Transcend<超越>

 ――理屈の上に成り立つ感情は純粋ではない。

 ルクスはそう常々考えている。


 ルクスは姉であるエクスの性的な好意が倫理上許されないものであるとは知っていても、受け入れるかどうかは別にしてそれ自体は好ましく思っていた。


 レースで勝つのが好きだった。

 本能、と言われればそうかもしれないが、自分の優秀さを証明するのは快感だったし、先頭でゴール板を切ったときの爽快感は何物にも代え難い。

 そこに理屈なんてものはなかった。


 だから、グレイとステラの間に既に深い絆が結ばれていたとしても。

 好きだと思ったモノを、欲しいと思ったモノを欲しがるのは正しいことで、純粋なのだと。


 そう信じているからこそ、最終的にルクスは自分の欲望に忠実になるのだ。







「先日はどうも」


 なんでもない風を装って、ステラからルクスに声をかけた。


「ええ。おはようございます」


 そのレースの日は雨が降っていた。

 風こそないものの、しっかりと地盤にまで浸透した水分はレースに確実に影響を与えるだろう。

 こうした環境では概ねスピードよりもパワーが重要視され、走り方もストライドの大きい走法よりもピッチの細かい走法である方が好走するとされている。

 理由は脚にかかる負担の違いである。

 地盤の水分量が多いということはクッション率が低くなるということでもあり、平時であればしっかりと踏み込みを受け止めてくれる地面も、降雨時にはように――脚が取られるようになる。

 例えば、滑るような床を大股で歩いていくよりは小股でちょこちょこ進んだ方が歩きやすいと説明されればイメージがしやすい。


 脚質にもよるが、馬、竜も共に全力のスプリントが維持できるのがおよそ400メートルである。

 また、殆どのコースにおいて、最終コーナーを曲がってからゴール板までの距離が400メートル前後になっている。つまり、最後の直線までにどれだけ余力を残せるか――を考えたとき、その時々の路面に適した走法が消耗の面からどれだけ有利であるか理解できるだろう。


 その点でいうと、ステラの走り方は今のコンディションに適している方ではなかった。

 トビが大きく、その割に回転が速い脚は、きちんと余力を残して、かつ不利なくスパートに入れれば飛び抜けた加速力と最大速度を遺憾無く発揮できる。が、クッション値が低い今の地盤ではレース中のポジションを取るにも消耗が予想されるし、勝負所で隊列から抜け出す為の加速力を得られにくい。


 なので、ロスのないレースをしづらい状況であることを考慮すると、取り得る作戦というのは他の竜に揉まれることを避けて、最初からポジション取りを放棄して後方待機に徹するか、或いは逆に逃げるかのどちらかになる。

 こうしたコンディションの日には往々にして極端な位置取りの方がいい結果に繋がることも多い。


 枠とゲートの出方次第だな、とグレイとステラの両名は事前に打ち合わせ済みだった。

 不安要素といえば、今回初めて友人――今となってはそう言っていいのか定かではないが、知っている竜と同じレースに出走することだ。


 そう。

 このレースでは、ルクスと競い合うことになる。


 グレイに関して言えば、正直なところルクスに思うところはなかった。

 元々割り切りがいいというか、切り捨てる形でマインドセットを行うタイプであったので、今の時点では既にレースのことしか頭にない。後のことは後で考える――そんな風にして集中している。


