【短編】椿、つらぬけり

錦木 圭

本編

 二月の重い雪が降り積もっていく。ぎしぎしと軋む足音が全身に伝わって、寒さまで体の芯に届きそうだ。曇天の下、霞がかった空気は刺すように冷たく澄んでいる。灰色のダッフルコートにマフラーを巻いて歩く町は少し汚れた雪の装いだった。

 見慣れた景色もこの足音で進むと違う景色に見える。丹菜はマフラーを巻きなおしつつ、ここに来るまでに幾度となく見返した買い物リストを眺めた。

 並木道を抜けて、小洒落た街灯の下を通る。昼間のそれは雪道の中で所在なさげに立っていた。冷たい指でポシェットの蓋を開けてリストをしまう。金具が素手に冷たい。かじかみ始めた手をコートのポケットに入れて、灰色の街並みに灰色の足跡をつけていく。

 雪の積もった茂みの陰で魚が泳いでいた。丹菜はそれを半ば無視するように通り過ぎる。街には魚が泳いでいる場所がある。夜のキッチン、公園の茂みの下、地下鉄新宿駅の改札フロアの隅。丹菜の存在などつゆも気にせず、それは泳ぎ続けている。

 静かな場所では、決まって魚が泳いでいた。物心ついたときには既に、あらゆる音が目の前に形として見えた丹菜にとって、魚が一番身近で、少し不気味な存在だった。地面から少し離れた場所で悠々とたゆたう影は、誰かといるときにはあまり見えない。

 静かな木影や、人ごみにぽっかりと空いた場所を覗きさえしなければ、人っ子一人いない並木道を学校帰りに歩くのは好きだった。このために寄り道することもしばしばあって、今日もこっそり遠回りして商店街のスーパーへと向かおうとしていた。

 丹菜の家からスーパーまでは川を渡って行く。今にも凍りそうな流れに近づいていくと濃い水の匂いがした。近くを通るたびに思わず引き込まれそうになる暗い流れは嫌いではなかった。丹菜のことなど気にも留めずに流れていく川の音は心地よかったし、常日頃感じる胸の詰まったような感覚も押し流してくれると思っていた。

動かない人影が目に入ったのは、川を渡ろうとして橋のたもとにさしかかった時だった。仕立てのよい紺のコートの後ろ姿に見覚えはない。普段なら通り過ぎるところを、目を引いたのは一つの違和感──彼女は靴を履いていなかった。黒いタイツを土混じりの雪で濡らして、彼女は一人川を見ていた。

 その刹那、彼女の周りに鮮烈な赤の椿が咲いた。

 彼女が歌っているのだと気付くまでには時間を要した。音を聞いて、ここまでくっきりと何かが見えたのは初めてだった。その場に根が生えたように立ち尽くすしか術がなかった。音楽なんてどれも同じ、無機質に一定の律動を繰り返す色の広がりだと思っていたのに。

「綺麗……」

 呟く声は青く滲んで空気に溶けてゆく。昨日降った雪の冷たさなんて気にならないほどの静かな佇まいに惹きこまれて、気がついたら息を殺して彼女の歌う旋律に耳を傾けていた。

 そうして暫く経ったころ、歌声が途切れた。ふっと息をついて居ずまいを正したその姿を見て、丹菜は咄嗟に駆けだしていた。紺のコートの袖を掴み、思わず叫ぶ。

「待って……!」

 椿の花は消えていた。暗い色の川が二人の足元を流れていく。不意をつかれたような顔でこちらを見た少女は、自分の少し上くらいに見えた。すぐにその顔がゆがむ。

「今、川に飛び込もうとしましたよね?」

「そうだけど」

「そうだけどって……、どうしてそんなことを」

「あんたが知る必要なんてない」

 黄色いナイフが飛んできて心臓を貫かれた気がした。思わずつかんだ手を放す。

「そんな、でも」

「別にあんたには関係ないでしょ、勝手にさせてよ。それとも何か用?」

「……じゃあ、今の歌が誰の歌か教えてください」

「え?」

 二人で数秒間、互いの顔をまじまじと見た。

 改めて見ると、向かい合った少女は思ったよりも華奢だった。地毛にしてはやや明るめな茶髪は几帳面に結われて、本人の芯の強さを体現しているようだった。──だがそんな人がなぜ、自殺なんか。

