あなたを見るということ
和琴 競
あなたを見るということ
ヒトはなぜ絵を描くのか? そんなのわたしにはわからない。
けれど、わたしはなぜ絵を描くのか、なら答えられる。
名前も知らないおねえさんに一目惚れしちゃったからだ。
あれは忘れもしない、高校にはじめて通学した日。
駅員がいるかどうかもわからない小さな駅から、毎日何万人も降りる駅まで来た、その後のことだった。
サラリーマンたちに押し出されるように降車したあと、わたしはちょうどいい出口がわからなくて、ホームの隅まで追いやられた。
降車客は階段へ消えて、乗車客は電車で去って。あたり一面ヒトだらけだったのが、つかのま広くなったとき。
わたしは、恋に落ちた。
そのヒトはホームのど真ん中を、跳ねるように歩いていた。
まっさらなレーススカートに、ぴかぴかのタッセルローファー。肩にかけたターコイズ色のカーディガンと、えんじ色の手提げかばんが、見栄えのいいアクセントになっている。すこし伸ばした髪が数束、風で浮かぶ。行く手には、まだ新しい点字ブロックが伸びている。
楽しそうな女子大生。
その鮮やかな歩き姿に、わたしは目を奪われてしまった。
こっそり動画でも撮るという邪念すら、湧かなかった。
それくらい美しい光景だった。大人びた顔立ちとか、ピンと伸びた背筋だけじゃない。視界にめいっぱいの鮮やかさが、そこにあった。
すっかり我を忘れて、彼女が階段に足をかけるまで、ただずっと眺めつづけて。
それからはっとして、もうさきほどの光景がこの世に存在しないと気づいてから。
絵に描いて再現するしかないと悟るまで、ほとんど時間はかからなかった。
入学式に出るのをやめた。
一番大きい改札口を出て、目に入った百均で自由帳と色鉛筆セットを購入。それからドトールに突っこんでいって、小さいアイスコーヒーを注文。
以後四時間おねえさんを描き続けた。
さいわい、わたしは映像記憶が得意だった。目で見たものを、そのまま脳内で再生することができた。
ただし頭は悪いから、数時間したら忘れちゃう。
だから早く描き残さないといけない。
一方で、絵の勉強なんてしたことがなかった。
中学校の美術の成績は良かったけれど、それだけ。コンクールに送られるほどじゃなかったし、誰かに絵を褒められた記憶もない。
結果的にドトールでの初描画は、まるで上手くいかなかった。
愚かなわたしの脳は四時間でおねえさんの姿を消去してしまい、再現は断念せざるを得なかった。後に残ったのは数枚の失敗作と、おねえさんへの強烈な恋心だけ。
わたしは息を吐いて、テーブルの上を片づけた。口をつけないまま氷の融けきったアイスコーヒーを一気飲みして、それからようやく学校に向かった。
そのあとのことは覚えてない。たぶん先生に怒られて、教科書類を受け取って、すぐに帰ったんだろうと思う。
それから今日までの約一年、わたしはこんな毎日を過ごしている。
平日は毎朝同じ時間に登校して、駅でおねえさんの姿を探す。
見かけた日は、ずっと目で追う。声をかけるなんて恥ずかしくてできない。好きなヒトを盗撮するような悪逆なんて、もっとできない。
だからひたすら目に焼きつける。
それからドトールに直行して、持参しているスケッチブックと色鉛筆で、ひたすら記憶を再現する。はじめ四時間しか保てなかった記憶は、最近は五時間超続くようになっている。それが途切れるまで、とにかく描く。途切れたら学校に行く。
重役出勤でも先生たちはあまり怒らない。入学式さえサボる生徒ということで、更生は早々に諦めたみたいだった。今では、不登校になるより遅刻のほうがマシというスタンスらしい。ただ一度、定期テストの日に堂々遅刻したときだけは、さすがに怒鳴られた。
見かけなかった日は、普通に登校。手が空いたときにはとにかくスケッチをして、絵の基礎力を上げる。放課後はもちろん、授業中も。
聞いた話によると、大学生は各々好きなように時間割を組むらしい。どうやらわたしとおねえさんがエンカウントするのは、おねえさんが一限を取っている曜日だけのようだった。
やろうと思えば、朝におねえさんと会えなかった日はひたすら駅に居続けて、おねえさんの各曜日の登校時間を割り出すこともできた。でもしなかった。ストーカーっぽくなるし、目立ちたくもないから。平日昼にひとりで駅にたたずむ女子高生なんて、怪しいに決まってる。
大人に不審がられるのはいい。おねえさんにわたしの存在を認知されるのが嫌だ。
