第4話 飛ぶ

 棟の外、建物の外は既に陽が落ち、街灯の光が大学構内を無機質に照らしていた。風が強く吹いており、暦の上では春とは言えまだ夜は寒い。出口へ向かって歩く最中、ふと見覚えのある景色が広がっていることに気付く。キャリアセンター入り口、その前に立つ看板。高三の冬、私は舟鴨と一緒にここへ来たことがあった。


 吐いた息が真っ白に煙る、冷えた三月の朝だった。大学入試合格発表の当日、私たちは、舟鴨の合否結果を確認しに来ていた。発表はネットでも行うし、わざわざ大学まで来る必要はないが、特別なイベント感があった。

 舟鴨の受験番号は当然のようにあり、私たちはハイタッチで喜んだ。周囲には親と抱き合って喜んでいる子たちもいた。ただ印象的なのは、受かって喜んでいる子よりも、落ちて泣いている子だった。女子だけじゃない。男子でも、人目も憚らず親に抱きかかえられ、呻いている子もいた。

「頑張ったのに、頑張ったのに」

 という鳴き声が忘れられない。そんな子を見て、舟鴨が珍しく眉間に皺を寄せていたことを覚えている。

 帰りの道中で、ふと舟鴨は呟いた。


「少しムカついたな、さっきの」

「さっきのって?」

「ほら、頑張ったのにって泣いてた奴いたじゃんか。何が頑張ったのに、だよ。ったく、努力が足りてないんだよな」

「……え?」

 舟鴨が何に怒っているのか、よく分からなかった。

「だって、落ちたってことは努力が足りないってことだろ。それなのに頑張ったも何もないだろ。そいつがもっと頑張ってれば、目標には絶対に届くんだからさ」

「……い、いや、でもさ、努力だけじゃどうしようもないこともあるでしょ?」

「ないだろ」舟鴨がの丸い眼が、じっと私を見つめていた。「実を結ぶまでやって、初めて努力って呼べるんだぞ?」

「……」


 ああ、その時だ。私はその時、初めて舟鴨のことを「嫌だ」と思ってしまったのだ。何か絶対的な、価値観の違いを突き付けられているような気がして。


「でも舟鴨……どんなに頑張っても、人間に空なんて飛べないでしょ?」

「極端な例を出すなよ。別に俺は不可能なこと言ってないだろ。だって勉強だぞ? やればやるだけ成績は上がるんだから、そこをやらないってのは努力不足だ」

 それは、舟鴨にとっては当たり前の価値観だったのだろう。事実、彼はそうしてきたのだ。努力によって、道を切り開いてきた。

 ――努力すりゃあ、夢って必ず叶うんだぜ。

 舟鴨が部室でそう言っていたことを思い出す。それはとても純粋で、無垢で、それでいて酷薄な考え方だと、そう思った。


(努力すれば必ず叶う……当時あんなことを考えてた舟鴨が、簡単に演劇を止めるはずはない。だとすればあいつはきっと、ウィンズ劇団スクールに行くはず……)

 彼をそうさせたものが何なのか。そして舟鴨の行き着く先を私は知りたい。


 ウィンズ劇団スクールは、東京と神戸に二つのスクールがある。元OBは東京本校に在籍しているらしい。電車を乗り継ぐこと一時間三十分、代々木駅を降りて徒歩5分のところに建物はあった。既に辺りは真っ暗だが、雑居ビル一階の入り口には煌々と明かりが灯っている。ドアを開けると、受付にいる壮年の女性が首を傾げた。


「……生徒さん、じゃないですね。どちら様でしょうか?」

「夜分遅くにすみません。お尋ねしたいことがありまして。こちらに舟鴨という生徒は在籍していますでしょうか?」

「……あの、どのようなご関係ですか? ご用件は?」

「それは……」


 アポも取り付けていない見切り発車な訪問。それに今の私と舟鴨の関係は、しばらく連絡を取り合っていない友達。返答に窮していると、女性は眉間に皺を寄せた。

 その時、受付横の扉が開き、白いジャケットを着た一人の男が出て来た。学校のHPで見た顔だ。白髪が混じった壮年の男性――舟鴨の大学の演劇サークル、その元OBであり講師の白瀬さんだ。

