第3話

 俺はピアノの音に惹かれるようにその廃校舎の中に入って行った――いや、俺の身体は無意識のうちに動いていた。薄気味悪い校舎に対して意もせず、開けられている玄関から中に入った。なぜその曲を知っているんだ。それはあのコンクールの時、俺が――。

 かび臭く冷え切った校舎内を1つの足音だけが響く。俺は軋む階段を駆け上がり、音が聞こえる教室を目指した。誰なんだ、弾いているのは。その演奏は美しかった。きっと音楽室だろう。演奏が一番大きく聞こえる階まであがる。

 階段をあがると『3-4』と書いてある木札が目に飛び込んできた。右側に教室が3つ、左側に4つ。その階は教室8つ。右側奥の角にはまだ廊下が続いていた。音もその方向から聞こえてくる。

 俺はその角まで小走りした。ただし、足音を殺して。角を曲がるとそこには音楽室があった。扉越しに音楽室を覗くとそこには少女がいた。セミロングの美しい黒髪が演奏する体に合わせてなびく。彼女はピアノを演奏していた。滑らかに動くその指先に俺は見とれていた。俺はその場でしゃがみ込むと教室の外でこっそり演奏を聴いた。

 その少女は簡単な練習曲のほかにかつて俺がコンクールの予選会で弾いていた曲を演奏していた。その演奏はなぜか心地よかった。演奏中の呼吸の仕方、間の取り方が俺と似ているからだろうか。とても聴きやすかった。演奏に感動するも、同時に嫌な記憶も思い出した。

 その曲を毎日演奏していたあの日々。学校が終わってどんなに疲れていても練習はしなければならなかった。友達に遊びに誘われてもピアノの練習があるからと断っていたあの日々。どれもが嫌な思い出としてよみがえってきた。

 だけど――。彼女の演奏は楽しそうだった。演奏している姿を見なくても、聴いていれば分かる。楽しんで弾いている。

 ピアノを始めてどのくらいだろうか。少しぎこちなさはあるものの、生き生きしていた。

 俺は彼女の演奏に合わせて無意識に手を動かしていた。長い時間弾いていなかったので指の動きがおぼつかないが、それでも体は忘れていなかった。

 俺は本当はピアノを弾きたかったのではないか? コンクールのためとかではなく、もっと楽しく、誰かに幸せに感じてもらえるように弾きたかったのではないか? 彼女の演奏に俺自身が感化されているように。

 俺は彼女が弾き終わる最後まで聴き続けた。彼女がピアノを片付けている間に校舎から出て行ったので顔を合わせることはなかったが。


 その日から演奏する少女のことが気になり、廃校舎へと向かうようになった。この前と同じ時間帯に廃校舎に入っていく少女を見つけ、演奏が始まると俺も教室へ向かった。そしていつもの場所で彼女の演奏を聴く。いつのまにか毎週のように廃校舎に通い、少女の演奏を聴くことが日課になっていた。少年は過去を振り返りながら演奏を聴いていた。

 俺は1ヶ月ほど毎週同じ時間に音楽室に向かって少女の演奏をいつも同じ場所で聴いていた。楽しそうに弾く少女をみて、辛かった練習も本当は辛くなかったのでは無いかと思うようになった。彼女の演奏する曲は、変わらない。

 最初に練習曲からはじまり、練習曲を何曲か弾き指を鳴らし終えると、その次に俺が予選会で弾いた課題曲と自由曲を弾く。練習曲は毎回変わるが、予選会で弾いた曲は必ず弾いていた。

 だがその曲――自由曲は予選会の出演者の中で唯一俺だけが弾いた曲。ポピュラーな曲ではあるが、その曲の構成に違和感を覚えていた。なぜその曲を弾くのだろうか。

 よし、次こそは話しかけてみよう。意を決してそう思った矢先――だが、その日を境に突然その少女は来なくなった。いつもと同じ時間に俺は校舎裏で待ち、彼女の演奏が始まるのを待っていたが、彼女は一向に来ることはなかった。

 何週間も通ったが、ぱったりと来なくなった。俺の姿を見せることは彼女に驚かせてしまうかもしれないがもっと早くに声をかけるべきだった。もう少女の演奏を聴けないと思うと寂しく感じた。

 彼女が来なくなってから俺はひとりで校舎内に入った。何度も通って新鮮味がなくなったその校舎は俺の足音だけを響かせた。迷うことなく音楽室の前まで来ると、扉を開ける。

 今まで少女が使っていたグランドピアノの前に立つと、鍵盤蓋を開け、俺は何年ぶりかに鍵盤に触れた。

 椅子に座り、一音鳴らす。

 彼女が弾いていた練習曲の中には俺もかつて練習用に弾いていた曲も混ざっていたので、記憶の中から引っ張り出しながら指を動かした。うろ覚えでたまに間違えることもあるが、弾いて見ると不思議と体が覚えていた。あの毎日やっていた練習は俺の体の中にしっかりと刻み込まれていた。

