第5話 戻る
白い街灯が照らす夜道を、どこか夢でも見ているような気分で、私は歩いていた。改札を通り、ホームに立つ。
元々は頼りない情報を基に、それこそ藁をも掴むような思いで大学まで行った。舟鴨が演劇などするはずがない。だが、ただの当て推量にしか過ぎなかったそれは現実となり、彼はもはや地球の裏側にいることを知る。
――役者を目指したのは、元恋人と見に来た演劇がきっかけだったとね。
先ほどの白瀬さんの言葉がフラッシュバックする。
確かに、私は彼と一度舞台を見に行ったことがある。大学一年の夏、母が友人と行く予定だったがスケジュールが合わないと、二人分のチケットをくれた。2.5次元はよく行くものの、それ以外の舞台はさっぱりだ。気も進まなかったのだが、母が熱烈に押してきた。海外のミステリーを舞台化したもので、主演はテレビをあまり見ない私ですら知っている俳優だ。
ストーリーは難しそうで、楽しめるか若干不安だったが、案外面白かった。二転三転してストーリーが読めず、何より主優の演技も上手い。公演終了後、周りの女性客は興奮冷めやらぬと言った様子で、主演俳優の良さを熱く語っていた。しかし舟鴨は、公演終了後もぼーっとしていて、椅子から立ち上がらない。
「舟鴨?」
呼びかけると、彼はようやく気付いたといった風にこちらを向いた。
「なに……もしかして寝てた? 合わなかったかな?」
「……い、いや」
私の言葉に、彼は首を横に振る。だが、どうにも心ここにあらずといった様子だ。出口へと向かう途中、舟鴨はふいに「すごかったな」と呟いた。
「うん、あの主演の人かなり演技できるんだね。なんか意外」
「いや」私が言うと、彼は首を横に振る。「違う、女優の方な」
「え、そっち?」
酒に飲まれ、荒れている主人公を陰ながら支える妻。メインの人物御比べて出番はかなり少なく、正直あまり印象に残っていない。
「……なんか」舟鴨が言う。「舞台上に見えた気がしたよ。あのキャラのこれまで背負った人生が。すごいな、役者って。舞台の上で、あんな自分じゃない人間を表現しきってよ。いや、マジですげーよ」
「そんなに気に入ったの?」
「ああ。もっと、演劇を観たいな」
「良かった。またチケット貰えたら誘うよ」
「……俺さ」
横を歩いていた舟鴨が、急に歩みを止めた。
「うん? どうしたの?」
「昔から、なりたいものがなくてさ」
「え? でも、医者に……」
「……別に、なりたいわけじゃなかった。俺の親さ、ずっと昔から、言ってたんだよな。お前は将来この家を継ぐんだって。多分だけど、それだけが、俺にとって幸せな道だって考えてるんだと思う。俺も他になりたいもんなんてなかったからさ。結局、言われるままに医者を目指したんだ。だからそのために、必死で勉強頑張ったよ」
意外な告白だった。舟鴨はいつも必死で勉強を頑張っていたし、医者になりたいがためにやっているものかと思っていた。
「俺には眩しかったんだよな。夢を持ってるお前らが。だから、応援したくなっちまったんだよ。でもさ、ようやく、自分の夢を見つけたかもしんない」
「自分の夢?」
「まだ、秘密な。叶ってから言うわ」
「ちょっと、何それ。教えてよ」
「いや、秘密だって」
「なんなの。……まあでも、舟鴨だったらなんにでもなれるか。じゃあ、叶ったら絶対私に教えてね」
私がそう言うと、彼は白い歯を見せてにかっと笑った。
「おう、待ってろよ!」
結局、その年の冬に私たちは別れることになる。
彼と私で演劇を見に行くことは二度となかった。
どん、と肩に衝撃を受ける。顔を上げれば、停車した電車からたくさんの人が歩き、邪魔そうに私を避けている。ホームの往来で、私は立ちつくしていた。
「なんで……」
どうして今まで忘れていたのだろう。たった今思い出した記憶――それは私にとってなんの変哲もない出来事の一つだった。むしろ、彼があまり喜んでいなかったことが印象に残っている、苦い思い出。
あのとき、舟鴨は初めて役者になる夢を抱いたんじゃないか。私には響かなかったが、何かをあの舞台から、女優から感じ取った。それは彼の人生を決定的に変え得る大剣だった。演劇の経験などこれまで皆無だったのだ。志すことを内心不安に思っていたはずだ。それを肯定したのは――。
「……私?」
