3 身近な敵性Ⅱ
何をどうやっても変えられないことを知っていて、もうどうしようもないことを理解していて、冷静に現実を理解できて、自分のために諦めと妥協と納得ができて、自分の利益を冷徹に計算できて、感情をコントロールできる。人が描く理想図にも似たそれができるとしたら、それって幸せだと思う?
思わないと共感できるなら、一度は馬鹿になる幸せを夢見たことがあるだろう。賢い人ほど不幸になると言われるのは、きっと悟りすぎる一生を背負わなければならないからだろう。
私は木に登っていた。自分の身長の四、五倍はあるかという高さの枝の上だ。その頃の私は木に登るのが好きだったから、いつも通りするすると木の最上部の枝まで登った。それが、保育園の先生にとって良くなかったんだのだろう。私を見上げてどうにか降りるよう説得していた。怒声ではなかった。落ちると危ないこと、先生が助けられないこと、落ちると先生は困ること、落ちて怪我をしたら痛い思いをすること。どうにか言葉を重ねて私を説得していたけれど、私がどうしても降りるのを渋っているとみると先生は少し譲歩した。先生の頭の高さの枝まで降りてくれないかということ。そこなら先生は何かあったら助けられるし、私も木を降りずにすむとのこと。私は先生の言う通り一番下の低い枝まで降りて座り、足をぶらぶらさせていることにした。つまらないなぁと思っていたことを覚えている。先生は保育園に戻るまで私のすぐそばにいた。
その時、私はマンションの駐車場の点検用はしごを伝って上に登っていた。二階建ての屋外駐車場の上で、心地よい風と金属の足場の感触を楽しみながら探検をしようとしていたところだった。
今思えば、子供時代の無鉄砲な探求心は貴重な体験をくれるのだと身に染みて理解できる。
気づけば大人達が下で騒いでいた。木に登ることと金属の駐車場に登ることのどちらが危ないだろう。幼い自身よりずっと高い場所に登ることは、落ちる危険性と隣り合わせだ。私が木や電柱に登ることを知っていたのか興味がないのかは定かではないが、駐車場はなぜか駄目だった。単純に駐車場の方が危なそうという感情で騒いでいただけで、実際の様子など見も考えもしないものだと悟っていた。足を滑らせるかもしれない。よそ見をするかもしれない。落ちるかもしれない。身動きが取れなくなるかもしれない。危険なものに触るかもしれない。でも、普段から別の場所に登っている時にもある可能性だと当てはめることも興味もない。
私は正直、木より駐車場の方が安全な登り場所だと思っていた。体重をかけたときの揺れが少なくて、金属と木のあまりの違いが不思議で仕方なかった記憶がある。色味や光の反射から、老朽化が見当たらず人の手が定期的に入っているらしいと窺える。一定の音量と間隔でなる足音は、一定の厚みと規格で作られた場所だと手と耳が伝える。言わずもがな木よりもずっと頑丈で、手すりに捕まって道なりに歩けば落ちそうなものではない。これが木なら音と振動としなりの大きさを進むごとに確かめなければ枝が折れかねない。
五感を使えば危ない場所を悟ることがおのずとできることが当たり前で、どの根拠も言葉にできただろう。しかし、子供の私に発言権はなく、大人に私ほどの機能はなく、大人は私に共感も尊重もできない。
私の冒険は始まる前に自分で終わらせてしまった。
どうしようもないことを理解してあきらめ、大人が重視する可能性に仕方なく納得して、自ら降りたのだ。
あのまま無視して心行くまま探検を続ければよかったと今でも思う。どうせしびれを切らした大人が登ってくることがわかりきっていたのだから。
小学生になってからはコミュニケーションの不成立と過敏症の痛み、他人を認識する能力の不足が大きな問題として表面化してきた。
保育園に通っていた頃はまだ自由行動が許されていた。毎日保育園に向かい、室内で遊ぶか、引率されて近くの公園で遊ぶか、決まった時間に昼食を兼ねたおやつを食べる。
その頃には、意志疎通のままならない世界で自分を納得させる生き方に慣れていた。話を聞いていなくとも、周囲の行動を真似して動けば大きな問題にならなかった。周りを認識できなくとも、五感の情報で他人を含む周囲の環境を常に把握して認識能力の低さを補えた。
