最終話 堕ちる

 年度末にこの支所で行われる会議は、社長や部長を含める重役に一年の進捗報告を行ため、非常に重要である。

「はひぃ~。終わった終わったぁ~」


 天野さんはため息を吐きながら機材を片付ける。部長の講評が少し長引いたため、時間は十分ほど押している。この後は駅前で居酒屋を予約しており、部長たちを送り届けなければならない。


「今日は朝早くからお疲れ様だったね」

「本当に、もう~。眠いし、早く帰りたいですよぉ~……」


 ふわぁと、天野さんは大きな欠伸を浮かべた。昨日の約束通り、天野さんは朝早くからやって来た。なんやかんやで寝坊して、私が資料を作ることになるんだろうなと予想していたので、少し驚いた。まあ結局、資料は私が昨年に作ったものを改変しただけとなったけど……。


「それにしても、びっくりしちゃいましたぁ。資料のイラスト、あれってフリー素材じゃなくて、先輩が描いたんですよね。絵、上手いんですね~」

「ありがとう。……昔はね、漫画家目指してたこともあったの」

「へ~、私も目指してましたよ。小学生くらいの頃まで。サインも考えたりして~」


 私の場合は就職直前まで、なんなら就職してからも少しだけ考えていた――とまではさすがに言えなかった。あまりにも夢見がち、子供じみている。


 その時、入り口からグループ長が顔を出した。彼は手招きをする。

「天野さん、早く来なさい。時間だから。後片付けは蜜浦さんに任せて」

「あ、はぁ~い」

 グループ長が引っ込むと、天野さんはわざとらしいため息を吐いた。

「この後、私も飲み会参加するんですぅ~。お酌しろって~」

「そうなの? 予定にはなかったでしょ」

「本社総務の人、来られなくなったじゃないですかぁ。急に代わりしろって……。断りたいなぁ~。彼氏できれば言い訳できるのにぃ~……」


 彼女は肩を落としてため息を吐く。いつもにこにこ、へらへらとした彼女がこんな気落ちした表情を見せるだなんて珍しい。どこか親近感が湧いてしまう。


「……天野さんも苦労してるね」

「してますよ、それは~。してない人なんて、いないんじゃないですか? あ、先輩。というわけで、後片付けよろしくですぅ~!」

 そう言うと、天野さんはとてとて歩き、大会議室を出ていった。一人残された私は大会議室の機材を片付ける。時刻は十八時を回っている。

 今月の残業代は、もう出ない。




 一人残った総務でお茶を飲んでいると、ポケットのスマホが震えた。白瀬さんから着信だ。昨日はまだロサンゼルスへ行く気もあり、連絡先を交換しておいたのだ。普段ならば業務中の私的な電話など無視するとこだが、どうせ他に人もいないし残業代も出ないのだ。出てやる。


「……はい、ええ。はい。分かりました。ありがとうございます」


 電話を切った後で、思わず天井を見上げてしまう。

 なんてことのない電話だった。

 白瀬さんは、あの後ロサンゼルスにいる知人講師へ連絡を取ってくれたらしい。舟鴨という生徒は今どうしているか、その回答はすぐに返ってきた。

 彼は、三か月前に既に自主退学している、とのことだ。その後の足取りは分からない。つまり、ロサンゼルスへ行っても会うことはできない。退学の正確な理由までは分からないが、前向きな理由ではないだろう。白瀬さんの言う通り、舟鴨は多くの講師から実力不足を指摘されていたらしい。


「……」


 そう言えば、田橋くんが言っていた。年末、舟鴨から夜遅くに電話がかかってきた、と。ロサンゼルスの時間ならば朝だろうか。退学した時期とも一致している。なんのために舟鴨はあの電話をかけた? 昔の友人に助けを求めた――そう考えるのは邪推が過ぎるだろうか。


 舟鴨は今どこで何をしているのだろう。学校を辞めて、別のところで学び直しているのか。自らの夢に向かって、異国で、必死に、頑張っているのか。それならばいい。喜ばしいことだ。

 ――でも、そうでないのなら。どれだけ頑張っても結果が出なくて、自ら追いかけた夢に全然届かなくて、打ちのめされて、どうすればいいか分からなくなっているのなら。私は一言、あなたに言ってやりたい。


「別に、さぁ」


 いいじゃないか、そんな夢なんて諦めちまえば。


 高望みすることなんてない。自分の翼がまがい物であることを自覚しろよ。誰もが空高く飛べるわけではないんだから。

 自分が描いていた理想よりずっと低い生活でもいいじゃないか。馬鹿みたいに忙しくても、たまには早引きして旧友に会える。使えないと思っていた後輩だって、可愛く見えてくる。住めば都というだろう。妥協した、理想の低い世界でも、私たちは自分の居場所を作り、きっとそれなりには楽しくやってける。そういう能力が備わっている。ましてやあんたほどのスペックなら、医者になって、お父さんの跡を継いで、良い家を建てて、幸せな家庭を築けた。それでは駄目だったのか? 


 駄目だったんだろう。いい歳した年齢になってから、魅入られてしまったのだろう。あの空に眩く輝く太陽というやつに。


 あなたならきっと何にでもなれる。そんなこと、当時よりも少しだけ世間擦れした私にはとても言えない。何も考えずに発した「大丈夫」だなんて安い言葉で、あなたの人生を気軽に保証できない。そんな夢を見られるような年齢でもないのだ。

 それでも――。


 スマホが震える。また、白瀬さんかと思い画面を見る。表示された名を見て、心臓が逸る。一呼吸をつく。何気ない風を装って、私は電話に出る。

「はい、蜜浦です。……うん、久しぶり」


 ――それでも、だ。

 あなたともう一度連絡が取れて、ここ数年何があったかを聞いて、それに対して頑張ったねと告げて、どこか食事くらい行けるような――それくらいささやかな夢ならば、私にもまだ見させてくれたっていいだろう。

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