君はいさ心も知らず

紫陽_凛

ひまわりの背

 老いた親の介護のために実家に帰ることを選択したのは他でもない、自分の在り方に疑問を持ったからだ。これまでキャリア育成だキャリアプランだ昇進だ管理職だと独りよがりなこんを詰めて、嫁と子供に逃げられてからずっと考えていた、何が間違っていたのか、どこから間違っていたのか。

 


 郷里にはサチという幼馴染がおり、上京するまでつるんでいた。奴は本当は幸雄ゆきおという名前なのだが、ユキオという響きも感じも、字面も好きではないらしく、変なあだ名を周りにねだった。オチョコ(一時期キャラ作りのためにおちょぼ口に傾倒していたから)、ぱっち〜(語尾を必ず揺らすようにきつく言いつけられた)、それから脱○丸(流石に俺が苦言を呈したらやめた)。どれもこれも奴が自分の首の周りに派手なエリザベスカラーでもつけるが如く、自分に足し合わせようとしたものだった。

 あんまりなので、俺がこう言ってやったのだ。

「サチ。サチでよかべ。そったそんな渾名つけるかより」

 その日から幸雄はサチになった。


 

 サチとは上京以来連絡が途切えていた。俺たちの少年時代に携帯電話はなかったし、という確信が俺の中にあった。サチは中学生の頃から父親の若い後妻とたいそう折り合いが悪く、自由になったら家を出ると、そればかり俺に語って聞かせた。

「あの女、俺のこと人間だと思ってねぇ」

 伸びすぎた前髪を掻き分けてサチが言った。

「空気だと思っていやがる」

「切らんのか、髪」

 俺はサチに尋ねた。サチは既に校則違反で何度も生徒指導室にしょっかれていたのだ。サチは薄汚れたシャツの襟をいじると、唾でも吐くように言い放った。

「あの女が放置してるんじゃ、しかたねべ」

「切ってやろうか」

「いい」

 即答だった。サチはめんどくさそうに長い黒髪を雑に結った。汗みずくの首筋。汗が焼けた素肌を光らせる。

「せいぜい罰を受ければいい」



 狭い田舎だ、網目より細かいコミュニティが形成されているここで、サチの名前を出せばなんらかの情報は引き出せるだろう。

 俺はサチの家まで行き、そこが既にアパートに変わっているのを確認してから、隣家の老婆にサチについて尋ねた。この女性はたいそうサチのことを可愛がっていたはずだった。

「ああ、あの子はね」

 しかし彼女の言葉は要領を得ない。

「ひまわり見に行くって行ったっきり」

「ひまわり?」

「そうよ、ひまわり。あっこあそこのひまわり畑、お兄さんも知ってらべ」

「そりゃあ、知ってますけんど」

「だからそこに行ったきりなの」

 わけがわからない。


 家の奥から娘さんがすっ飛んできて、何をしてるんだとばかり老女の肩を掴む。

「あの、隣に住んでた烏城うじょう幸雄のことなんですが」

「あの人は……」

 女性は目に奇妙な表情を浮かべた。既視感のある瞳だった。


 せいぜいばつをうければいい………


「ひまわり畑の向こうの岬で、飛びました」

 

 背を一筋、汗が流れ落ちた。

「と……飛んだって?」

「自殺か他殺かで、散々揉めましたけど」

「他殺の可能性があったんですか」

 置いてきぼりの事実を無視して、口だけがからからと回る。耳元が蝉の声でいっぱいになる。夏。

「一緒にいた、血の繋がってない妹さんが押したとか押さないとか……」

「妹」

「でもその時、妹さんが5歳だったから。19の男押して殺すなんて……って。そんなわけないって、自殺に落ち着きましたけど」


──せいぜい、ばつをうければいい……


 俺は隣の、アパートになってしまったサチの家を改めて見上げた。そして、家に一度帰る前に、あのひまわり畑へと顔を出すことにした。





 日本海は穏やかな青で、ひまわり畑は開き切った花をこちらに向けていた。花々の間にはいく筋かの獣道ができていて、俺は花を傷つけないように歩く。



「あれがマキ、あれがさおり、そんであれは貴一郎だ」

 サチは中学時代、そう言ってひまわりに一つ一つ名前をつけていた。熟れきってタネをこぼしているひまわりには、いけ好かない学年主任の名を。項垂れているのには頭の悪いクラスメイトの名を。そして新しい母親の名もそこに並んだ。

「全部同じに見えるけど」

「俺にとっちゃ全部同じだ、変わらねー」

 ひまわりの間を歩くサチは、汗で顔をキラキラさせて、長い黒髪を頬に貼り付けている。今日はヘアゴムを持ってないのか、暑そうだ。そう思った。

「俺はどれなん?」

「お前はここさいねえよ」

「いねえんかい」

「お前はお前だよ」

 揺れるひまわりたちの間で笑むサチは確かに幸せそうだった。




「……サチ」

 夕暮れの岬には、真っ白なワンピースの美しい女が一人、踵を返すところだった。彼女の足元には花束と、安い焼酎の瓶があった。

 艶やかな黒髪が海風に流される。その目元に、サチの名残を感じる。

──5歳の妹さんが、押したとか押さないとか……


「ここで自殺した人がいます。未遂の人も結構いるって」

 女が言った。目に少し険がある。

「ですから、そのおつもりなら私が行ってからにしてください」

 俺は首をゆるゆると横に振った。

「いえ。俺はこの岬に用があったんです。──親友がここで死んだと聞いて。二十年前に」

 女は静かに、けれどもふかぶかと項垂れた。萎れくたびれたひまわりのように。

「ご友人、ですか。の」

「ええ。……今更ですが、つい今日知ったもので」

 ひまわり畑が風になぐ。女はよろめき、その場にしゃがみ込んだ。

「あいつは意地が悪くって構われたがりなんです」

 女の目から、いよいよ涙が出てきた。

「あなたに構われたかったんだと思いますよ。本当ならに違いないんです、奴は……」

 いや、嘘だ。俺がいたらサチはきっと飛ばなかった。。彼女を目撃者という加害者に仕立てあげて。

「あいつのせいで、辛い思いをなさったでしょう」

「……」

 彼女はゴシゴシと顔を擦ると、俺のすぐ隣まできた。

「知ったような口を利かないで、おじさん。不愉快」


 彼女はひまわり畑の向こう側に姿を消してしまう。西陽は一面を血色に染め上げ、東をぴたりと向いて動かないひまわりどもの背骨が、赤黒く浮き上がっていた。


──あれはマキ。あれはさおり。あれは貴一郎……


 声変わりも済んでない、幼馴染の声が聞こえる気がする。


──これは先生。これは父さん。こっちがルミさん。そんでこの小さいのが妹な。

──お前?

──お前はここにはいないよ。お前はお前だよ。


 俺は岬に歩み寄って跪く。真新しい焼酎のパッケージを破り、勝手に口をつける。罰当たりと言われても構わない。

「サチ」

 残りは海へ放った。


 何が間違っていたのか。

 どこから間違っていたのか。

 あまたのひまわりに背を向けられながら、俺は一人沈んでいく夕日を見つめる。

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