抹茶味の功罪

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抹茶味の功罪

 着慣れないTシャツに適当な黒いパンツを合わせ、どこかの球団ロゴの入ったキャップを被る。自室の姿見で全身を確認し、足りないものは無いか確認した。

 格好良く見えるだろうか。

 それでいて自分らしく見えるだろうか。

 最初で最後のデートだった。向こうの希望で少し離れた場所の山の上にある遊園地に行くことになっている。見晴らしが良く夜景が綺麗で、隠れた映えスポットとして一部の界隈では知られているらしい。けれど遊園地自体は昭和に作られて少し廃れていたし、交通の便も悪いからあまり客は多くない。そこが都合が良かった。客が多くない、ということが自分達には何より重要なことだった。

 時計を見上げるとそろそろ家を出ないといけない時間になっていた。開園時間の九時の少し前に現地集合だが、向こうの性格からして早く来るに違いない。あまり待たせるのも申し訳ないし、出来るだけ今日は長く一緒にいたいから、ボディバッグを肩に掛けて家を出た。

 初夏の日差しが肌を焼く。遊園地へ行くには絶好の天気だ。今日は日焼け止めを塗っていなかったから、帰る頃には焼けて黒くなるかもしれない。

 電車を二回乗り換えて、遊園地への直行バスに乗る。バスは三十分に一本出ているので、もしかしたら停留所で会うかもしれないと思っていたが、見回しても自分以外は家族連れとカップルが一組ずついるだけだった。

 バスに乗り込み二十分ほど蛇行した山道に揺られていく。遊園地の前で降ろされると、肌にヒヤリとした空気が触れた。山の空気は冷えるらしい。パーカーを羽織ってきた方が良かっただろうかとも思ったが、それはあまり自分らしく無いように思ったからこのままで良かったのだろう。

 辺りを見回すと、その人は入り口の柱の側にいた。初めて見た服装とは違い、黒いスキニーパンツに白地にピンクの可愛らしい小花が散った服を合わせていて、一目でデートなのだと分かる服装をしていた。それが自分のために着てくれているのだと思うと、なんとも堪らない気持ちになる。気持ちに任せて小走りで駆け寄ると、気付いたその人が嬉しそうにはにかんだ。胸が熱くなり、今日は楽しい日にしようと強く心に決める。

「すいません、待ちましたか?」

「ううん、全然」

「嘘はダメですよ。直行バスは三十分に一本しか出てないんですから」

 少なくとも三十分は待たせていたことになる。この人のことだから、一時間待っていたとしてもおかしくはない。

「楽しみにしてたから、こんなの誤差の内だよ。どうせ眠れなかったし」

「遠足の前は楽しみで眠れないタイプですか?」

「そんなところ」

 しばらく他愛のない話をしていると、開演まであと十分のところでリスやウサギの着ぐるみのキャラクターが出てきた。この園のキャラクターのようだ。ラッパのファンファーレが鳴り響き、音量を上げてマーチ調の楽しげな曲が流れ、着ぐるみは門の前で踊り始める。こちらの胸をワクワクとさせる演出に、隣を向けば同じく胸を踊らせて着ぐるみを見ている愛しい人がいた。その横顔を残しておきたくて、ポケットからスマートフォンを取り出す。カメラを起動してレンズを向けると、画面にはあまり乗り気では無さそうな表情が映る。

