発車ベル

香久山 ゆみ

発車ベル

 発車ベルが鳴り響く中、由香子はホームへの階段を駆け上がる。しかし、目の前で、無情にもドアは閉まり、電車は発車した。由香子を置いて。

「すみません。落としましたよ」

 ホームで息を切らす由香子に、うしろから声が掛けられた。振り返ると、由香子の前にスマートホンが差し出されている。

「ありがとうございます……あ、伸治くん」

 顔を上げた由香子の前に立っていたのは、昔の恋人。学生時代から、八年間付き合って、別れた。それからもう五年経つ。

「元気?」

「ああ。由香子は?」

 由香子、と呼ばれて、胸の奥が甘酸っぱく締め付けられる。

 方向が一緒なので、ホームに入ってきた電車にともに乗り込む。空いてる席に腰を下ろした由香子の前に、吊り革を掴んだ伸治が立つ。昔と同じ。

「仕事、どう?」

「私、課長になったのよ。伸治くんは?」

「あ、おれも。こないだやっと課長になった」

「ふーん。いいよね、男は。仕事できなくても昇進できるから」

 しまった。言ってすぐに、後悔した。日頃の不満がつい口に出た。伸治が相手で気が緩んだのかもしれない。表情を歪ませた由香子が見上げると、伸治は困ったように笑っている。

「ごめん。伸治くんは、変わんないね」

「そう?」

「うん」

 伸治はずっと優しかった。

「あ、おれ次で降りる」

「私も次で乗り換えだわ。伸治くんも外回り?」

「いや。今日は有休で、……産まれるんだ、子ども」

 二人を乗せた電車が静かにホームに入る。二人は並んで降りる。改札へ下りる階段のところまで、由香子は伸治を見送る。

「じゃあね」

「ああ」

 伸治は階段を下りていく。それを見送る由香子に、五年前の光景が甦る。

 五年前、終電ぎりぎりの時間。駅の改札口で、由香子と伸治は口論した。

「だって仕事なんだもん。しょうがないじゃん」

「おれはそんなことを言ってるんじゃないよ。無理してほしくないだけ。ふたりで頑張れば、それでいいだろ」

「どうしてわかってくんないの。もういいよ!」

 由香子はホームへ続く階段を駆け上がった。振り返ると、階段の下には悲しそうな顔をした伸治がじっと由香子を見つめている。由香子はそのまま入ってきた電車に飛び乗った。それだけ。それが由香子と伸治の終わりだった。

 由香子は仕事を選んだ。そんなに大きな会社ではない、人生を賭けるほどの仕事ではないかもしれない。けれど今、由香子は課長の席に着き、そして、三十四歳で仕事以外に何もない自分を少し持て余している。

 階段を下りていった伸治の背中が改札の向こうに消えようとする。

「ねえ、待って!」

 由香子は伸治を追いかけ、階段を駆け下りる。パンプスが音を立てる。伸治が驚いたように振り返る。ああ、五年前のあの時、こうしていれば良かったのだ。

 伸治に追いついた由香子はバッグから財布を取り出し、一万円札を抜く。

「ね、伸治くん。これでお花買って」

「え」

 伸治が眉根を寄せる。

「無粋で悪いけど、お祝い。出産を終えた奥さんに。伸治くんは女心がわかんないんだから、ちゃんと奥さんを大事にしなきゃだめよ」

 そう言って笑うと、伸治も頬を緩める。

「ありがとう」

「じゃあ、私急ぐから」

 由香子はまた階段を駆け上がり、ホームに入ってきた快速電車に飛び乗る。もう振り返らない。ベルが止み、由香子のうしろでドアが閉まる。

 発車!

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