第3話 観る

 グループ長から私の有休取得日数に不足分があると指摘が入ったのは、週明けのことだった。自分の勤務表を確認すると、確かに今年度はまだ四日しか有休を消化していない。もう一日取る必要がある。スケジューラーを確認し、どこにするか考える。ぱっと脳裏に浮かんだのは、三月八日の卒業公演。だが、その翌日は朝から会議が控えており、会場のセッティングや調整などをしておく必要がある。


「蜜浦先輩。じ~っとにらめっこしてますねぇ。その日、休みたいんですか~?」

 横を見れば、天野さんが私の画面を覗き込んでいた。

「ううん、止めておく。翌日の準備があるし」

「いいですよ~、休んで。会議のセッティングは私がやりますから!」

「……え? 天野さんが?」

 訝しんだ声を出す私に、天野さんはぷくっと頬を膨らませる。

「あ~! 信用してないんですか! 大丈夫ですよぉ、年末の営業会議のセッティングもできましたし。ね、グループ長!」

 天野さんに対してグループ長は「あー、うん。いいんじゃない?」などと軽く返事をする。天野さんは大役を任されたと思ったのか、子供みたいにはしゃぐ。


「……」

 グループ長は、天野さんのことを何も知らないのに簡単に任せてしまう。年末の会議だってセッティングしたのは九割が私だ。年度末の事業の取りまとめとなる会議を天野さんに一任すのは少し不安だ。

(仕方ない。今週はスケジュール的に余裕もあるし、私が面倒を見られる。さすがにそれなら大丈夫だと思うし……)

 会議では総務からの発表もある。その資料作成もあり、その週は連日二十二時近くまで残業が続いた。天野さんは毎日定時で上がっており、総務に一人残された私はキーボードを叩いた。今月度の残業時間は確実に四十五時間に到達しそうだ。それ以降の残業代は出ないことが疲労を加速させる。




 八日の有休取得日、私は朝早くから片道一万円の新幹線に乗っていた。疲れの取れない頭と身体で車窓の風景を眺め、一体なんでこんなことをしているのだろうと考える。今の舟鴨はただの友人だ。だいたい、彼の足取りが追えないからといって、その原因が演劇部にあると確定したわけでもない。わざわざ他学の演劇を観に行くなんて完全にストーカーじみた……というかストーカー行為そのものだ。


「なにやってんだろ、私……」


 大学は春休みに入っており、構内は閑散としていた。

 目的の教室には開演十五分前に着いたが、会場はまだ開いていないようで、廊下に人が並んでいた。列に並ぶとパンフレットとアンケート用紙を渡された。パンフレットを読んでいるうちに時間が来て、入り口で名前の記入を行い、教室に通される。

 椅子が二列並ぶ簡素な作りの劇場。教室の左と右にはベニヤで囲まれた舞台袖が、天井には照明が取り付けられている。開演間近になっても、私を含めて十名ほどの観客。しかも会話を聞くに、周りは学生の身内、OB・OGと思われる人がほとんどで、部外者は私くらいのものだった。少し居心地が悪い。

 現役の部員も女子の比率が多そうだ。なんというか、ここに舟鴨がいたというイメージがまるで浮かんでこない。真剣に打ち込む人を応援したいという舟鴨の性格上、恐らく裏方だろうが――。


 公演時間になると、一人の男子学生が前に立ち、注意事項を述べて袖にはけた。ライトが消え、教室は暗闇に包まれる。

 第一演目『初めての共同作業』。大学生の主人公は、彼女の浮気現場を目撃してしまう。橋から飛び降りようとした主人公の前に現れたのは、浮気相手の男の彼女。彼女もまた、彼氏の浮気を怪しんでその後を追っていた。二人は結託し、浮気した彼女彼氏らを謀略にかけようとする。

 公演時間は五十分。率直に言って面白かった。全体的にコメディタッチで進み、掛け合いも楽しめた。学生の演技も上手くて、大学のサークルの演劇がこんなに高レベルだとは思わなかった。少し性的なネタが多かったのは、気になったが。


(それにしてもあの人、上手い)


 内容自体よりも、私の目を引いたのは一人の役者だった。浮気相手役の男子学生役――素人目でも分かる群を抜いた演技力。カーテンコール、総勢六人の役者が前に並び挨拶をする。そこでようやく私は気付く。スマホを取り出して写真を確認する。間違いない。演技が頭一つ抜けていた彼は、集合写真で舟鴨の隣に立っていた人物だ。彼なら舟鴨を知っているかもしれない。