「写真、撮るの?」

「ダメですか?」

「うん、今日は……ね」

 目を伏せながら答えた言葉に、構えていたスマートフォンを下ろした。けれど浮かれていた自分の気持ちまでは、下ろせないでいる。だから『仕方ない』と自分に言い聞かせる。

「……そうですね。その方がいいのかもしれません」

 残るものがあると、あとで悲しくなりますもんね。

「遠いところまで来たな。こんな日が来るなんて思わなかった」

「僕も思わなかったです━━朝霧先生」

 この人は高校の先生だった。高校生の自分はそんな人とデートに来ている。絶対に人に見付かってはいけないから、今日はわざわざ遠い遊園地を選んだのだ。

「今は先生だなんて呼ばないで」

「下の名前で呼んでもいいですか?」

「友香って呼んでくれる?」

「分かりました、友香さん。じゃあ僕のこともまことって呼んでください」

「真くん、ね。敬語も出来たら止めて欲しいけど」

「すぐには難しいから、それは慣れたらということで」

 曲はクライマックスに差し掛かる。着ぐるみたちが迎え入れるように手を広げ、門が開いた。

「友香さん、行きましょう」

 友香さんの手に自分の手を絡めると、友香さんは目を見開いたあと照れたようにはにかんだ。小さく息を吐き、ゆっくりと握り返される。

 誰にも言えないデートが始まる。



 コーヒーカップ、メリーゴーランド、ゴーカート……一般的な遊園地にあるアトラクションは大体あって、目に付くものから乗っていく。ひとしきり楽しんで、少し休もうという話になり屋台に並ぶことにした。

 友香さんはメニューを見ようと背伸びをして屋台のメニューを見ていた。同じように背伸びをしてメニューを見る。園内に入ったときからキャラメルポップコーンの匂いが漂っていて、ずっとその口になっていたので買うとしよう。あとは飲み物……

「友香さんは決まりました?」

「私はタピオカにしようかな。メガサイズにしたらストローを二本差して二人で飲めるみたいだけど……?」

 メニューの横には目玉のメニューの写真があって、そこにはジョッキ程のカップにストロー二本が刺さったタピオカジュースが載っていた。

「メガサイズにしたいのは友香さんの方でしょう? どうせなんで頼みましょうよ」

「何味にする?」

「コーヒー好きですよね?」

「真くん、苦いの飲めたっけ? 私に合わせてもいいの?」

「大丈夫です。いけます」

 少し背伸びをした。そういう気分なのだ。

「いけるなら、コーヒー味にしようか」

「そうしましょう。……何かおかしなことあったら言って下さい」

「真は真のままでいいよ」

 呼ばれ慣れない名前がくすぐったい。ちゃっかり呼び捨てにしているところも憎い。こういうところが可愛いんだよな、と思わず頬が緩んだ。

 順番はすぐに回ってきて、予定していたものを購入する。

 屋外のテーブルとイスが空いていたので二人で隣り合って座った。

「いっぱい食べるんだね」

 友香さんがテーブルのメガサイズポップコーンを見て言った。お腹が減っていたし、友香さんも食べるだろうからとこの大きさにしたのだった。

「運動部はすぐにお腹が減るんですよ」

「野球部は大変?」

「練習はキツいけど、楽しいですよ」

 そして二人の真ん前にはメガサイズのタピオカジュース。どちらが先に口を付けるか、互いに様子を窺っている。

「のどが渇いたな」

 わざとらしく友香さんが言って、ストローに口を付ける。コーヒーよりも黒いタピオカが、ストローを上っていく。

「僕ものどが渇きました」

 なるべく自然な動作で、自分も目を伏せつつもう一本のストローに口を付ける。口の中に苦いコーヒー味が広がって、目線を上げれば数センチの距離に友香さんがいる。マスカラの乗ったくるんとした睫毛も、今なら何本あるか数えられそうだ。こんなに間近で先生を見られる日が来るなんて思ってもみなかった。

「……可愛い」

「……困らせること言って」

 今日だけだと分かっていても浮かれてしまう。むしろ今日だけだから、浮かれさせてほしい。

 先生の染まった頬に、勘違いさせてほしい。先生も同じように浮かれてますよね。この気持ちは同じものなんですよね。

「タピオカ、久々に飲んだけど美味しいね」

「美味しいですね」

 本当は味なんてもうあまり分かってはいなくて、口に入ってきたタピオカを惰性で噛んでいるだけだったけれど、あなたと飲む飲み物はなんだって美味しい。

 タピオカを飲み、もう少しで無くなるというところで園内マップをテーブルに広げる。

「あと乗ってないのは……」

「あれは?」

 友香さんが指差した先では、山になったレールの頂上に差し掛かったコースターがあった。

「ジェットコースター好きって言ってたよね?」

 年期の入ったコースターはギギギと不穏な後を立て、一気に滑り落ちていく。楽しんでるような怖がっているような悲鳴が遅れて聞こえた。

「あ……はい、僕はジェットコースターが好きです」

 えらく棒読みになってしまった。

「私もジェットコースター好きなんだよね! 飲み終わったら行こう?」

 タピオカを飲み終わり、ポップコーンを食べ終わり、ジェットコースターに列は出来ておらず、コースターが帰ってきたら前の人と交替するように乗り込む。座席のガチャンとどことなく安っぽいロックの音が恐怖を煽る。