わたしは推しの視界を汚すことなんてしたくないタイプだ。もしおねえさんにわたしの存在がバレてもいいと思えるなら、とっくに話しかけている。
一年生の七月までは、週四回おねえさんを見かけた。いつもきれいで、毎回惚れ直した。
九月から十二月のあいだは、週二回。一限の数を減らしちゃったのは残念だったけど、秋服も眼福だった。
年明けから三月は曜日がバラバラで、平均週一回というところ。よくわからないけれど、授業じゃなくてサークルかなにかのために登校しているのかもしれなかった。
わたしの画力は、十月ごろにはそれなりの水準まで向上していた。自分の絵でうっとりすることができるくらい。
せっかくだからとツイッターのアカウントを作って、この絵を公開し続けている。アナログの絵をコンビニのプリンターでスキャンして、データにしたやつ。
毎回知らないヒトに褒めてもらえるし、フォロワーは最近千人を超えた。ネット上の流行りとか二次創作を一切無視してる割には、まあまあ多いほうだと思う。
そんなこんなで、今日の話。
二年生に進級した四月中旬。
今期のおねえさんはどういう時間割をしてるだろう、一限ゼロだったらどうしよう、とそわそわしながら登校する火曜日。降りそうで降らない曇りの日。
駅に降りたあと、わたしは一目惚れした日と同じように、ホームの隅でおねえさんの姿を探す。
いた。
今日のおねえさんはオーバーオールだ。白と黄色のボーダー柄タンクトップ、ハイテクスニーカー。カバンは編み籠みたい。なんだかやんちゃな組み合わせ。
「……あれ?」
ふと、違和感をおぼえる。
おねえさんがいつもより浮かない顔をしている気がする。
それに足取りが速い。前はヒトがほとんどいなくなってからゆっくり歩いていたのに、今日はぼちぼち残っているうちから動きだしている。
このあと、嫌な用事でもあるのかな。
なんであれ、わたしにできるのは、こうして見守ることだけだ。
影のある表情や重い足取りも、ミステリアスで味があるなあと思う。
ふと、あの日新品だった点字ブロックが、今は欠けているのに気づく。それがやたらと目についた。
それからまた、ドトールで五時間。
いつもよりちょっとダークな雰囲気の絵が完成した。いままでで一番硬い表情にして、右目に影をかけた。天気のせいもあって光量も控えめ。周りにいたヒトたちを描きたくはないから、おねえさんを中央にどんと据えた構図。
我ながら上出来だ。ちょっとムラムラするくらい尊い。……記憶力が悪いと、こういうときちょっとオトクだ。さっきまで自分の頭の中にあったものを、新鮮な気持ちで鑑賞できる。
満足したところで、店内を見る。
こっちを見ているヒトは、誰もいない。
おねえさんを描くときに今でもこの店を使っているのは、ここならは誰もわたしを気にしないからだった。学校やマクドナルドだったら、視線が気になって集中できないと思う。スタバは高いしオシャレすぎる。
コーヒーを一気飲み。このあとはコンビニでこの絵をスキャンして、それから登校、あと投稿だ。わたしはちょっと上機嫌で、ドトールを出た。
……登校直後にテンションがダダ下がりした。
コピー機に絵を忘れてきてしまった。
しかも、気づいたタイミングが最悪だった。五時間目が始まった直後! わたしには、授業を途中で抜け出すほどの勇気はない。回収しに行けないことに、五十分間気を揉みっぱなしだった。
五時間目が終わってすぐ、わたしはカバンを持って教室を出た。
仲良い寄りの知り合いに、「えっもう帰んの!?」と驚かれたが、意思は変わらない。
画像データは吸い出してあるとはいえ、絵も大事だ。好きなヒトの姿が映った一品なんだから。
わたしは学校を飛び出して、一目散にコンビニへ走る。カバンが揺れて邪魔だ。それでも急いだ。
店に着いたときには息が切れていた。気が急いていて、自動ドアが開く速度さえ、じれったく思う。
一歩踏みこんですぐ、コピー機のある右手を見る。
おねえさんと、目が合った。
「は……、え?」
ただ、固まる。
コピー機の前に、わたしの絵を持ったおねえさんが、いる。
事態を飲みこむのに何秒もかかった。きっとおねえさんは、なにかの用事で偶然、あのコピー機を使おうとしていたんだ。わたしの絵以外にも、書類をいくつか持っているから。
でも結果的に、わたしの絵を……見た?
見られた!?
「ねえ、これ――」
「あ、あああ!」
わたしは本能のまま、コンビニを出て走った。
小雨が降りだしていた。頭の中はぐちゃぐちゃだった。
カバンが揺れまくって、身体に何度もぶつかってくる。鬱陶しい!
いや、違う! 鬱陶しいのはわたしだ!
