真夏の願い
@sumisumi39831
最後の陽炎
入道雲が空高くにそびえたっていて。
蝉たちの大合唱が四方八方から聞こえてきて。
それでも時折吹く山間の風が涼しくって。
田舎の夏は、気温だけ見れば都会の夏と変わらない。でもずっと居心地がいい。
こんな場所で静かに暮らせてたらな、とつくづく思う。もう少し早くこの場所を知っていれば、自分の人生は変わってたのかな、なんて思う。いやきっと暑さにやられて頭がおかしくなっているだけに違いない。ああ、いざ覚悟を決めるとこうも心は穏やかなんだな。
目的の場所に向かう道中で腹ごしらえをするために、蕎麦屋に立ち入った。ここらはそばが有名らしい。
『さあ甲子園も終わりが近づいてまいりました。準決勝にはわが県の代表校、小諸学院が東東京の名門、帝都と激突します。小諸学院は選抜王者の横浜桐蔭を、帝都は北海共栄を下して勝ち上がってきました。』
ブラウン管テレビから聞こえるには夏の終わりが近づいている。そして日本のどこかではこんな炎天下で走り回って、声をからす高校生がいるらしい。
『さあ、帝都の注目エース橋本、初級、投げました。臼田、捉えた!』
カキーンと金属音が鳴り響く。
相手選手の鋭いゴロが自分の正面に転がってくる。小学生から野球を始めて、何度もさばいてきた。視界の端にはランナーがホームに走っている。しかし2アウト。頭で考えるよりも先にグローブがボールに向かっている。と同時に右手に持ち替え、ファーストの胸元にボールが飛んでいる。
「アウト」
審判の声が球場全体に響く。それとほどなくして歓声が響き渡る。砂埃が舞い上がって、その先では相手選手が悔しそうに天を仰ぐ。
「よくしのいでくれた。だが喜ぶのはこの回、点を取ってからだ。」
「はい!!!」
厳しい監督の発破でチームがもう一度沸き立つ。
「10回の裏、横浜桐蔭高校の攻撃は、3番ショート美濃部君。背番号6。」
ウグイス嬢のアナウンスと、ベンチやスタンドからの声援、そしてアフリカンシンフォニー。これらに送り出されてバッターボックスに向かう。
40度近いグラウンドで、ずっと太陽の下にいて、体は悲鳴をあげているのに、自分でも驚くほどに集中できていた。
相手投手が投げるまでは、すごく長く感じた。音も聞こえない。
ゆっくりと投手の足が上がって、鬼気迫る表情が垣間見える。そして体に隠れた右腕が現れて、しなった腕から放たれた白球はジャイロ回転。ちょうどベルトと同じ高さ。突っ込まないように左足に体重を残して、右足でタイミングを取って。ここぞというタイミングで一気に振り抜く。気持ちがいいほど高い金属音をバッターボックス付近に残した打球は。
『レフトスタンドに飛び込みました!甲子園のサイレンが鳴りやむ前の、初級先頭打者ホームランです!』
地元高校の活躍に店員も客もテレビ越しに歓声を送っている。ダイヤモンドを一周して少し落ち着いたころに、店員を呼ぶ。
「あの、すみません。ざるそばを1つ。」
「あいよ、あれ?どこかで見たことがある。もしかして野球とかやってらっしゃった?」
「いや、もうやってないです。」
「そう…」
『帝都高校を三者凡退で絞め、ベンチに戻ってきます。一回の裏が終わって、1対0。小諸学院が先制に成功しています。』
初回の攻防が終わったところでざるそばが到着する。サービスなのか写真には載ってなかった、天丼までついてきている。夏バテ気味の体でもそばはすっと受け付けた。コンビニで食べる安いそばしか食ってきてなかったからか、本来のそばのかおりはここまでなのかと感心した。つゆがここまで汗で失ってきた塩分補給になって非常においしく感じた。
かなり量の多かったそばを平らげ席を離れる。そしてお代を払おうとカウンターに向かう。
「980円です。」
「はい。ちょうどです。ごちそうさまでした。おいしかったです。」
「あの、横浜桐蔭惜しかったですね。あの時も。」
店を出ようと扉を引く手が一瞬、止まる。しかし、吐き捨てるように。
「もういいんです。昔のことなんで。」
怒声に似た強い言葉が店内にこだまする。クーラーで冷やされた部屋がさらに冷気を帯びていくように感じ、はっとして、恥ずかしくなって飛び出す。
アスファルトは陽に焼かれ、陽炎が伸びている。
空は憎らしいくらいに晴れていて、うだるような暑さで満ちている。
それでも、今日と決めたのだ。真夏の風に背中を押されるように、市街を抜けていった。
真夏の願い @sumisumi39831
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