 勘を取り戻すと、気づいたら夢中になって弾いていた。

 俺は棄権して弾くことがなかった曲も弾いた。辛かった記憶が楽しさに塗り替えられる。母親の厳しさを今やっと理解する。辛かった練習が嘘のように楽しかった。本当はこうして楽しみながら弾きたかったのだった。

 少年は弾き続けた。のびのびと弾いている今の時間を楽しんでいた。ピアノが嫌だったのではなかった。本当はこうして楽しみながら弾きたかったのだった。

 今まで弾いてきた曲を一通り弾き、指も温まったところ、今日限りのあの日できなかった1人だけの演奏会を行った。


 7.

 校舎を見上げている少女がいた。

 この演奏――。どこかで聴いたことがあるような。どこで聴いたんだっけ。でも懐かしい――この弾き方。あの日からずっと……。

 もう一度聴きたかった演奏だった。少女はこの演奏に惹かれてついここまで来てしまった。

 彼女は、あの日とあるコンクールに両親に連れられて行った。

 それは予選会であり、そのジュニアコンクールは一般への開放も行われていた。

 何で私も? と、その時はそう思っていた。だが、ある出演者の演奏を聴いたとき彼女の中で何かが変わったのだ。少女は言葉では言い表せないほどの感動を覚えたのだった。

 

 ――私も同じように弾きたい。


 少女はその少年の演奏に感化されてピアノを始めたのだった。彼女は家に帰るとすぐに両親にピアノを習いたいと伝えた。ずっと興奮が収まらなかった。

 後ほど予選会の結果を知った。彼はその予選会を上位で通過、もちろん次の本選会にも出るだろうと思われていた。次の本選会は3か月後。少女にとってその期間はずっと待ち遠しかった。

 その間、欠かさずピアノを練習していた。すぐに上手くなる段階ではないが、常に彼の弾き方をイメージして練習していた。

 ただ、少女は彼にもう一度会いたかった。会って『応援しています、私もピアノ始めました!』、それだけを伝えたかった。

 だが、彼は来ることはなかった。本選会の最終決定のプログラムに彼の名前は無かったのだ。あとから聞いたが諸事情によりコンクールを棄権したそうだ。その日から少年の名前を目にすることはなかった。

 でも少女はピアノを弾き続けた。いつか自分も同じようにコンクールに出て、いつかどこかにいる彼に届きますように――と。

 あれから何年か経った今も、彼に会うことはなかったが、その音は少女の鼓膜をゆらした。聴いてすぐに分かった。彼の音楽だと。

 だから少女はこの音を頼りにこの森の奥へと来た。それはこの校舎から――彼女が今まで使っていた音楽室から聴こえてきたのだった。

 少女は急いで階段を駆け上がり、その音楽室に向かった。そこには彼がいた 。後ろ姿しか見えなかったが、彼から発せられるその雰囲気は紛れもなくあの日の彼と重なった。彼の演奏は長く弾いていなかったのか、ブランクを感じたが、その演奏は彼自身のものだった。

 

 ――私はこの演奏をもう一度聴きたかったんだ……。

 

 目には自然と涙が流れていた。彼は演奏を終えると私に気づいたのか振り返った。驚いた表情をしていた。


 ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 

 少年は涙を流して自分の演奏を聴いていた少女に気づく。彼は分かった。少女が泣いている理由を。悲しくて泣いているじゃない。何かに心を動かされた時の涙だった。少女の泣き顔が誰かに似ていたのだ。

 そうか、少年は思い出した。この表情はあの日、俺が始めてピアノで一曲弾き終えたときに、感動して泣いてくれた母親の顔に似ていたのだ。

 少年はピアノ椅子から立ち上がると、少女の前まで近づく。そして目線を合わせて問う。

 

 ――俺の名前は春樹。君、名前は?


 ――私の名前は……楓。ねぇ、春樹。いつか一緒に弾きたいな。

 

 ――じゃあ、今から弾こう。曲はあれでいいかな?


 いつかまたあなたが舞台で弾いているところも見たいな――。

 ――俺もう一度、ピアノ始めて見るよ。今すごく楽しいんだ。

 

 少年は少女の思いを聞き、約束した。そして少女と少年は二人で演奏をしたのだった。

 

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【カクヨム短編賞応募中】追憶の旋律〜彼らは再会する〜 心桜 鶉 @shiou0uzura

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