逃げなきゃダメだ。とにかく、何かから、すぐに!
「ちょっと、きみ!」
後ろから、女のヒトの声がした。
おねえさんが追いかけてきた!?
一歩、二歩逃げる。
けど嬉しさが勝って、三歩目は踏み出さなかった。
びくびくしながら振り返る。
――おねえさんがいた、わけではなかった。
女のおまわりさんだった……。
自転車でパトロール中の婦警さん。すこし後ろからこっちを見ている。
「必死そうだけど、大丈夫? どうかした?」
心配そうに訊いてくれる。無理はない。きっとわたしは、殺人鬼から逃げるのと同じような形相で走っていたから。
でも今は、余計なお世話だ。
「恋をしています」
そう返すと、婦警さんは数瞬目を丸くしてから、にっこり笑った。
「素敵ね。がんばって」
それだけ言うと、ペダルを漕いでわたしを追い抜いていく。
わたしはしばらく、その場で上がった息を調えた。
「頑張らなきゃ、なんだ」
無意識のうちに、そんな言葉が口をついていた。
そうか。恋をしているなら、頑張らなきゃいけないんだ。
だったらわたしは、今からあのコンビニに戻るべきじゃないか。きっとおねえさんはまだいて、わたしの絵を持て余しているはずだ。さっさと会いに行って、連絡先を渡すくらいはしてみるべきじゃないか。
「……よし」
わたしは気合を入れて、来た道を戻るべくきびすを返す。
そして、……そして。
振り向く途中で、近くに停めてある車の窓が目に入った。
正確には、窓に映った自分。
うっ、と声が出た。
激安化粧品しか使っていないうえ、汗と雨にまみれたので、顔面が大崩壊している。ツラの液状化現象って感じ。
早い話が、すっぴんよりブサイクになっていた。
絶対に、絶対に絶対に、本命に見せてはいけない顔だ。
「…………今度がんばろ」
もう一度きびすを返して、コンビニに背を向ける。
これは逃走ではない。推しの視界汚すまじという、わたしの生き様の問題だ。
今日は寝るまで化粧の勉強をすることに決めた。
で、一晩明けて水曜日。
わたしは早起きして、いまの自分にできる最高の状態まで顔を整えて、いつもの電車に乗った。
学校に着いたら、化粧が濃すぎるから落とせと言われそうだ。同級生のためにお洒落をするつもりもないから、会えなかったら完全に無駄骨になる。
でも、いい。あのヒトのためなら、これくらい苦じゃない。
降車駅が近づくほど、鼓動が高鳴っていく。
会えたらどうしよう。会えなかったらどうしよう。
昨日決めたはずの覚悟が、ここに来て揺らいでくる。
それでも電車は、短くて長い運転をついに止めて、駅に到着した。
早々と降車する。ホームの隅へ行く。
あのヒトの姿を探す。
サラリーマンの群れの中。その後ろ。その外れ。
発車していく電車の中。向かいのホーム。乗り遅れたヒトたち。
知らないヒトたちがいなくなって、つかのま駅が広くなった。
――あのヒトは、どこにもいなかった。
きっと水曜の一限を選ばなかっただけだ。自分にそう言い聞かせる。
今日がダメでも、明日がある。明後日もある。最悪、来週の火曜日にはきっと会えるはずだ。
だから、しょうがない。
気持ちを切り替えて、学校に向かうことにする。階段を昇って改札まで歩く。スイカを使って、きっぷ売り場まで来る。
そのときケータイが震えた。
柱のほうに寄って通知を見る。ツイッターのリプライだった。
知らないアカウントから、「いま改札を出ましたか?」と来ている。
「……?」
なにこれ。スパム? 無視しよ。
と、顔を上げた瞬間、うしろから手首を掴まれた。
身体が勝手に固まる。
距離感の近い友人なんてわたしにはいない。怖い。
けれど、相手を見てみなければ始まらない。
わたしはゆっくりと、振り向いた。
「つかまえた」
あのヒトが、いつもよりずっと子どもっぽい笑顔をして、すぐ後ろにいた。
「えっ、あ……ひえぇ!?」
自分で自分に驚くくらい、情けない声が出た!