 ……ヤバイ。



 数分後、グロッキーになった自分が完成した。胃の辺りが気持ち悪いし、平地にいるのにまだ足元がふわふわする。こうなるのは分かっていたけれど、乗ってしまった。友香さんがジェットコースターに乗りたがっていたし、ちょっと見栄を張りたかったのだ……。

「ごめんね、苦手だった?」

 ジェットコースターを降りてフリーズしていると、心配そうな顔で友香さんが私を覗き込む。

「こんなはずでは無かったんですけど……本当はあまり乗ったこと無くて」

「無理させちゃったかな。ちょっと座ろうか」

 ふらふらしたまま友香さんの手に引かれ、ベンチに座らされた。さすが先生というべきか、非常時の対応に異様に安心感があった。

 おかしい。手を引くのは自分のはずだったのに、どうしてこんなことに。

「帽子も取っちゃいなよ」

「いや、これはこのままで……」

「いいから」

 帽子を取られると、圧迫感が無くなって気持ち悪さもましになる。

「さっき食べたところだけど、何か欲しいものある?」

「冷たいもの……」

「ソフトクリームは食べれる?」

「いいですね。いけます」

「何味がいい?」

「ま、いやえっと……バニラ……」

『本日はご来園いただきありがとうございます。閉園時間は━━』

 園内放送が私の声をかき消した。友香さんはスピーカーの方を向き、放送が終わるのを待っていた。その横顔を見ながら、やっぱり好きだなと再確認する。

 顔が好きだけれど、見た目だけに惚れたわけではない。友香さんは顔や雰囲気にも性格が出ていて、ちょっとしたことにも気が付くし頼りになる。こんな人になりたいなと憧れたし、一緒にいるだけでこちらも優しくなれた。

 放送が終わるとこちらに向き直る。学校では付けられなさそうな、大ぶりの花とパールのピアスが揺れる。

「なんて言った?」

「……抹茶味が好きです」

 本音を伝えた。このくらい、いいだろう。

「抹茶味ね。ちょっと待ってて」

 友香さんは小走りにソフトクリームを買いに行った。

 申し訳ないことをしたな、と少しばかり自己嫌悪に陥る。休んだ後はちゃんとしないと。

 抹茶ソフトクリームを食べて体が冷えると、頭も幾分かスッキリして調子を取り戻してきた。

「もう大丈夫です。続き行きましょう、友香さん」

 帽子を被って、立ち上がる。座っている友香さんに手を差し出すと友香さんが手を重ね、それを自分は引っ張った。勢い余ってよろけた友香さんを抱き留めると、予想より軽くて小さくて花のような清楚な香りがした。見上げた友香さんと目が合い、二人で笑い合う。

 その後もアトラクションを楽しんでいると、だんだんと日が暮れてきた。

「最後はやっぱりあれですかね」

 指差したのは観覧車だった。映えスポットとして評判のいいこの遊園地の特等席はやはりあそこだろう。係員に誘導され観覧車に乗り込んだ。

 友香さんとは隣り合うように座る。窓からは今日乗ったアトラクションが見渡せて、色々な思い出が蘇ってくる。視線を遠くに移せば、街が一望出来て遠くの方には高校も見えた。だんだんと街の明かりが点き始めていて、観覧車を下りる頃には真っ暗になっていることだろう。

 頂上に差し掛かったとき、友香さんの手に自らの手を乗せる。今日一日、ずっと繋いでいたから大きさを覚えた手だった。自分よりも少し小さくて、少し体温が低い。友香さんには、自分の手がいつも少し温かいと思ってくれているといいなと思う。

 友香さんが重ねた手を見て、掬うように目線が上がる。同じ高さの目が合った。夕暮れの観覧車はオレンジ色と影の色で出来ていて、斜めに差し込む光の陰影で友香さんの顔も彩られる。愛しい人だ。今日一日のことが頭に駆け巡り胸がいっぱいになって、顔を近付けた━━けれど。