「私だけど。あれ書いたの」

「あの綺麗な歌を」

「これだけは気に入ってたから」

 会って初めて、彼女の声音が少しだけほぐれた気がした。少しはにかむように下を向く。隣に揃えられた革靴の爪先が乾き始めている。

「すごい才能があるのに、勿体ない」

丹菜が呟くと少女は一瞬驚いた顔をして、そして自嘲気味に笑った。

「私に才能があると思ってるの? それは買いかぶりすぎ」

 沈黙が下りた。少しして少女は続ける。

「才能なんてない。それに、私の曲はもう役に立たないから」

 高めのポニーテールが冬の湿った風にさらさらと揺れた。放たれる言葉とは裏腹に、こちらを見つめる目はまっすぐで、数分前に川をのぞき込んでいたとは思えなかった。

「……そうですか」

 彼女は頷いて川に向き直る。体温で溶けた雪が足元でぱしゃりと音を立てた。迷いのない、椿の色。それを見て取って、

「私も一緒じゃ、駄目かな」

 と無意識に口にした。

「は?」

 少女がこちらを振り返る。ポニーテールの毛先が弧を描いて鈍く光った。

「私も一緒に飛び降りていいですか?」

「あんた正気?」

「はい。私も、役立たずの気持ち悪い奴だから。あなたみたいな人ですら死ぬのなら、私だってもう居なくなってもいいじゃないですか」

「……それは、あんた自身が言うのなら、何も知らない私が反論する資格はないけど」

 思いのほか律儀な回答に、この人は不器用なんだな、と思った。なんだか距離が縮まったようで、少し笑ってしまった。

「ねえ、とりあえず近くでお茶でもしませんか? 私、鶴川丹菜って言います。青桐女子の二年です」

 よろしく、と軽く頭を下げると、胡乱な目でこちらを見ていた彼女も素直にお辞儀を返す。

「セッカ。浅内雪花、南高二年。よろしく」

「同学年だったんだ」

「そうみたい。……今飛び降りるのはやめておくよ」

「それは助かります」

 それを聞いて、雪花はちょっとふくれっ面をしてみせた。

「うわ、こんなにタイツ濡れてたら靴履けない」

「カフェまでの辛抱と思って頑張って、としか」

「意外と言うじゃん」

「それほどでも」

 顔を見合わせて、にやりと笑う。石畳で舗装された橋は融けかけた雪が、傾きかけた陽を反射して光っていた。


「で、どうして一緒に死のうなんて言ったの? お陰でこっちは死に損ねたんだけど」

向かいの席で、コーヒーのカップが片手のなかで揺れる。商店街から少し外れた場所にあるカフェは最近できたようで、まだ人が少なかった。三時過ぎにもかかわらず店内は少し暗い。あたたかな間接照明に浮かび上がる空間で、低くかかっている今どきのジャズギターが新鮮だった。店の隅まで音楽が響くせいか、魚はいない。

「さっき言ったことそのままだよ。私みたいな何もできない人間がいても良いことなんてない」

 と答えると、雪花は首を傾げた。

「なんか意外。人生うまくいってる優等生っぽいのに」

「そんなことないって。成績はそこそこだし」

 遅れて運ばれてきた紅茶がテーブルに乗せられる。白い陶器のポット入りの紅茶をカップに注ぐと、辺りに華やかな香りが広がった。

「私、得意って言えることが何もなくて。自分の嫌なところしか目につかないの」

 ひと口紅茶を飲んで人知れず熱さに飛び上がりそうになりながら、丹菜は弁明した。

「でも音楽は得意なんでしょ?」

「そんなことないよ。どうして?」

「何か用か、って聞かれて音楽について聞くなんて、すごく音楽が好きで、ずっと触れてきた人なんだろうなって思ってたんだけど。違ったんだ」

 言い終わるなり、雪花が考え込む素振りを見せる。直感ってやつなのかな、などぶつぶつ言っている。顎に華奢な手を当てて俯く癖が自分に似ていると思った。

「……気持ち悪いと思ったら申し訳ないんだけどさ」

 もしかしたら、分かってもらえるかもしれない。自然と言葉が口からついて出た。

「うん?」

「椿が、見えたの」

「椿?」

 そこまで言って、やっぱり話すべきじゃなかった、と項垂れる。紅茶の水面に自分が映りこんだ。肩下まで伸びた重めの黒髪を見ながら、最近髪を切っていないな、とどうでもいいことを考える。