 問題はステラの方だった。

 個人の能力としてそもそもの集中力に欠けている、という話ではない。

 先だってルクスがグレイに迫ったこと――も気にかかっていないわけではないが、それはそれとしてレースに集中する為に割り切れるだけの理性はあった。


 だとするならば、何が原因で心を乱されているのか。


 それはステラのに起因する。

 これこそがステラがグレイと交わした約束事であり、幼い頃のトラウマでもあり、レースに集中できていない原因であった。


「……今日は、あんまり集中できていないみたいですね。私のせいだったりします?」


「あんたが原因ではあるのは違いないけど、あんたのせいではないわよ。別にね」


 気にしないでいい、と告げるステラを潔いとでも思ったのか、


「そうですか。で、あるならば私は気兼ねなくレースに専念することにします。……できるなら、ステラさんもそのように」


 これ以上はステラの負荷になるばかりだと言わんばかりに、言葉を切って立ち去っていくルクスだった。


「――ステラ。無理しなくてもいいんだぞ」


「無理なんてしたことないし、しないわよ。今までも、これからもね」


 尚も言い募ろうとするグレイを封殺するように、ステラは竜の姿になった。

 そうしてしまえば表情を窺い知ることができないグレイは、何も言わずに鞍を装着し始める。

 あとはもう、やるべきことをやるだけだった。




 今日の開催コースは2400メートルで、500メートル超の長い直線が特徴のコースだった。

 コーナーは大回りで、内や前にいる馬が絶対に有利、というほどではない。それよりは長い直線でどれだけいい脚が使えるか、誤魔化しが効かない地力が問われるコースである。

 枠についてもそこまで有利不利があるわけではない。出足が速い竜ならば内枠が欲しいところだろうが、先手に拘らないならむしろ動きづらい極端な内枠よりも中や外の枠の方がいいかもしれない。

 それでも距離損の一番大きい大外はあまり歓迎されるわけでもないのだが、今日のステラはそこに収まるように指示された。


「それにしたって、枠番は誰が決めてるんだろうな。どこかの誰かが独断で、ってわけでもなさそうだが」


「不正行為はないわよ。――まあ、誰が、っていうのなら心当たりがなくもないけど」


 グレイがステラのメンタルケアを考えてだろうか、珍しくゲートに入る最中でも会話をする二人だった。

 さすがに身体がゲート内に入り切ると、いいスタートを切るために集中し始める。


 だが、この時点でグレイは直感的に悟っていた。

 ――恐らくスムーズにゲートを出ることはないだろう。


 前世のジョッキー時代でも稀に感じたことがあった。経験則からなのか、馬から伝わる機微からか、それとも言語化すらできない感覚なのかはわからなかったが、ゲートに収まったときに既に上手くスタートが切れるのかそうでないのか、ゲートが開く前からわかるときがある。


 竜は馬とは違って言葉が通じるし、レースにも当然ながら前向きなのでそもそも出遅れること自体があまりないが、それでもグレイは今回はだと判断してレースプランを固め始めた。




 ――ゲートが開く。

 ステラは後肢をいつものように使って飛び出そうとするが、湿った地面に脚を取られて少し態勢を崩した。


 問題なく持ち直しはしたが、やや出遅れた感は否めない。

 グレイは急かすことなく、大外枠から内に向かって寄せていくように手綱を操った。


 ポジションは中段後方。

 前がスローペースで残すようなレース運びをするなら、差し足が届くかどうかは厳しいと言わざるを得ない位置ではあった。


 行かなくていいのか、と力が入るステラを押さえるように手綱を引く。

 結果的にどうなるかはなんとも言えないが、しかし無理をして前に出るにはステラの道悪に対する適性を思うとまだ脚を使うべきではない、との判断だった。


 2コーナーを抜け、向正面に隊列が差し掛かった。

 前走から距離延長してきたステラにとっては遅いペースではあるが、だからと言ってペースを上げてしまえば伸びた距離には対応できない。

 グレイは600メートル通過時点でのタイムをざっくりと体感時計に則って概算する。道悪であること、竜が馬よりもパワーのある生き物であることを考慮に入れてもややスローなレースの入りだと言えた。