「嬉しいけど、ダメ」

 友香さんは胸を押して拒否をした。キスをする雰囲気に、負けてはくれなかった。

「ダメですか? 今日しか無いのに」

「それはね、ダメだよ」

「僕はしたいです」

「私もしたいけど、さ」

 悲しげな表情で目を伏せると、友香さんの顔も影に沈む。こんな顔をさせるために今日はデートに誘った訳じゃないから、自分も潔く引き下がることにする。

 友香さんは顔を背けるように窓を向く。遠くなった距離が切なくて、存在を確認するように手を強く握る。そしたら友香さんも強く握ってくれて、友香さんももどかしいのだろうなということが分かって、なんかもう、いいやと思った。この景色を一緒に見れただけで。

 観覧車を下り、お土産屋さんに寄る。店内を一周している途中に目に止まったのは、この遊園地の開園前に入り口で踊っていたリスのキャラクターのストラップだった。かわいい。

「こういうのが好きなの?」

 立ち止まって見ていると、背後から声が掛かる。

「あ、いや、これは」

 口ごもると、何かを察したように微笑んだ。

「買ってあげる」

「いいんですか?」

「今日一日付き合ってくれたから。レジしてくるね」

 持っていたカゴにストラップを入れて、友香さんはレジへと向かった。

 行きと同じ門を抜けて遊園地を出る。バス停には自分達しかいなかった。

「これ、さっきのストラップ。それと残るものはあげられないなと思って、良かったらこっちは家族で食べて」

 その言葉の意図に、胸が痛んでしまった。本当に、この人は優しいんだから。それを無下にする私は、なんて浅ましいのだろう。嘘を吐いた訳でもないのに、あまりに後ろめたい。

 ストラップと一緒に貰ったのは、抹茶味のクッキーだった。

「友香さん、やっぱり最初で最後なんだからやりたいこと全部やりましょうよ」

 だから意を決して言ってみる。バスもまだしばらくは来なさそうだし、見回しても人はいない。友香さんと向かい合い、腰に手を回して引き寄せる。

「いいの?」

「こういうのは出来るところまでやりきってこそだよ」

 強気なことを言ってみた。心臓は早鐘を打っていて、ドキドキし過ぎて頭はクラクラしていたし、手は震えている。引き寄せた腕も立っている足も震えている。友香さんは躊躇っていたけれど、心を決めたのかこちらを見上げて答えるように背に腕を回した。

「じゃあ、しようか」

 友香さんは目を閉じる。顔を傾けて、その唇にキスをした。

 これで、これで、もう終わりなんだ。

 最初で最後のデートが終わる。

 離れると、濡れた唇に触れる風が冷たくて、まだ目の前にいるのに距離を感じた。

 あまりの寂しさにもう一度を願ったけれど、友香さんの方が先に腕を下ろした。そうなれば、私もこの可愛くて愛しい人から手を離すしか無いんだ。そういう約束だから。悲しませたくもないから。

 友香さんはくすりと笑った。今にも泣きそうな顔で笑った。その顔はどこか清々しくもあった。

「……実ちゃんはいい子ね。途中もたまに背伸びしてくれたでしょう?」

「……兄の方が少し背が高いので。気付かれると恥ずかしいですね」

 踵を地面に付けると、目線がほぼ同じになった。今日一日限りの魔法が解ける。『僕』ではない『私』に戻っていく。

「今日は私のワガママに付き合ってくれてありがとうね。真くんとデートした気分になれて本当に楽しかった」

「提案したのはこちらですから。私も楽しかったです」

 今日は私が双子の兄の代わりになって、朝霧先生が恋を諦めるためのデートだったのだ。


 朝霧先生は兄の通う高校の先生だった。数ヶ月前まで私たちに面識は無かったのだ。

「真くん、昨日はごめん。先生が生徒に好意を持ってるなんて気持ち悪いよね。有り得ないって言われたのも仕方ないと思ってる。先生失格だもん。『黙っとくから関わらないで』とも言ってたけど、諦めてちゃんと先生として振る舞うから、月曜日からはこれまで通り接してくれる?」