「私の歌で?」

「そう。赤い椿が、パッと咲いて」

「それは、物理的に?」

「うーん、たぶん違う、と思う。昔からいろんな音が形になって見えるの」

 なるほどね、とだけ言って、雪花が再び沈黙した。少し冷めてきた紅茶を口に運びつつ、次の言葉を待つ。渋めのダージリンの香りが鼻に抜ける。

「私さ、自分がどんな音楽を作ってるか、わからないんだよね」

 唐突な告白に、今度は丹菜が驚く番だった。

「さっきのはすごい音楽だと、私は思ったけど?」

「あれは二年前の曲。高校に入ってからは何を作ってもこれじゃないって思うの」

 相槌を打ちながら、自分もこの人のことを勘違いしていたのかもしれない、と思う。才気走った音楽と言動と同時に、先ほどの律儀な返答が思い出される。橋から飛び降りようとした彼女の足取りに迷いはなかった。その決断をさせるほどに彼女が追い求めた「役に立つ音楽」とは何なのだろう。

小さいころから、親や友人の好みに合わせて聞いている音楽は、どこか色あせて見えていた。「好きなものを選んでいい」なんてとんだ嘘だ。仕草を見て、相槌を聞けば、どの答えを欲しているかは分かる。分かっていても、人に合わせる以外の選択肢なんて見つからなかった。「正解」を言った後の相手の安心したような色。見たくない色、でも見ずにはいられない色。

 だからこそ、あの椿の赤さが眩しかった。苦しそうな彼女の話にただ相槌を打つだけは嫌だった。一つ呼吸をおいて、

「ねえ、私のこれ、作曲に役立ったりしないかな」

 その声に雪花が顔をあげた。

「私の作った音楽を、丹菜が聴いて感想を言うってこと?」

「うん。どうせ死ぬのなら、その前に一つくらい試してもいいじゃない? 文章なら書き慣れてるから、歌詞とか書けるかもしれないし」

 物は試しとはよく言ったもの、と付け足しながら紅茶をポットでもう一杯注いで、「ここ最近の曲はあるの?」と聞く。

「あることにはあるけど」

 雪花が椅子に引っ掛けた鞄を探り始めた。スマホでデータを見られるようにしてたはず、と呟きながら、彼女の前には高校の教科書とノートの山が積まれていく。

「そういえば、南高って言ってたよね。頭いいんだ」

「授業早くて大変だよ。でも校則は青桐の方が厳しいんじゃないかな。お嬢様学校でしょ?」

「中身は普通の女子高生の集まりだけどね。校則は厳しいなぁ」

 少しして雪花がスマートフォンを取り出す。辺りを見回して数人の客がいるのを確認してから、紺色のヘッドフォンも手渡される。

「お待たせ」

 重たい横髪をかきあげながらヘッドフォンを受け取り、恐る恐る耳にかける。収まりのいい場所が分かったのを見計らって、雪花がスマートフォンを操作した。少しためらうような仕草を見せてから、液晶を軽くたたく。

 その瞬間、耳元で淡い三原色が弾けて広がった。

 穏やかな緑の電子音が丸い形になって視界に溢れる。水に絵の具を落としたような音。そこに光がさして揺らいでいる。どこか暖かさを感じるような響きが心地よかった。

 しかし、しばらく聞いていると景色は移ろっていった。不穏な音が混じったと思った直後から景色が段々とモノクロになり、少しして規則的な波長となって無機質に目の前を通り過ぎる。知らない世界に放り出されたような感覚がした。やがてその波も消えて、カフェの景色が戻ってきた。

「丹菜、大丈夫?」

 雪花が不安そうに見つめている。

「うん。最初は鮮やかで綺麗で。でも途中から、ちょっと怖かった、かも」

「怖かった、か」

「これは、何を表そうとして作ったの?」

「誰かが、安心して聞いてくれる曲を作りたかったんだけど。途中でどうしてもうまくいかなくなって、辞めちゃった」

「安心して聞ける曲……」

 それを聞いて、自分の回答が音楽を聴いた感想としては失敗だったことに気づく。思わず背中を丸めてじっと身構える。胸のあたりをギュッと掴まれるような感覚がする。誰もいなかったら耳を塞いでいるところだった。