なれるんじゃない――と応援の言葉を投げかけた。無責任な言葉を投げかけた。だって私は知らなかったのだ。まだ、社会人にもなっていない私は、舟鴨の奴なら何にでもなれると信じていた。
「……私のせいなの?」
私の言葉が、彼の行動を後押しした。無謀な夢に立ち向かわせた。立ち向かわせてしまった。医者という、約束されていたレールを彼から奪い去った。
「舟鴨……」
ラインに既読は付いていない。電話をかけても出ない。舟鴨と話がしたかった。少しでも。一刻も早く。伝えたい。彼に伝えたいことがある。
「ロサンゼルス……」
海外なんて韓国とシンガポールくらいしか行ったことがない。大学を卒業する際にパスポートを五年で更新したから、まだ期限はぎりぎり切れていないはず。
航空券の比較サイトでロサンゼルスまで調べてみた。トランジットのLCCを使っても、往復の航空券だけで1ヶ月分の手取りが軽く吹っ飛んでいた。ここにホテル代が加われば一体いくら使うことになるのか。
(それでも……五日、いや、四日あれば……探せる)
頭の中で予定を組み立てる。明日も続けて連休にすれば、月曜日も有休にして計四日。片道で一日使うとしても、計二日ある。場所は分かっているのだ。恐らく向こうの学校に日本人は少ない。彼は目立っている筈だ。英会話に若干の不安はあるけれど、リーディングならば問題ないし、大丈夫、見切り発車でもやっていけるはずだ。
――舟鴨に会いたい。会って伝えたいことがある。
早速、私は航空券を予約しようとした。
そこで、画面が震える。電話がかかってきていた。舟鴨――そう思ったのはただの空目。画面に表示されているのは、会社の、総務の電話番号。
耳に当てると、
『せんぱあぁ~~~~~い!』
危機馴染みのある大声が電話口から響いた。
「え、え、え? 天野……さん?」
泣きじゃくったその声は会社の後輩である天野さんだった。
『せんぱぁい、せんぱぁい、うう、どうしよう私。うう~……』
「お、落ち着いて。なに、一体どうしたの?」
『あ、明日のぉ、会議の説明資料、全部消えちゃったんですぅ~~~!』
「……は、え? 本当に?」
『保存してたはずなのにぃ、急にパソコンが落ちてぇ、ど、そうしましょう~……』
「保存してなかったの? バックアップとか……」
『ゆ……お、お昼から作り始めて、本当に一度保存しとこうと思ったとこでぇ……』
夕方って言いかけた? 明日朝一から使う資料を?
「あのね、去年の資料がボックスに入ってる。テンプレートはできてるから……」
『場所が分かりません~~~……』
「共有のボックスに入ってる。グループ長に聞けば……」
『もう帰っちゃいましたぁ~~~~! 私、もう最後でず~~~~! どうしましょう、どうしましょう……』
思わず溜め息が出た。
「……分かった。明日の会議九時からでしょ? 今日はさすがに無理だけど、そうね、朝七時前出社。強制じゃないけど、できる?」
『ど、努力、します~……』
「大会議室と応接室の準備は済んでるの?」
『そっちもまだ~……。グループ長に教えてもらおうと思ってたんですけどぉ……』
「分かった。じゃあそれも明日やろう。最終退出は? セコムセットできる?」
『ぞ、ぞれくらい、できまずぅ~。先輩に教えてもらったからぁ……』
「分かった。じゃあ気を付けて帰って。また明日ね。うん」
電話を切り終わった瞬間、ふくらはぎが妙にだるくなって、私はホームの壁際に座り込む。身体をとてつもない疲労が襲っていた。
家に帰りたい。ソファに寝転がりたい。お腹が減った。ご飯も食べなければ。塩分もカロリーも気にせず格別に味の濃いものを食べたい気分だ。明日アメリカに行く――さっきまでどんな気持ちでそんなことを言っていたのか、今ではもう思い出せない。数分前の気持ちは雲散霧消していた。
アメリカ? 行けるわけがない。いくら金がかかると思ってる。自分の安月給で考えてみろ。それに、そんなに時間が取れるわけがない。舟鴨の動向はもう分かった。彼が何を目指していたのかも。それで十分だろう。
下手糞な探偵ごっこはもう終わり。
舞台から降りる時間だ。
さあ日常に戻ろう。
あの退屈で平凡で愛おしい日常へ。
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