「なに、生徒さん? 遅くにどうしたの」

「ああ、白瀬先生。その、なんかどうも変な人が来ていて……」

「あ、あの!」私は声を張り上げる。「探してる人がいるんです。こちらに、舟鴨という生徒が在籍していませんか? 元研修医の……」


 受付の女性が我慢の限界と言った風に立ち上がった。

「生徒さん個人の情報を明かすことはできません。お帰りください」


 正しい態度だと思った。いきなり来たよく分からない奴の相手をして大変だな、と俯瞰する社会人の自分がいる。でも、私だってここまで来て引けない。なおも喋ろうとする受付の女性を白瀬さんが抑えた。低く落ち着いた声音で、彼は言う。


「舟鴨くん、ですか。知っていますよ。確かに彼は僕の生徒でした」

「え……」

 あっさりと教えてくれたことに驚く。というより、生徒だったと言ったのか? 過去形ということは既に今は――。

「時間はありますか。良ければ少し話をしましょうか」


 私は長机とモニターが置いてある小さな会議室に通される。白瀬さんは椅子を引いて腰かけた。貫禄、いや、オーラとでも言うのだろうか。日常の何気ない所作、その一つ一つが様になっている。

 白瀬さんの経歴については簡単に調べていた。舟鴨と同じ大学の経済学部出身。大学時代から演劇サークルに入り活動、当時はモデルの仕事もしていたらしい。卒業後は大手広告代理店に就職したが、俳優という夢を諦めきれず三十二の時に退職。渡米し、ロサンゼルスの演劇学校へ入学。六年後に帰国し、日本で劇団を立ち上げる。本来、アポもなしに会える人物ではない。緊張で、喉がごくりと鳴る。


「そう硬くならなくていいですよ。まあ、僕も明日朝から講義があるから長くは話せませんが。それに元生徒の情報を明かすのはコンプラ違反ですしね」

「元……。やっぱり舟鴨はここにいたんですか?」

「ええ。初めて来たのは一年半前だったかな。そこから半年前まで。それ以前は俳優養成所に一年通っていたらしいです。そこで基本的な演技を学んでこっちへ来たと」

「俳優養成所……」ここ以外にも通っているところがあったのか。「一年半前ということは、じゃあもう既に当時研修医だったのでしょうか?」

「ええ。社会人が休日を利用して通うってのは珍しくもないんです。僕自身、会社員時代はそうしてました。でも現役の研修医はさすがに初めてだったから驚いたかな」

「ど、どうだったんですか、舟鴨の様子は?」

「どう、とは?」

「その……演劇に対する、態度です」

「態度? まあ、情熱を感じたかな。演劇に対して本気でした」


 情熱、またその言葉が出た。


「研修医がどれほど忙しいかは知らないけれど、気の入り方は尋常じゃなかったですよ。与えられた課題も真剣に取り組んでいました。とにかく努力を惜しまない。レッスン時間が終わった後も、講師によく頼み込んでいました。もちろん、私も含めて」

「舟鴨は……真剣に役者になることを志していたんでしょうか?」

 白瀬さんは首肯した。

「ええ。日本のみならず、世界で演技ができる役者になりたい。真っ直ぐな眼差しで、熱く、そう語っていましたよ」

「そう、だったんですか」

「みるみる彼は成長していきましたよ。本当に空き時間は全部演劇に注ぎ込んでいる、こちらが少し不安になるほどにね」


 結果が出せなければそれは努力ではない――舟鴨は自分の思想をここでも徹底している。演劇サークルでは、彼は認められなかった。だから俳優養成所へ通い、さらにここへ来て、舟鴨は真剣に演劇を学んだ。