相手の期待に添わない答えを言った時に聞こえる苛立ちの音が、丹菜にはどうしても耐え難かった。しかし、その音はいつまで待っても聞こえない。

「ありがとう。家に持ち帰って考えてみる」

 聞こえてきた声音はまっすぐだった。飲み干したコーヒーが静かに置かれる。アンティークのテーブルにマグカップが当たって、どこか温かくて、それでいて凛とした音がした。

「怒らないの?」

 おずおずと問いかけると、雪花が不思議そうに「どうして?」と聞き返す。

「丹菜が怖いと思う曲を通ったのは私の責任だもの。どうして丹菜に怒らないといけないの?」

 その言葉を聞いて、ふっと肩の荷が下りたような気がした。今まで気に病んでいたことが嘘のように心が軽くなる。

「ありがとう」

「え? 丹菜がそんなこと言う話でもなくない?」

怪訝そうにする雪花を見て笑ってしまった。人と話していて本心から笑えたのはいつぶりだろう。

誰かの顔色を窺って勝手に神経をすり減らすうちに、いつの間にかホームから見える線路が、橋から覗く暗い川が綺麗に見えるようになっていた。店のドアベルの音に振り向く雪花をぼんやりと見る。もう役に立てない、と最初に言った彼女は、今まで誰かのために音楽を作り続けていたのだろう。彼女が橋から飛び降りようとした理由が分かった気がして、同時に、劇的な理由もなくただ橋を見つめていた普段の自分が恥ずかしくなった。

決まりが悪くなって自分のスマートフォンを覗くと連絡が溜まっているのに気づいた。母からだった。液晶に表示されている時刻は帰宅の予定をだいぶ過ぎている。カフェのBGMに混じって耳鳴りが聞こえ始めた。

「丹菜?」

 顔を上げると、雪花が気遣わしげな眼でこちらを見ていた。全然大丈夫、と答えながらメッセージを返す。冷たくなった指先で送信ボタンを押して雪花に向き直ると、なおもこちらを心配そうな目で見ていた。

「ねえ、さっき橋のところで言ってた話なんだけど」

 丹菜は慎重に切り出した。

「こういうのは? 二週間、二人で音楽を作って、雪花ちゃんが納得できるものができなかったら、その時は一緒に」

 自分には、おそらく雪花が抱えているような劇的な理由も覚悟もない。だが、真綿で首を絞められるような仄暗い日々はその提案をするには十分だった。

 低音の効いたジャズとサイフォンの音がする。

「二週間は長いな。一週間でどう?」

「分かった。じゃあ、来週の日曜日の午後三時に」

 どちらからともなく、にやりと笑みが零れた。一週間だけなら、もう一度頑張ってもいいのかもしれない。自分で言ったくせに現実味はなくて、だが一度決めてしまえば周りの景色が輝いて見えた。

「ね、ⅬⅠNE交換していい?」

「いいよ。これQRコード」

 誰かと連絡先を交換するなんて久しぶりだった。

「私も雪花って呼び捨てにしてもいいかな」

「もちろん」

 交換した連絡先の画面をしばらく見つめながら、そういえば、と口にする。

「……スーパー、寄らなきゃいけないんだよね」

「おつかいの途中だったんだ。じゃあそろそろ帰るか」

「そうだね。あとで連絡する」

 人が帰るときの雰囲気は独特だ、といつも思う。少し陳腐な、どこか予定調和のような雰囲気。この空気を表す言葉をいつか知る日は来るのだろうか、と感傷的になる。

 会計を済ませて外に出ると日が落ちかかっていた。互いに手を振って、反対方向へ歩き出す。今日は別れてもあまり寂しい感じがしないな、と思いながら小走りにスーパーに向かった。