「……えっと」

 土曜日に買い物に市内へ出たら、何やら大変可愛らしい女性が今にも泣き出してしまいそうな表情で頭を下げている。知らない人ではあった。けれどその言葉で何があったのかの大体の事情は察せられた。

 この人は先生で、私を双子の兄だと勘違いしている。そして先生という立場にも拘わらず兄に恋をしてしまって、昨日告白をして、そして玉砕したのだと。

 そういえば昨日兄が家に帰って来たとき異様に疲れていて、好きな球団が出ている野球の試合も見ずに早々に寝ていたっけ。珍しいと思っていたら、そんなことがあったのか。

 答えに戸惑っていると、目の前の女性は違和感に顔を上げ、私と目が合った。兄の振りをして答えるのは内容からして出来ないから、いっそ聞かなかったことにしてあげようと思い曖昧に笑う。たまにこういうことは起きていた。二卵性なのに兄と私はよく似ていて、街中で間違われることがたまにあった。特に今日は髪をくくって兄に借りた帽子を被っていたし、用事を済ますだけだからとTシャツにカーゴパンツというラフな格好をしていたから、間違っても仕方ないだろう。

 こんなときはやんわりと訂正して互いに何もなかったことにして去ってしまうに限る。

「あ……もしかして、真くんの双子の妹さん……!?」

 私が兄ではないことに気付いた先生の顔はみるみるうちに赤くなっていく。

「ごめんなさい、ごめんなさい! 私は本当におっちょこちょいで……これだから……」

 狼狽えて、今にも泣きそうな声になり自分を責める言葉に変わっていく。そりゃあそうだろう、よりにもよって事情を知らない妹に全て話してしまったのだから。しかもただでさえフラれたところで傷心の身だ。精神的にかなり辛いに違いない。

 だからか、先生という立場であるはずなのに、私の目には一人の女性としてしか映らなかった。恋をする一人の人としてしか。

「私は兄の妹のみのりです。良かったら、そこのカフェにでも入りませんか?」

 このまま放っておけなかったから、私はそう提案した。

「ブラックコーヒー一つ、実ちゃんは何が良い?」

「私もコーヒーをお願いします」

 店に入り簡単な自己紹介をお互いにしたところで店員が来たから、ひとまず飲み物を注文する。少し落ち着いて余裕が出たのか、対応が大人っぽくなった。しばらくするとコーヒーがテーブルに並べられ、私たちはそれを口に含む。

「兄のどこが良かったんですか?」

「そこ、聞くの?」

「気になるじゃないですか。野球バカな兄が、人からはどう見られてるのかなって。ここは女子同士の恋ばなと思って」

 この時はほとんど興味本位で聞いたのだ。共通の話題は兄だけだったし、話して楽になるところもあるだろうから。

「それならまぁ、少しだけ。私は野球部の副顧問でね、顧問がいないときの代理を務めるんだけど、練習メニューは決められているから私は基本的に見守ってるだけなのね。練習中、真くんは他の人のことをいつも気にかけてて、応援するみたいに背を叩くの。視野が広いんだなって思ってた。

あるとき休憩時間になったときふと目が合って『寝不足ですか?』って聞かれて。確かにその日は前日にテストの丸付けをしてて寝るのが遅かったんだけど、クマはコンシーラーで隠してたし心配をかけるわけにもいかないからいつも通り振る舞ってたんだ。なのになんで気付いたのか聞いたら『いつもより少しボーッとしてるから』だって。その後『寝不足のときは熱中症になりやすいので』って給水タンクのお茶まで渡してくれたの。ほんと、よく見てるし優しいよね」