当時の私に詳しいことは分からなかったが、「失認」という状態に近いと考えてみてほしい。「相貌失認」を例に出せば分かりやすいかもしれない。「相貌失認」とは、読んで字のごとく顔の判別が出来ない。顔は表情や人の判別に欠かせない重要な器官のかたまりだ。人の顔と名前が結びつかないからはじめて合う人か親しい人かがわからない。人混みの中から人を探すことも困難で、人とすれ違ってもそれが他人か知人かわからない。みんなの顔が真っ白な卵に見える状態で相手の表情を説明してみなさいと言われるようなものだ。
私は顔も判別できない失認に近い状態なのだと思います。もっと言うと、人の認識ができないというほうが正しいです。
目の前で相手が怒った表情でこぶしを振りかぶっているとします。この状態を見れば、今から自分がぶたれるのではないかと人は考えると思います。でも、私は人の顔を見て表情を知ることができません。こぶしを振り上げている状態がどういう状態かわかりません。もっと言うと、そもそも目の前に人がいることも気づけなかったりします。そんな状態でこぶしが振り下ろされる。そんな危険な状態での生活が、幼い私にとっての「攻撃」の正体でした。悪意による行動ではないので止めることは不可能に近かったのです。
幸いなことに、この件に限定してみれば私はそれほど辛い思いをすることも悩むこともありませんでした。失認として見れば相当重い部類になるでしょうが、私は五感情報でその大部分の問題を解決できました。
私は五感の過敏症を持っていましたが、同時に人より多くの五感情報を選別して認識できる能力と、常に五感情報を認識して周囲の環境と変化を把握できる能力を意識的に使えました。
どのような状態かわからないし共感も難しいと思いますが、例えるなら、木に触ったり乗ったときの反応で木がどんな状態か人より詳細にわかります。音だけでも枝にどれだけ負荷がかかり、あとどれだけ耐えられるのか。密度はどの程度か。他の木の音とどれくらい音の質が違うのか。中の質は一定か、他と比べて脆い箇所や頑丈な箇所か、空洞はあるか。思いつく限り文章にしてみましたが、これがどんな状態か何を感じるかを想像してもらうのは非常に難しいと思うし、共感も望めないだろう。このような情報の種類の判別を、五感全てで行えて、常に認識することができる。
このように世界を把握していると、把握できない情報が存在すること確認できる。音なら、環境音と生き物が発生させている音に分けられ、生き物の音なら自分にどれだけ近い場所で発生させているかで重要度を分け、自分の行動範囲にある音の移動から人の位置を常に把握する。目の前に人らしき音が移動したと分かることはつまり、人が目の前にいると認識できることと同じだ。そこから色や匂いや行動範囲や音のパターン、使う物や単語のパターンを覚えたら個人の区別もできるようになる。
相変わらず人混みから人を探すことはできないし、親しい人とすれ違っても気づけない、美醜の判別もできないし、相手の表情もわからない。でも、迂回路で時間と手間が必要でも個人の識別ができる手段があるなら大した問題にはならない。人混みを探し回るくらいなら目印がある待ち合わせを決めればいいし、人に気づけないなら声をかけてもらえばいい。美醜の話はわからないけれど、会話自体に相手が美醜かどうかなんて関係ない。表情で感情がわからなくても表情以外の情報から感情を推察すればいい。
問題は力業極まりない五感のフル活用をすることで過敏症の痛みを常態化させることになったことと、相手は私と違って直接見て表情を確認して人を認識すること。コミュニケーションの不成立から、私と人は違う方法で世界を見ていると伝えられないまま生活するはめになったことだ。
忘れそうになったけどもう一つ。ストレスコントロールに莫大な貢献を果たして、今なお頑強な理性の根幹にある私の愛すべき機能。感情のコントロール。私のコミュニケーション能力を根こそぎ奪って孤立を作ってくれた元凶。
こいつの本領を、本能の恩恵を受けられないという意味を舐めていたことだ。
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二十余年の追憶、又は幻想独白 夜泉 @kinakomochi0211tkr321
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