 何が演劇を目指すきっかけとなったのか分からない。舟鴨が待ち受けにしていた女の影響なのかもしれない。

(でも、舟鴨は真剣に役者を志していることは分かる)

 だから、研修医を辞めたのだろう。自分の人生を、自分で選んだ。それで、役者として成功できるのならばそれは喜ばしいことだ。


「ただ、僕ははっきりとこういわなければなりません」白瀬さんは椅子に深くもたれかかる。ぎしっと軋む音が響く。「……彼には、演劇の才能が欠如していた」

 ――そう、

「……え?」

 私は思考が一瞬だけ固まり、聞き返す。

「彼には情熱がありました。でも、それだけです。彼には才能がなく、そして演劇を始める時間があまりにも遅かった……。残念ですが」

「さ、さっきは、みるみる上達したと言っていたじゃないですか……?」

「素人としては、という意味です。とてもプロの舞台に上がれるようなレベルではありません。舞台という制約に塗れた環境下で、その登場人物にどこまで寄り添い、自身の人生経験からそれに見合うものを引き出せるか――僕はそれが役者の質だと思っています。彼には、それができなかった。圧倒的に浅いんですよ、引き出しが。今まで物作りなどに真剣に取り組んでいたこともなかったんでしょう」

「お、大人になってから役者を志し、大成した人もいるでしょう? 彼だって――」

「彼も同じことを言ってたな……」白瀬さんは顔を顰める。「あなたの言う通り、そういう人物もいます。僕もその類です。でも、彼はその器じゃない。今まで何千と生徒を見てきた僕が言うんだ。加えて、彼は役者としては若くない。あの歳になって経験を積み重ねていくのは難しいでしょう。断言します――彼は世界に羽ばたける器じゃありません」


 それは、役者の世界で生きてきた先生だからこそ分かる、厳しい現実だった。


「……」


 舟鴨を侮辱されたことへの怒りの感情は、湧いてこなかった。なぜなら私は、恐らく先生が言うよりも前にそれを知っていた。現実とは得てして厳しい。舟鴨が役者として大成する――そんなものは夢物語であると、きっと始めから分かっていた。それが第三者の口ぶりにより、はっきりと確定しただけに過ぎない。


「蜜浦さん、いいですか。これは僕からあなたへのお願いです」白瀬さんは机に身を乗り出す。「彼は今、ロサンゼルスの演劇学校にいます。あなたから、一度彼と話をしてくれませんか? 将来をもう一度考え直すようにと」

「ロサンゼルス……あいつが?」

「僕も通っていた演劇学校です。演技のメソッドついて学ぶなら世界最高峰だと思っています。彼は渡米して、そこにいる。君の口から戻るよう説得してほしいんです。彼の才能では大成せず、打ちのめされるだけですから。あのタイプは危険です。精神的にも追い詰められる。自殺した奴も何人も見てきました。僕の友人も含めてね」


 そうだ。舟鴨が無謀な挑戦をしているのなら、それは止めなければならない。戻るよう、彼を説得するのがいいだろう。でも――。


「私には……無理です。私の言葉は、あいつには届きません」

 私にはその資格はない。だってあいつは、私には何も告げない。私だけが、仲間外れになっている。そんな関係の私がどうして、あいつを引き戻せるというのか。

「真剣だったから、君には言えなかったんじゃないかな」

「……え?」

 くっきりとした白瀬さんの眼が、じっと私を見つめていた。

「目標に達するまでは君には告げたくなかったんだと、僕はそう思いますよ。……彼は言ってたよ。役者を目指したのは、元恋人と見に行った演劇がきっかけだったとね。この歳になって役者を目指すことに怖さはあったけど、彼女の言葉が後押しをしてくれたと」彼は優しく目を細める。「入り口であなたを見たとき、すぐに分かりましたよ。舟鴨くんのスマホの待ち受け、ツーショットで映っていた女性だとね」

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