 隊列そのままで直線に入ると前が残ってしまうペースだ。

 誰か動かないか、と視界の端で後ろを確認すると外から進出してくる竜がいた。


 その竜についていくか、それともこのまま動かずにいるか、グレイは数瞬だけ迷う。

 ついていくならば他の竜に妨害されることなくある程度の前目にまでポジションを上げれるだろう。


 だが、恐らくこの動きによって先行勢のペースが上がる可能性が高い。そうした展開になった場合はこのまま動かずに脚を溜めているのが正解だ。


 勿論ペースが上がらないのならこのままの位置取りでは厳しい展開になる。

 結局のところ、他の竜次第になる――展開待ちがそもそも苦手なグレイではあったし歯痒い気持ちが湧き起こってきたが、それでも今日この時はそれを選択した。


 腹を括っての後方待機。

 ステラの能力を信用しているといえばそうだが、もし動いていった場合、上がったペースに対応できるかと言われると無理だと踏んだからだった。

 レースゲームではないので、固まった隊列の中で急にマイペースに走れるわけでもないのだ。


 難しいレースになった、とグレイは思う。

 できることならペースが上がって前が崩れてくれ――そう祈りながら、自らの体内時計でラップタイムを測り続ける。


 ――ミスはしない。仕掛けどころを見極める為にも、動かずともレースに集中し続けるジョッキーの姿がそこにはあった。


 3コーナーに入った時点で、グレイは自分の祈りが通じなかったことを悟る。

 進出していった竜が、先団に取り付いた時点ですっと内に入って息を入れ始めたのだ。

 捲り切って先頭に立つには早い段階であったので、別段責められる謂れはなかったが、自分から勝ち切る為の立ち回りではなかった。

 クレバーといえばクレバーではある。

 勝ち抜いてきたことでクラスが上がって、それぞれの竜による立ち回りの妙味が生まれ始めていることをグレイは肌で感じていた。


 今から動いていって捲っていこうにも、この直線の長いコースで、この悪路ではいくら能力に秀でたステラと言えども脚が最後まで残らないだろう。十中八九、200メートル付近の坂で垂れることになる。


 この時点でグレイは、本来ならあまり取りたくはなかった進路を選ぶことに決めた。


 4コーナーに入って徐々に全体のペースが加速していく。

 それについていかないように手綱を引いて、遠心力に引っ張られて外に振られないよう、内ラチぴったりにコーナーを回ってくる。


 直線が長く、広いコースでもあるのでコーナーの勢いそのままに、それぞれの竜がスパートする為の進路を求めて外に広がっていく。ましてや降雨もあり、キックバックによって集中力が削がれるのを避けたいこともあって、コースの7分目ほどまで横一列に隊列が広がった。


 


 狙うのは最内だった。

 ポジション取りを諦めた代わりに、ひたすらに経済コースを通って十分に脚を溜めた。

 進路が開かない可能性だってある。しかし、悠長に外を回して後ろから届く展開ではない。


 どんな状況でも、勝つ為にやるべきことをやる。それがグレイがジョッキーとして生きていた頃に心に決めていたことだった。


 コーナーでの遠心力がなくなってから右ムチを入れて、内を狙うようにステラに意図を伝えながら追い出しを始める。


 鎧を踏んで身体を動かすのではなく、膝を支点に重心を動かすヨーロピアンスタイル。

 完歩の大きいステラにはあっている追い方で、リズムが合い始めてからは唸るように差し足を伸ばしてきた。


 まだ先頭までは遠い。遠いが、道中が脚を溜められるスローペースだったとしても、このコンディションでは物理的に届かないほどの上がりを使われるということはない。

 だとすれば、諦める必要はなかった。


 飛ぶように景色が流れていく。視界の端にラチが映る。

 奇しくも、前世で死んだときに見ていた景色に似ていた。


 恐怖はあった。

 防衛本能が身体を竦ませようとする。


 ――怯えは要らない。ミスなく、やるべきことをやれ。


 感情を置き去りにして、あたかもステラの付属物であるように努めて精一杯に追う。

 そこにはステラの信頼があったから――ではない。


 決めていたからだ。そうすべきだと思ったことは、正解だと思ったことは、例え死んでしまったとしてもやり遂げるべきだと。

 誰も知る由はないし、誰にも伝わることはなかったけれど、それは確かにその決意の証明だった。


 キックバックによる芝と土を全身に受けながら、それでも、と脚を緩めることはない。

 内側からじわじわと順位を上げていく。


 進路が塞がったとしても最低限の切り返しで、掠めるように傍を抜けていった。

 先団を捉えた、と思う頃には坂に差し掛かり、残りが200メートルほどであることに気付く。

 叩きつけるような登坂。スローペース故に全体的に仕掛けが早まっていたのか、速度の落ちてきた竜をそこでも抜いていく。


 坂を登り切り、ようやく先頭に並んだ。


 ――先頭はルクスだった。


 ルクスが隠し切れない驚愕を見せる。だが、すぐに切り替えて抜かせまいと力を振り絞ってゴール板を目指す。


 残り20メートル。

 そこでグレイは完歩の調整に入る。感覚的に重心を調整し、首の上げ下げがゴール板を通過したときに一番伸びているように試みる。


 ルクスはそれを脚色が悪くなったと判断したのか、少しだけ力を抜いた。


 