「この後、三十分の休憩を挟んで次公演があります。ぜひそちらもお願いします。ありがとうございました!」


 拍手が起こる。次公演の準備があるためか、観客は一度外へ出されるようだ。写真の彼も扉付近に立って観客を誘導している。私は彼に近づいた。

「あの、すみません。演劇、とても面白かったです」

 彼は歯を見せ、顔を綻ばせた。

「あざっす。見に来るの、多分初めてだよね? どこの学部?」

 返答に窮したが、私は素直に伝えることにした。

「学部生じゃないんです。知り合いが昔ここに在籍してたので、それで知って」

「あ、そうなんすか。それはすんません。友達って?」

「……知ってるかな。四年くらい前にいた、舟鴨っていう男子学生なんだけど」

「舟鴨……? ああ、あの医学部の? うわ、懐かしい。知り合いなんですか?」


 やはり舟鴨のことを知っている。私が簡単に経緯を伝えると、彼も興味を持ってくれた。かなり親しい関係だったようだ。詳しい話を聞きたかったが、この後は次公演の準備があるらしい。時間が取れるのは十七時過ぎになるとのことだ。それでも、構わなかった。舟鴨の情報を少しでも得られるのならば。


 私はその後の公演も全て見ることにした。公演が終わり十七時を回った頃、彼と私は一階のカフェスペースにやって来ていた。芸術学部の生徒たちがよく使う場所だそうだ。まず公演についての感想を述べると、彼は顔を綻ばせる。


「マジっすか、嬉しいっす! あの三公演目、自分もシナリオに関わってて!」

 彼は嬉しそうに喋りだす。元々、高校の頃から演劇部に在籍していたらしい。

「あ、すんません、自分ばっかり。舟鴨さんのことでしたよね」

「うん。あなたを呼んじゃったけど、他の学生さんも彼のことを知ってたりする?」

 知っているのならそちらからも話を聞きたかったが、彼は言葉を濁した。

「いや……自分以外の奴らは多分あんまり知らないし、いい印象を持ってないと思いますね。一回生の頃に変な人がいたとか、その程度の認識じゃないっすか?」

「……嫌われてたの、あいつ?」

「そこまでじゃないですけど、浮いてはいましたね。うちのサークルって基本文系や芸術系が多いんすよ。だから、在籍も基本一番上が四回生。そこに医学五回生、おまけに演劇経験もない、その上、気合いだけはやたら十分ってんだから、まあ……。当時のサークルの先輩も接しづらそうでした。腫れ物っていうのかな」

「でも、君は仲が良かった?」

「まあ、そうっすね。僕個人としては、そんな悪い印象はないです。舟鴨さんて、演劇に対する熱意がヤバかったんです。演技とかも頑張ってたな……」

「待って、演技? 舟鴨って、裏方じゃないの?」

「え、いや、違いますよ。始めから役者志望でしたけど」

「……」


 頭の中の舟鴨と、目の前で彼が喋っている舟鴨が上手く結びつかない。漫研の時と同じく裏方志望かと思っていたが、表に立っていたのか? 誰かが真剣に打ち込むのを応援するのではなく、自らが舞台に立つ?


「……演劇に対する熱意を、舟鴨が持ってたの?」

「うちのサークル、中高から演劇やってた奴も多いんです。だから、大半は始めから声出しとか基礎ができるんすよ。でも、舟鴨さんはずぶの素人で」

 それはそうだろう。演劇経験があるとは聞いていない。

「先輩たちもあんま指導しないんで、自分が舟鴨さんに教えたことがあったんです。自分、高校演劇を真剣にやってたんすよ。強豪校だったから、サークルに入った当時はかなり意識も高くて。舟鴨さんに舞台のDVDとか、演技論の本を押し付けたんです。これに目を通さなきゃ話になんないぞって。当然、医学部なんて忙しいし、無理難題を吹っかけたつもりなんすけど……」彼はそこでふう、と小さく息を吐く。「舟鴨さん、一週間くらいで全部戻してきました。ああ、ギブアップかと思ったけど、違うんすよ。内容に関して質問あるから教えてくれって、細かいとこまで問い詰められました。実際に演技も見てくれってって言われて、見たら、上達してるんですよ。一週間で本もDVDも全部見て、なおかつ練習してたんすよね。いや、すごいっすよ」

「……」

「練習もサークルがある日は毎回来てましたね。いや、あんた本当に医学部の五回生かっていう。どんどん演技も上達してくんですけど、結局サークルには全然馴染めてませんでしたね」

