2 身近な敵性Ⅰ
突然、何の前触れもなく怒鳴られるという事態に遭遇したことがあるだろうか。
読者の皆さんも一度はあるんじゃないかな、と思う。いきなり近くで大きな音を出される感覚だ。しかも、なんか怒ってる。前後のつながりもなく、事前の判断材料もない。ほとんどの人は嫌がるのではないだろうか。
ここまでが私の想像。なんで「想像」かというと、私はこれが相当苦痛を感じる出来事であり、物理的な痛みを伴う『暴力』と呼べる出来事だったからだ。
私の記憶の中で、当時のことがいつでも鮮明に思い出せる期間というのは限られている。
保育園に通っていた一年ほど。小学生低学年の二、三年。小学四年生あたりからは記憶力の低下が始まっていたからだ。
幼い頃の自分にとって、自分以外という存在は極めて希薄な概念だった。背景と同義といってもいい。家族に対する愛着や執着といった幼児にありがちな性質も薄かったと思う。親には「人見知りしない子」と言われたこともある。
例えるなら、その辺に転がる石と家族を同じ目で見ていた。石を蹴っ飛ばして遊ぶこともある。そばにある石のことなんて目に入らず、意識にも上らず、近くで遊んでいたりする。石が突然飛んでくるなんて考えたこともない。だって石だもん。そこらへんに転がる石ってそんなものよね。それが『私以外』。そういう意味では、私は親に向けるありきたりな感情は知らない。知識の中では、「親は子供の世界の全て」だという。私にその感覚は理解できない。
では、私にとって親とはどんな存在だったか。
両親に対する最も古い認識は、無関心と攻撃性。言葉にするのなら、「身近な敵性」だ。
ここで冒頭に戻ろう。
幼い私は、自分の周囲の世界を無関心な背景として扱っていた。石が突然飛んでくるなんて発想がそもそもなかった。
そんな生き方の中、親の怒声はふわふわした私の横っ面をビンタする先制攻撃のようなものだった。石が突然飛んでくるわけがない。でも、実際に飛んできたものは石ではなく人なのだ。同列に扱った無関心のツケを支払うはめになったのは当然だと思う。
認識の外から飛んできた親の怒声は、幼い私にはだいぶ辛いものだった。その原因は過敏症と共感覚だ。私は五感全てにそれぞれ過敏症を持っているようで、聴覚に関しては大きな音で気分が悪くなったり頭痛をおこすことがあった。それに加え、私は大きな音であるほど叩かれるような痛みを体に感じていた。聴覚と触覚の共感覚で、音の大きさに応じて触れられるような感覚を持っていたのだと、あとでわかった。
それらがなくとも、私は親の怒声を直後でなければ認識できなかった。
何にせよ、起こってしまったあとでないと把握することができない。「怒声」という表現はしても、当時の私は怒りの認識すらできていなかった。叱責という概念すら持っていなかった。ただ痛みに伴って「攻撃」という概念を学んだだけで、それ以外の他人の齎す一切合切に関する知識を生まれ持っていなかった。
人は相手の怒りや叱責をどう認知しているのだろう。生まれる前から本能が知っているのだろうか?その瞬間に学び悟ることができる性質を持つのだろうか?それとも、認識すら起こさず機械的に適した行動を取っているのだろうか?