 決してルクスを責められるものではない。全力の、身体がバラバラになるような強度の高いスプリントだったのだ。意識しないでも足取りはヨレるし、まともな思考が保てるはずもなかった。


 しかし、事実は事実としてそこにある。ミスをした者と、そうでない者との差が。

 ルクスがそれを知ったのは、ゴール板をステラと並んで駆け抜けた後だった。


 勝利した後に聞こえる、誰とも知れない声が脳裏に届かないことに気付いたルクスは、ああそうか、と思う。

 それは嘆きではなかった。怒りでもなかった。


 ただただ、次は絶対に負けない、といった純粋な決意だった。




 ――誰かが、その決意を祝福するように微笑んだ気がした。







「負けました。ええ、負けましたとも。まあでも、謝らないですけどね。暫くは預けておきますよ。私の勝利も、ステラさんのパートナーもね」


 レースが終わって、どこか吹っ切れたようにステラに捲し立ててくるルクスがいた。

 ステラは一瞬だけなんだこいつ、みたいな顔をして、すぐに切り替えて口を開いた。


「ええと……バーカ! 私とグレイの勝ち!」


「たぶん今は喋らない方がいいぞ」


 呆れてグレイは止めに入った。限界に近いロングスパートによりステラの頭は全くと言っていいほど回っていない。

 割とイメージとは違って普段人を悪く言うことがないステラなので、こうした場合のボキャブラリーが致命的に不足している。殆ど子供の口論というか、そんな返し方だった。

 

「私って欲しいものを諦めたことがないんですよ。妹だからって甘やかされたせいですかね?」


「世の妹のイメージが限りなく悪くなるな、その発言は」


 人のモノを盗ってはいけません、と画一的な一言で宥めるには、その瞳を彩る情熱はあまりにも高い熱量を持っていた。

 雨すら蒸発しそうな気迫にグレイは思わずたじろぐ。

 それを庇うようにステラが間に入った。


「アンタにもライダーはいるじゃないの。それで我慢しなさいよ」


「いえ、自分で言うのもなんですが、情が深いタイプなのでレースとプライベートを分けるようにしてるんです。現に私のライダーは年上のおじ様ですしね」


 情が深いタイプ、の台詞と共にグレイに流し目を送るルクス。それに対してカットインを試みるステラ。


 おじ様でもいいじゃないの、嫌です、と舌戦を繰り広げ始めた二人から離れたところで、件のライダーが居心地悪そうにしていた。

 その様子を見るに見かねてグレイが声をかける。


「すいません。人の気も知らないであいつらは……」


 そんなグレイに対して人の良さそうな笑みを浮かべて、


「いいんだよ。若い女の子は姦しいくらいじゃないとね」


 それより、とルクスのライダーは話題を切り替えた。


「よく差し切れたね。結果的にはそれしかない、と言える選択だったけど、よく動かずに我慢したと思うよ。信頼関係の為せる技かな?」


「そんな大層なもんじゃないですけどね」


 言って、グレイは僅かに苦い顔をした。

 スマートな勝ち方ではなかった。進路が完全に塞がっていたらどうしようもなかったし、天候が今のように悪くなければ他の竜の脚色が悪くなることもなかっただろう。


 何より、信頼関係の賜物――とは、口が裂けても言えない。

 ステラの能力には一定の信頼をおいてはいるが、それとは別にしてハンデを抱えながらレースに臨んでいるのだ。


 それは正々堂々を旨とし、自らを高め合うことを至上の目的とした<ロンド・ドレイク>においては最も嫌悪される類の秘密。


「ありがとうございました。どちらが勝ってもおかしくない、いいレースでしたね」


 その言葉自体は嘘ではなかった。

 レースの内容は言葉通りいい勝負だったと、誰が見ても思うことだろう。




 ――グレイとステラの二人が、結果に関係なく、そう思っていなかっただけで。


 グレイはいつしかその前提が崩れることを、そうした機会が訪れることを、ステラの秘密を共有したとき以来心から望んでいるのだ。

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秒速16.6mの龍娘<ドラグーン> 松浦詩亜 @mol537

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