買い物を済ませて普段より二時間ほど遅く家に帰ると、家の中はどこかピリピリとした音がした。

「ただいま。買い物してきたよ」

母が扉を閉めて歩いてくる足音が遠くから聞こえると、視界に黒いノイズが走った。自分のせいとは分かっているが、どうしても胸のあたりがキュッとして変な心地がした。

「丹菜ちゃん、お帰り。今日はお友達と話してきたの?」

「ただいま。うん、ちょっとね」

「同じクラスのお友達? みゆきちゃんかしら」

「いや」

 言葉を濁しながらコートを掛けて、勉強机に鞄を置く。

「じゃあ、さつきちゃん? でもあの子は今日部活なんでしょう?」

「そうでもなくて。……別の子」

「そう。変な子と仲良くなっちゃ駄目よ。お母さん、心配するから」

 机に置かれた紅茶のマグカップがわずかに苛立った音を立てた。母が部屋を去って足音が遠くなった後に、ひとり耳を塞ぐ。

 昔から音は形を持って語りかけてきたが、特に人が立てた音には敏感だった。理由は分からないのに、衣擦れの音もスマートフォンのタップ音も、すべてが感情をもって語りかけてきた。そして向けられたわずかな悪意に刺されては動けなくなる日々だった。でもどうして嫌われたのかが分からなくて、やがて自分から何かを話すこと、行動することが怖くなっていった。

じっと待ってどれくらい経ったのか、ティーバッグを引き上げ忘れた紅茶は人肌くらいの温度になっていた。耳元から手を放して、僅かに体温より温かいマグカップを両手で持ち上げる。急に母の顔が浮かんで涙が出そうになった。冷めた紅茶は苦かった。

 夕飯を食べていても、自室で勉強していても、黒いノイズは見え続けた。

 そういう時、丹菜は決まって文章を書く。その現実から逃れるように、その日にあったことを丹念に思い出して。そして日記のページが埋まったとき、やっと眠りにつくことができる。今夜は書くことがたくさんあるなと思いながら、雪花が聴かせてくれた音楽を思い起こす。日記は誰にも見せないと決めて簡易なロックをかけていた。引き出しから小さな鍵を取り出し、慎重に回して外す。開いた日記が埋まったのは日付をまたぐ直前だった。

早く寝なさいよ、と言い残して先に寝室へ行った母の寝息が、寝室の扉越しに聞こえてくる。父の帰りは今日も遅いようだった。誰にも邪魔されない、でも一人ではない穏やかな時間が丹菜は好きだった。いっぱいまでページを埋めた日記を閉じ、ベッドにそっと寝そべって電気を消す。部屋の隅で、小さな魚がくるくると回っている。明日も雪花と会えるかな、と考えながら眠りについた。


それからの数日、学校での時間は驚くほどあっという間に過ぎた。選択授業の音楽の時にコード表を眺めていて先生に注意されたほかは至っていつも通りに授業が終わって、部活のない丹菜はすぐにカフェに向かった。下校途中で携帯の電源を入れると、「いつもの席で待ってる」との連絡が入るようになった。

昨日ぶり、と手を振る雪花の声は少しずつ明るくなっていった。

「今日の朝送ったフレーズ、聴いてくれた? 結構いいものができたかなって思ったんだけど」

 楽曲のやり取りは続いた。彼女からは毎日、いつ作っているのかと疑問に思うほどのペースでファイルが送られてくる。それを一つ一つ聞いて、見えた景色を描写したメモをカフェに持っていく。雪花がノートパソコンを鞄から取り出して、波形を見ながら紅茶を啜る。一週間という猶予の中で過ごす一日一日は、それぞれが彩られて見えた。

 音楽のほかにもいろいろな話をした。雪花には中学生の弟がいるとか、初日はコーヒーを飲んでいたが実は甘いものが大好きだとか。

「だって、死のうとした日に抹茶ラテなんて飲むと思う? 私そんなに図太くないって」

 と言って彼女は笑った。ここ数日はほかの客がちらほら見えた程度で、カフェは変わらず丁度いい混み具合だった。

 夕方に別れてからは、家で雪花の音楽を聴くようになった。イヤホンをして音楽の世界に一人沈めば、黒いノイズを見ることも少なくなる。丹菜にとって初めて安心できる居場所ができた気分だった。文具店で買った真新しいノートを開いて、見えた景色をそのまま言葉にしていく。思いのままに詩も絵も加えて、自分の好きなもので白いページを埋める。新しいページを開くごとに次に聞こえる音に耳を澄まし、数多の文字から韻律を編み出していく。

 イヤホンを繋いで、一面の花畑、深い海の底、どこまでも広い砂漠、あらゆる場所を一人で旅した。たまには白い箱や、少しノイズの入った音楽もあったが、その箇所を示し。心地よいフレーズを教えるうちに、楽曲の完成度は増していった。