「攻撃」から逃げることも拒むことも幼い私には難しかった。嫌だと言って抵抗しても無駄だ。「攻撃」は避けられない。
この時点で私は「攻撃」は許容して「攻撃」の発生原因を探した。幼い私が頭をフル回転させて思考錯誤を重ねたのは、きっと、この時がはじめてだろう。考えて考えてやっと学んだのが、親の「怒り」と「叱責」という概念だった。
私が主に「敵性」を親に感じていたのは、この事も原因ではないかと考える。愛情や好意は無害だったから、今も知識としてしか理解できないのだろうと。酷いことを考えている自覚はあるが、私にとって愛情は無価値なのだろうと思う。
「攻撃」だと思っていたのは「叱責」だった。一つ学んだ幼い私だったが、現状は変わらなかった。どうやら私の振る舞いがよくなかったようだが、それを言葉で教えてもらえなかったからだ。
私は自我や自律思考の成立が早かった。小学校前の、四歳か五歳のことだった。言葉と言葉を交わす意志疎通を行うことをひたすら切望していた記憶がある。
だけど、私は子供だった。言葉の意志疎通はままならない立場だった。
子供の教育に携わる人たちならわかると思う。子供に発言権はないのだ。いや。もっというと、子供が自律思考し、発言を求められるほどの知性があると見なされないのだ。それはおおむね間違っていない。
だから親は問答無用で叱るし、子供は素直に従う。即効性のある結果に親は改善の疑問を持たない。教育者は「子供に言葉を重ねなさい」、「否定ではなく肯定と選択肢の提示をしてあげなさい」という。その多くは、子供の感情を宥めて納得を与える目的で行われているのだろう。
私は人間とは、大人も子供も方向性が異なるだけで何も考えないうことがままある生物だと思っている。子供が目の前のことしか見えていないということは納得できるし、目の前も見ずに全力疾走、なんて子もいた。
つまりどういうことかというと、私がいくら言葉を交わし感情を律して思考し返答できたとしても、言葉のコミュニケーションは成立不可能だったということだ。善意や努力も認められない。子供の駄々と話がしたいと泣くことに、どの程度の相違があると思われただろうか。私は対して差がないと判断されたのだと思う。
「叱責」の原因はわかった。
「叱責」の前に事態を認識することはできない。
「叱責」に関する意志疎通はできない。
次に私が取った行動は、どうにか「叱責」の元になる行動を起こさない振る舞いに努めるということだった。
「叱責」の原因になる行動は控える。親の行動原理を探る。「叱責」の判定基準を学ぶ。
「叱責」の原因になる行動を控え親の理想図として振る舞うことを心掛ける。可能か不可能かといわれれば可能だった。だけど、快か不快かといわれればひどく不快だった。私は他人の影響を受けた行動がとてもストレスに感じるようだった。せめて自分で納得できて、自分で決めた行動ならストレスはそこまでではないので、言いなりに近い状態が苦痛だったのだと思う。
そこで私が次にした次善策は、「叱責」されない振る舞いをすることが苦痛か否かで自身の意識を分けることだった。感情や認識、思考や意識など。ストレスを感じる自分と感じにくい自分を分けて役割分担を行う。この試みは「叱責」にうまく対処できるようになるだけではなく、ストレスや痛みを減らすことにも繋がった。
「叱責」に対処する私の半分は、その都度再分配が行われた。半分は一部に減っていき、「叱責」はどうしようもないこととして、対処の最適化だけが進んでいく。対処には、周囲の人間を対象にした人間の解析ももう含まれていたと思う。
人間ってなんだろう?そう思う私は、他人の見方が周囲と違っていたように思う。共通して人間の特性を持つ、個人の集団という見方だ。人というのは、自分に類似した集団がいて、自分が属する集団は自分の想定の延長線上を動くと考えているようだった。個人の集まりか、集団の中の個かという認識の相違が常にあるように思える。何か意見の衝突があると、常に自分はどう考えているかどう行動してもらうことを望むかが論点になることが多いようだ。自分と相手は違う立場なのだから、互いに引ける引けないの線引きを伝えあって妥協できる区分で結論をまとめるしかないのに、と私は思う。でもこれは、自分が他人にとってどうありたいという望みがないから出せる方法なのだろうと思う。バカと言われてカチンとなる人とどうでもいいと思う人の違いだ。私は無関心という意味では相手の認識が希薄だが、人は相手の人格を無視しがちという意味で相手の存在が希薄なんだと思う。感情はわかっても人格はわからない。そんな人は多い。
かくして私の人格は再分配の工程に慣れ、「私達」の全身と呼ぶべき存在ができた。人格分裂はストレスによる防衛反応として成立することが常だというが、私が「私達」になれたのは、防衛反応と平行して自身で人格の再編成に関われたからと、私達を一個人として扱ってきたからではないかと考える。
私はこの瞬間から、自身のほぼ完全な精神の掌握を果たしたのかもしれない。……うん、中二病的な表現だね。
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