「……舟鴨が舞台に上がっている映像とかある? 見せてほしいんだけど」

 演技する姿を是非とも一度見てみたかった。今日の公演中も後ろでカメラを回していた。過去の映像も記録しているとすれば、舟鴨の演技も見られるはずだ。


 だが、彼は首を横に振る。

「舟鴨さんは一度も舞台には上がらないで、辞めたんです。五回生の終わりに」

「……一年足らずで? でもその間になにか参加してるんじゃ……」

「うちのサークルって基本一年目は裏方に回して演技させないんですよ。その間に練習して、卒業公演で舞台デビューというのが習わしで。だから舟鴨さんも、一年近くはずっと練習でした。それで……言いにくいことなんですけど、舟鴨さんがサークルを辞めた原因は自分にあるかもしれなくて」

「それ、詳しく聞かせてくれる?」

「自分が一回生のときの卒業公演の時期でした。主演は卒業生なんですけど、端役は一回生も出るんですよ。その年は部員数が少なくて、台詞量の多い役を一回生が任されて。自分が手を挙げたんすけど、もう一人立候補した人がいて。それが――」

「舟鴨だった」

「はい。自分は譲りたくなかった。でも舟鴨さんも頑固でした。結局、先輩たちの提案でオーディションをしたんです。舟鴨さんは一年間、相当頑張ってました。彼、よく言ってました。俺は演劇に真剣だから、って。実際その通りだったと思います。多分あの人、空き時間を全部演劇の練習に注いでたんじゃないかな……でも」彼はそこで息を吐いた。「演劇経験七年の自分と、舞台に一度も立ったことのない医学部です。いくら頑張ろうと、そう簡単に埋まるもんでもないんです。結局、舞台って人に見せるものだから、実際に舞台場に立たなきゃ分かんないことも多いんすよ。投票で部員が手を挙げたんですけど、全票が自分でした。舟鴨さんには、一票も――」

「……」

 場面を想像する。舞台の上に立つ舟鴨。一生懸命練習したにもかかわらず、自分に全く手の挙がらない孤独な舞台。そこであいつは、どんな気持ちだったのだろう。


「多分その件がきっかけで、舟鴨さんはサークルを辞めました。最後の挨拶もなかったです。フェードアウトでした」

「その後、連絡とか取ったりした?」

 彼は首を横に振る。

 他にもいくつか質問したが、有望な情報はなさそうだ。学内で見かけることもなかったという。


「そう。ありがとう。……あの、最後に一つ。舟鴨に彼女とかいた?」

 彼の話から、舟鴨が演劇に本気なのは分かった。だが、何が彼をそうさせたのかが分からない。一体何が彼をそこまで夢中にさせた。それは医者というレールさえ外させるものなのか? ゆきえちゃんの言うように、女性の影響があったのか?

「いや、聞いてないっすね。あんまそういう雰囲気はなかったすよ。演劇一本って感じで。あ、ただ、スマホの待ち受け、なんか女の人だったような……」

「……そう」


 その言葉を聞いて湧き出て来た感情は、我ながら理不尽だと思うが、怒りに近いものだった。私は舟鴨の人生を羨ましく思っていた。羨ましかった。憧れていた。僻んでいた。そんな、順風満帆な舟鴨の人生を歪めさせた女がいる。


 彼は結局、舟鴨のその後の足取りは知らないようだ。私が礼を述べ、椅子から立ち上がったところで、ぼそりと彼は呟いた。

「ウィンズ劇団スクール」

「え?」

「舟鴨さんと雑談したことがあるんす。役者の演技を高めるならどこがいいかって。自分はウィンズ劇団スクールを勧めました」

「聞いたことがないんだけれど、有名な学校なの?」

「海外の俳優演技メソッドについて学べる、日本でも珍しい演劇スクールです。講師の一人がうちのサークルのOBで。舟鴨さんも興味を示してました」

「ウィンズ……分かった。色々と教えてくれてありがとう。演劇、面白かったです」


 私の言葉に、彼はどこか悲しそうに笑う。

「良かった。多分俺にとって、人生最後の公演だったから」

「演劇、止めるの?」

「四月から普通に社会人なんで。土日に練習やれればいいですけど、厳しいでしょうね。付き合ってる彼女もあんま、そっちに興味がないから……」

「……」


 労働条件にもよるが、社会人ともなれば学生時代と同じ感覚で趣味を続けることが難しい場合もある。私もそうだ。社会人になりたての頃は休日に漫画を描いていた。けれど時間は失われていき、今では一作を書き上げることすらできない。結局は、漫画家になるなんて、私には過ぎた夢だったのだ。


(……まあでもそれが普通だ)


 どこかで趣味との折り合いを付ける必要がある。

 だって私たちは、大人なのだから。

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