いや、待って。これは大目に見てほしい。わたしは、ホームにいるときまでは、このヒトに話しかける覚悟をしていた。本当だ。臆病者なりに、なけなしの勇気を振り絞っていた。
だからこそ、話しかけられる想定なんかしてなかった。
そのう、すでに勇気を使い果たして抜け殻になってもいた。
とにかく油断しきっていた。
完全にパニックになったわたしに、おねえさんが言う。
「あの絵描いたの、あなたなんだね?」
頭の中にいろんな言葉が浮かびすぎて、かえってわたしは何も答えられない。
それでもたぶん、頷けたと思う。
「うれしいよ」
「……!」
たった一言。
それだけで、思考大渋滞だったわたしの脳内は、逆に真っ白になった。
「っと、ごめんごめん」
おねえさんが手首を離す。
「これから高校? だよね。また後で話そうよ。ラインくれるかな」
わたしは言われるがままにケータイをいじる。
おねえさんの名前と連絡先が、ついに手に入ってしまった。
嬉しい。……はずだ。
名前も連絡先もどっちも、一年間ずっと欲しかったんだから。
跳びあがるくらい喜んでもいい。
なのに、どういうわけか、違和感がある。
愚かな脳が、今一時だけはと回転する。
いつも楽しそうなおねえさん。
ただ、昨日は悲しそうだった。
そして今は、おねえさんからわたしを見つけて、捕まえてきた。
それになにより、恋してるくせに、まだ頑張ってない、わたし。
――おねえさんの言ってることは、本当にベストか?
「また連絡するから、放課後空けといてね」
おねえさんはそう言って、先に駅を出ようとする。
わたしは迷いに迷って、ついに、おねえさんの手首をつかんだ。
「わたしは、いま、話したいです。……おねえさんは、どうですか」
こうまで覚悟して噛むなんて絶対嫌だったから、あえてゆっくりと言った。言ってやった。
そして、おねえさんは。
いままで見たことがないほど顔を明るくして、笑ってくれた。
「うん。一緒にサボっちゃおうぜ」
駅を飛び出した。快晴だった。
どこかへ行くことにした。
レンタカーは高かった。でも自転車が安かった。
二台借りて、南へ漕いだ。
ラッシュを過ぎた広い国道で、わたしたちはふたり並んだ。
「日曜日に、彼氏をフったの!」
車の音に負けないように、おねえさんが大声を出す。
「勉強はできたけど、私のことは見てくれなかった! 前髪切っても、リップ替えても、一度も気づいてなかった! きっと私のこと、童貞捨てる道具としか見てなかったんだ!」
突飛なワードに、一瞬どきりとする。
でもなんだか、おねえさんらしくもあった。
「私は男のステータスを上げるアイテムじゃねえ!」
「つらかったですか!」
「わかんない! 情は湧いた! 抱かせなかったし!」
行く手の信号が赤に変わった。
わたしたちはブレーキをかけた。
「フった二日後に、あの絵を見た。一目で私だってわかった。この絵を描いたヒトには、私は悲しんでるように見えたんだなってことも、わかった。……そしたら、作者さんが出てきて、すぐ逃げてっちゃうんだもん」
コピー機での件だ。わたしは曖昧な返事しかできなかった。
「どうしようかなって思ったら、絵にIDが書いてあるのに気づいて」
ネットにアップロードする絵には、盗用対策を兼ねて、サイン代わりにツイッターのIDを付記することがある。簡単に加工されるから盗用対策としては気休めでしかないけど、一応わたしは毎回付記していて……っていうか、それはつまり。
「アカウント、見たんですか」
「見た。私一色だった」
「……すみません」
「嬉しかったって」
おねえさんは、ちょっと恥ずかしそうだった。
「彼氏は……ううん、家族や友達でさえ気づいてくれないような私が、たくさんいたから。ああ、このヒトは世界の誰よりも、私のこと見てくれてるんだなって、わかったから」
「!」
わたしは、なにか返事をしようとした。けど言葉が浮かばない。
「会いたくなっちゃったから、今朝は駅で待ち伏せちゃっ……た!」
おねえさんがペダルを漕ぎだす。一瞬遅れて信号が青になる。
出遅れたわたしは、おねえさんを追う。
「ねえ!」
数メートル先で、おねえさんが叫んだ。
「私のこと、好き!?」
わたしはサドルから尻を浮かせた。
全力で立ち漕ぎする。
そうして追いついたときには、もう恥ずかしさなんて吹き飛んでいた。
「好きです! 一目見たときから、大好きです!」
「じゃあさ!」
おねえさんはさらにスピードを上げて、前に出た。
いつのまにか、その先には海が広がっていた。おねえさんばかり見ていて気づかなかった。
「もっと私のこと、見てほしい! あなたに!」
波の照り返す無数の光が、おねえさんを輝かせている。
広い海原は、ちょっと空いたくらいの駅よりずっと、このヒトに似合っている。
レール沿いの世界なんて、このヒトにはきっと狭すぎたんだ。
もしかしたらこのヒトにもっと相応しい世界が、どこかにあるかもしれない。
だったらわたしは、その光景を見逃さない。
絶対に目を離さないと、固く誓った。
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