 だが、日を追って密度を高めていく音楽を聴くごとに、どこか違和感があるのに気づき始めていた。毎日カフェで会っても、雪花の様子は変わらない。指摘して雪花を傷つけるのは気が引ける。どうしても切り出せずに、作詞をするノートにノイズとも言い難いそれを示す印が増えていった。光沢のある表紙のノートを閉じてベッドに潜り込んでからも、どこか引っかかるフレーズが耳に残っていた。すいすいと魚の泳ぐ部屋で枕元にスマートフォンを手繰り寄せ、会話画面を開く。

数時間前にファイルが送信されたきりの履歴を数秒間見つめて、液晶に表示されたキーボードを叩き始めた。


『遅くにごめんね。何となく話したくなって』

 ノートパソコンの右端に新着メッセージを知らせる通知が表示された。手元の時計は既に深夜を示している。本やらノートやらが雑多に積み重なった机をかき分けて、マウスが動く場所を確保する。

「あれ、まだ起きてたんだ」

 メッセージの差出人を確認しながら雪花が小声で呟く。薄い壁の向こうから弟の寝息が聞こえてくる。照明を落とした部屋で光るモニタには楽曲の編集画面が表示されていた。

 メッセージの表示ボタンにカーソルを合わせて手が止まった。送り主の顔を思い浮かべながらも、決定ボタンを押せなかった。学校帰りにコンビニで印刷してきた歌詞が目に入る。丹菜のように人の感情を察することこそできなかったが、昨日と今日に送られてきた歌詞には彼女の迷いが見て取れた。丹菜が自分の音楽を聴いて何か思うことがあったことくらいは分かっていた。

 鍵のかかる机の引き出しを開ける。モニタの青白い明かりの陰になって、白い封筒が覗いていた。その上に、ここ数日分のパソコンのパスワード。以前の分は先日、橋のたもとでちぎって川に流した。数年前に雑誌で綴られた期待も、弟がかつて見つめていた私立中学のパンフレットの記憶も、大好きな音楽と一緒に鉄くずの中に閉じ込めるのが自分の義務だった。もう何度見たか分からないパスワード変更画面を開いて、ランダムな文字列を紙に控えてからエンターキーを押す。引き出しに鍵をかけて、鍵を鞄の底に隠した。

音のずれを直そうとしてマウスに手を伸ばすと、将来に関するアンケート、と銘打たれたプリントが床に落ちた。先週言われた担任からの言葉は思い出したくもなかった。

 結局、メッセージは既読をつけずに閉じた。

「なっさけない」

 エンターキーを強めに押す。弟の寝息が一瞬静まって、雪花は慌てて動きを止めた。再び聞こえ始めた寝息に安堵しながら書類を片付け、スリープモードに入ったパソコンの電源を切る。勉強机のライトを消すと、カーテンの隙間から月明かりが覗いていた。机上にまとめた書類の上には丹菜の歌詞を印刷したメモが載せられているのがうっすらと見えた。何となく背を向けると、バイト代で少しずつ揃えた音楽の教本の背表紙がかすかに光っていた。数日ぶりにそれを見るのがつらくなって、逃げるように布団に潜りこんだ。


 雪の日に入ったカフェは既に放課後の行きつけの店になっていた。

「もうすぐ一週間か」

 丹菜がポットからアッサムティーを注ぎながら言うと、雪花が

「あと二日だね。長かったような短かったような」

 と返す。日を追うごとに、二人にとっての時間の制限は、楽になるまでの日数というよりも最高の楽曲を作る締め切りへと変わりつつあった。丹菜が書き溜めたノートは少しずつページを増やして、ノートの中間地点ほどまでさしかかっていた。そのページを見て、小さくつけた印を撫でる。

