番だった。
愛那の頭には、肩パットをつけた屈強な男がラグビーボールを手に走っている姿が、思い浮かんでいる。
「えっ? フットボール? サッカーじゃなくてですか?」
スポーツにもイギリス文化にも詳しくない愛那からすれば、当然の疑問と言っていい。
しかし、その言葉を聞いたサリーは、ジト目に口をとがらせた不満げな表情で、ずいっと愛那へ顔を近づけた。
「
「あ、そ、そうなんだ。フットボール、フットボールですね。あはは……」
“イギリスではサッカーのことをフットボールと呼ぶ”と心のメモ帳に書き込んだのち、愛那は失敗を取り返すように、自分が持っている唯一の会話のネタを振ってみた。
「さっきはすごく情熱的な応援でしたけど、サリーって本当にフットボールが大好きなんですね」
強烈な印象であったし、正直な感想でもあった。それがなければ、このイギリス人女性に興味を抱かなかっただろう。
そして、その言葉の効果は抜群だった。
サリーは、不満げな顔から一転、
「
メーターの針が振り切れる勢いで、テンションが急上昇した。
本当に表情豊かで、感情の大きな女性である。
ただし、若干引き気味な愛那に気づいたのか、そこからのサリーは、いくぶん落ち着いた調子で話を続けた。
「オホン。ワタシの国では、
なるほど、サリーが応援していたあのスカイブルーが、彼女の故郷マンチェスターのチームか、と愛那は心中で一人うなずく。
心中うなずくだけで、言葉は続かない。
そこで、会話は途切れる。
愛那は、がっくりと地べたに両手を突きたい気分に陥っていた。
(やっぱり、こうだよ…… 私が会話なんて、続くワケないじゃん……)
サリーは、へどもどしている愛那を不思議しそうに眺め、次に彼女のグラスに目を移した。
愛那いわく、ちびりちびり飲むはずのグィネスは、とっくに空になっていた。
緊張のあまり、がぶ飲みしてしまったか。
「
そう言い残し、軽やかな足取りでキャッシャーへ向かうサリー。
カウンターに寄りかかり、笑顔で店員とやり取りを始めた。
ブリティッシュパブでのレプリカユニフォームとジーンズという服装が、自然なものに見えてくる。
まるで、洋画か海外ドラマのワンシーンのようだ。
(はぁ、お酒を頼む姿も
話題、話題。なにか話題はないか。話題よ、出てこい。
愛那は脳みそをフル回転させる。
まるで前日入稿締め切り日の二週間前のごとく。
やがて、サリーが、ステンレス製のタンブラーを両手にひとつずつ持ち、戻って来た。
片方を愛那に差し出し、
「ハイ、ドウゾ。
「あ、いえ、ないです」
「
そう言われたものの、ビール党の愛那は、ジンを飲んだことがない。
名前だけは知っているが、どんな味なのだろうか。自分に飲めるのだろうか。
タンブラーの中には、炭酸を含んだ透明な酒、氷、それとカットされたライム。
おそるおそる口に運んでみる——
悪くない。軽い驚きだ。
(おー、なるほど。少し薬臭い? ような気もするけど、さわやかな味だわ。そんなにアルコールがキツイってこともなくて飲みやすいし)
すぐに、サリーのほうへと向き直る。
「あっ、お、おいしいです。私、結構好きかも」
けっしてお
それを聞いたサリーの大きな口は、三日月のような曲線を描き、そこから白い歯が見えた。
喜んでくれて嬉しい、とでも言うべき、こちらも心からの表情である。
他人の幸せで幸せになれる人間とは、こういう人なのかもしれない。愛那は、そう思えた。
そんなサリーに後押しされたか。
必死でひねり出した話題だが、なにげなくを装い、振ってみる。
「あ、あの、えっと、サリーのミドルネームはなんていうんですか? ほら、アメリカとかイギリスの人って、ミドルネームがあるでしょう?」
口に出してから痛烈に後悔するまで、二秒とかからなかった。
(我ながらしょうもなああああああああい!)
もはや自分の会話下手が、
見よ。その証拠に、尋ねられたサリーは、
「
と浮かない顔で、言葉を濁しているではないか。
「あ、ご、ごめんなさい。なんか、悪いこと聞いちゃましたかね……」
「イエイエ、悪くないデス」
サリーはそう言って、軽く手を振る。顔はわかりやすい苦笑いだ。
「ワタシの
「シナモン…… シナモンって、あのシナモン?」
紅茶に添えられたスティックや、自宅の戸棚に収められている小瓶を思い浮かべる愛那。
「ハイ、その
この恥ずかしがり方からして、外国にも“キラキラネーム”、“
とはいえ、自分が日本人であり、当人が外国人ということもあってか、愛那は「シナモン」にそれほどおかしさや不自然さを感じていない。
むしろ、チャーミングなサリーに、ぴったりの名前に思える。
「わ、私は好きですよ。シナモン。かわいいじゃないですか」
“かわいい”
今では、世界でも一部、通用するようになった日本語。
そんな形容詞で褒められたのだ。サリーは瞬時に上機嫌となっていた。
「
愛那の両手を握り締め、ブンブンと振る。
そうして、二人はペース良く杯を重ね、途切れがちに会話を重ね——
愛那が気づくと、サリーは人差し指を顎に当て、店内を見回していた。
試合の熱気はすでに冷めていたが、まだまだ勝利の余韻が残るファンたちの語り合う声、笑い声が、そこかしこから響いてくる。相変わらず、大勢の客で混みあってもいた。
次にサリーは、隣の愛那を見つめた。すかさず目をそらす愛那。
サリーからすれば、滅多に目を合わせてくれず、ぎこちない話し方で、時折なにか考え込んでいる、変わった日本人女性だ。
すると、サリーはなにを思ったか、前のめりになって、唐突にこんなことを言い出した。
「アナ。別のお店に、ワタシとアナで、飲みに行きマセンカ?」
「えっ!?」
「
イントネーションが「二次会」ではなく「二時回」なのだが、それは置いておいて、サリーの誘いに、愛那はどうしても腰が引けてしまう。
(ただでさえ他人としゃべるのが苦手なのに、話が全然合わないイギリス人とサシ飲みで二軒目とか、どんな苦行……)
うつむき、目をそらす愛那であったが、サリーは前のめりの姿勢を崩さない。
「ここから少し近く、ワタシのヒキツケの
「引きつけ……? あっ、引きつけじゃなくて、行きつけですよ。行きつけ」
「
「あははっ」
外国人にありがちな、天然めいた言い間違いに、思わず笑いが漏れてしまった。
サリーは得たりとばかりに、愛那の瞳を見つめ、
「スゴク良い店。アナにも知ってほしいデス。きっと気に入りマスヨ」
そう優しくささやき、ニッと笑う。
及び腰だった愛那は、結局、ニジカイへの参加を決めた。この輝く笑顔に負けてしまったのだ。
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