「ねえ、ここ数日のセッカの曲調、どこか無理してない?」

 キャラメルラテを持つ手が空中で止まった。

「やっぱり、そう聞こえる?」

 こちらを見つめる様子こそ平然としていたが、声音にはわずかの苦しさが滲んでいた。

「うん。明るくて素敵な曲だけど、どこか影があるような。それを一生懸命隠そうとしているような」

 雪花は目を伏せて次の言葉を待っていた。

「きっと気づいてるんでしょう? なら、それに合わせて曲調を変えてもいいと思うの」

 紅茶を飲もうとしてティーカップをうまく持てずに置きなおす。ソーサーとカップが重ねられる澄んだ音は、静かな店内に響いて消えた。

「もう少し曲全体を暗くする、ってどう?」

 勇気を振り絞って出した答えだった。

 心臓の音が耳まで届きそうだった。自分が思っていることを話すのってこんなに難しいことだったんだ、と改めて思う。

「ごめん」

 雪花は俯いて言葉を絞り出した。「私にはできない」

「私は明るい曲を作らないといけないから。ニナが言ってることでも、それはできない」

「でも、今のままじゃ苦しそうで──」

「あたしが何年音楽やってるか、知ってる?」

 一週間ぶりに見る目つき。こちらを拒む声音は鋭く、丹菜には目に痛い色に映った。

「……ごめん。知らない」

「十四年。三歳でピアノを始めて、それからずっと、音楽だけが私にできることだった。あたしが好きなものを音楽にするとき、家族も友達も喜んでくれた。曲を投稿すれば、知らない人からもコメントをもらえた……あたしはいろんな人を助けられるって思ってた」

 大声ではなかったが、よく通る雪花の声は人の少ないカフェに響き渡った。数人の客が振り向いてこちらを見ている。店主はカウンターで静かにコーヒーを淹れていた。

「でも、中学の終わりごろから明るい曲を作るのが苦しくなった。ピアノの受賞も減って、音高の奨学金も取れなくなって。それじゃ駄目なのに。聴いて笑顔になる曲を作り続けないと」

 雪花が一息にまくしたてる。はっと我に返った顔をして、

「ごめん。何でもない」

 と俯いた。泣きそうな声だった。

「セッカは、周りの人を喜ばせたいんだ?」

「うん。昔から私が作って喜んでもらえたのは、聴いて元気になる曲なの。でも今の私は、明るい音楽が何なのかすら分からない。何もできない私なら、いても意味はない──」

 ラテのカップを握る両手の指先が白くなっていた。

「それは違うよ」

「え?」

「セッカが明るい曲以外を作れるようになったのは、雪花がいろんな辛いことを経験してここまで来たからでしょう? 私、セッカのおかげで音楽に役立てるって気づけたから、もっとセッカの力になりたい」

「でも、あたしが作ろうとしてる音楽は、みんなの期待を裏切るかもしれない」

「私は、無理して作る音楽よりも、セッカが作りたいと思って作った音楽を聴きたいな。きっとみんなもそうだと思うよ」

 アンティークの机に涙が落ちた。丹菜はそれ以上何も言わなかった。その日は雪花が泣き止んでも何かを話す気にはなれなくて、ジャスだけが鳴る空間でラテと紅茶を飲んでいた。

 窓に差し込む光が暖かな橙色から透明な青色に変わったころ、二人は会計を済ませてカフェを出た。橋の前にさしかかったとき、

「ごめん」

 と雪花が呟いた。

「うん」

 静かなやり取りは宵の空の色と見分けがつかなかった。川の音だけが二人を包んで、無言の時間を埋めていた。音もなく魚が通り過ぎていく。このまま魚の群れに混ざりたいと思ったのは初めてのことだった。


 その夜はゆっくりと時間が過ぎていた。日課になっていた雪花の音楽を聴く気にはなれなかった。読みかけの本を引っ張り出して、少し読んでは机上に置く。手元に何冊かの本が積まれたところで、スマートフォンの画面がふわりと明るくなった。

 ファイルを開くのが怖くて、しばらく液晶を見つめる。この音楽がこれからの二人の関係性を変えうるものであると直感していた。同時に、音楽を託されたことの重さも感じていた。

メッセージもなしに送られてきた音楽は今までとは打って変わって落ち着いていた。水を丁寧に掬(むす)ぶような静かな息遣い。透き通ってどこまでも伸びていく、雪花自身の音だった。

 ノートの新しいページを開いて、シャープペンを繰り出す音さえ調和して聞こえる。イヤホン越しに見える景色を言葉にしたくて、気が付いたら日付が変わっていた。

今日は日記を書く必要はないや、と思って、目覚まし時計をいつもよりも早めに設定してベッドに沈み込む。その日、夢は見なかった。

 

 日曜日は晴れだった。雪はすっかり融けて、いつもの代わり映えしない町が広がっている。朝早くに目覚めて、約束もしていないのにカフェまでの道を辿る。飛び立つ鳥も橋の手すりの朝露も新鮮に映った。

 カフェはちょうど開店直後のようだった。静かな店内で、見覚えのあるコートが椅子にかかっているのが目に入った。

「セッカ、おはよう。早いね」

「あれ、ニナも来たの? 今は昨日の音源を微調整してるところ」

 いつも通り紅茶を頼んで雪花と向き合って、どこか雰囲気が違うことに気づく。

「今日は髪結んでないんだ」

「そう。結んだ方がいいって友達には言われるんだけど、私は下ろすのも好きなんだよね」

「似合ってる。あ──」

 明日からその髪型で。言おうとした言葉をすんでのところで飲み込んで、一週間書き込みを続けたノートを開く。

「昨日送ってきてくれた曲の歌詞、考えてきたよ」

「見せて見せて。あとは文字数とか見ながら調整して終わりだね」

 終わり。何気ない風を装った言葉で、丹菜は得体のしれない気分に襲われた。今日で約束の一週間。これから先、私はどうやって過ごしていけばいいのだろう。

パソコンのキーボードを叩く雪花には迷いを感じなかった。彼女が飛び降りることはないだろうと確信した。

では、私は? 雪花が一人でいなくなったら、何もできない自分に逆戻りするだけではないのだろうか? 祈るような気分でノートの端を撫でながら、数日前に家で見た黒いノイズを思い出す。イヤホンで耳を塞げても、自分が何もしないならノイズが消えることはない。パソコンの液晶をのぞき込み、器用にカーソルを動かして音の調整をする姿を眺めて、どこか置いていかれたような気分になった。

「ニナ? どこか気になったところでもあった?」

「ごめん、ちょっと考え事してた。今のところ大丈夫」

 それならいいんだけど、と言いながら雪花が作業に戻る。

 音のテクスチャについて。歌詞と音の対応について。二人であれこれ話し合いながら、淡々と作業を進める。

どちらも約束については話さなかった。

すべての確認作業が終わったとき、時刻は三時をとうに過ぎていた。

「三時、過ぎちゃったね」

「うん」

 集中が切れた頭で紅茶と抹茶ラテをおかわりする。今日は紅茶に角砂糖を入れるのも悪くないな、などと考えているうちに店の奥から小さくタイマーの音が聞こえてくる。しばらくして飲み物が運ばれてくる足音が店内に響く。もはや定位置になったカウンター近くのテーブル席に抹茶とダージリンが香る。

「ねえ、来週からもここで会えない?」

当たり前のように言われたその言葉を、丹菜は少しの間ぼんやりと聞き流していた。数秒してから、はっとして「もちろん」と付け加える。

紅茶のカフェインが効きだしたように頭が冴えていく。

「今更なんだけどさ、私どうせ一人で死ぬ勇気がなかったんだと思うの。セッカの覚悟に上乗りしてたんだよね」

「いいんじゃない? 私はニナが諦めきってないのを見て、無意識に縋ろうとしてたんだと思うし」

「そうだったの?」

「うん。お互いさま」

 カップを置く音が重なった。

「実はセッカに見てほしいものがあるんだけど」

たしかに、諦めきってはいなかった。

作詞のメモが詰まったノートの最後のページを開く。雪花が今までやってきた作業を数日かけてまとめて、そのいくつかにマーカーを引いてあった。

「私、これから自分にできることを考えたの。今は作詞しかできないけど、セッカがいままでやってた編曲作業とか、たくさん勉強して手伝えるようになるから。待ってて」

 雪花が椅子を引く。静かな音とは裏腹に、オレンジの色が放射状に飛ぶ。

「分かった。頼りにしてる」

「任せて」

カフェの店内に流れる音楽は軽快なジャズになっていた。ふと店主を見ると、ちょうどレコードを取り換えたところのようだった。目が合うと、店主は少し肩をすくめて笑って見せた。

カウンターに戻っていく後ろ姿に丹菜は頭を下げた。


月曜の朝、いつもよりも少しだけ早く起きて、髪を高めに結んだ。残りのページが三分の一ほどになったノートを持って、鞄にイヤホンを入れる。

先週なら朝食を急かされつつ、その日の予定をあれこれ聞かれていた時間。少し驚いた目でこちらを見ている両親に向けて「行ってきます」と叫ぶように声をかけてから家を出る。

 玄関の重いドアを閉じるとき、赤い椿の花が咲いた。

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【短編】椿、つらぬけり 錦木 圭 @kei-nishikigi

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