「……兄のことが本当に好きなんですね」

 いいな、と思った。こんな素敵な人に愛されている兄が羨ましいと思った。

 同時に、このままではダメだと思った。出会ったときに可愛らしい人だとは思ったけれど、兄以上にこの人も人のことをちゃんと見ている人だ。それになんて一途なんだろう。

 ━━こんなの、好きになってしまう。恋するその目が、こっちを向いてほしいと願ってしまう。

「諦めないといけないけど、すぐには気持ちまでは諦めきれなくてね。困ったな」

「じゃあ諦めるためにデートしませんか?」

 提案には、正直なところ邪な気持ちはあったのだ。兄と同じ顔なのだから、私にも可能性はあるのでは無いかと思って。

「え、いや、それは実ちゃんに悪いし……」

「けどこのままじゃ諦めきれないんでしょう? 私も楽しいし、Win-Winですよ」

「全然Win-Winじゃないような」

「このまま兄に平然と顔を会わせられますか?」

「それは……なんとかする。先生だし」

「先生かもしれないけど、一人の人でもあるんですよ? デートしましょう」

 それからも渋る友香さんを私は説得し続ける。

「じゃあ、お願いしようかな」

 そしてなんとかその言葉を引き出して、連絡先を交換した。

 とはいえ、話はそううまくは行かない。

「私じゃダメですか?」

 カフェの帰り際に言ってみたんだ。真剣に聞くのも恥ずかしかったから、少し冗談めかして。

「優しいね。けど実ちゃんは女の子でしょう?」

 その言葉で、私の恋も呆気なく終わったのだった。

 私たちの恋は叶わない。

 先生と生徒は恋をしてはいけない。

 男が好きな人は女を好きにはならない。

 兄と私は同じ顔だから、余計に悔しさが募ってしまう。

 帰り道、どうしようもなくて胸が詰まって目に涙が浮かんだ。恋をして、数時間も経たずに散ってしまった。

 そのままの目線で私を見て欲しかった。


「今日は本当にありがとうね。いい思い出が出来た。これで諦められそう。あの日、実ちゃんに会えて良かった」

 こうして私たちのデートは終わったのだった。

「ところで、なんで遊園地だったんですか?」

「前に遠足で行って楽しそうだったから、自分も一緒に回りたくて」

 それで兄がジェットコースターが好きだということを知っていたのか。そこに関しては、兄らしい振る舞いを出来なくて本当に申し訳なかった。

 遠くからエンジンの音が聞こえて、帰りのバスが坂を登ってやってきた。

「私は次のバスに乗るね。もう少しだけ余韻に浸ってから帰る。実ちゃん、元気でね」


 家に帰ったら、部活帰りでパーカー姿の兄が野球中継を観ていた。ご贔屓にしている、今日被っていたキャップのロゴの球団だった。

「ただいま。日差し強かったからキャップ借りてた」

 帽子を取り縛っていた髪ゴムも外して頭を振ると、蒸されていた頭がスッと冷えて軽くなった。

 そのまま力任せに兄の頭に被せると「んあー」と変な声が上がる。被り直してこちらを見上げた顔は浅黒く焼けていた。

「ちゃんと部屋に戻してくれよ」

「面倒臭い」

 テレビからカキーンという爽快な音と歓声が上がる。兄はテレビに向き直り、テレビの中の観客と一緒に万歳していた。逆転満塁ホームランだったようだ。

「まぁいいか、野球観てたとこだったし」

 夢中になっている兄の視界に私は入っていない。楽しそうなところを邪魔するつもりもないので、用事だけさっさと済ませてしまおう。

「これ食べていいよ」

「おっ、お土産!?」

 友香さんから預かったお土産を兄の視界に入るようにテーブルに置いた。

 けれど私は兄の嬉しさを裏切ることを知っている。同時に友香さんの優しさも裏切ることも知っている。

 箱を見た兄が不思議そうに首を傾げた。

「抹茶味が好きなのは実だろ? 自分用に買ってきたなら実が食べな」

「一個くらいどう?」

「遠慮しとくよ。苦いもの苦手だし」

「お菓子の抹茶味は苦くないと思うんだけど」

「なんかこう、お茶の風味が苦いんだよ」

 そっか、と強く勧めることもなく私はテーブルに置いた箱を再度手に取る。兄はどうやったってこれを食べることはないだろう。

 自分の部屋へと向かい、友香さんから貰った小さな包みを開ける。出てきたマスコットを目の前に吊り下げると、自然と口角が上がった。かわいいリスのキャラクターは、きっと見る度に楽しかった今日のことを思い出させてくれるだろう。

 お土産屋さんで見ていたとき、友香さんはこれが私が好きなものだということを察してくれた。こんなの兄は絶対に好きじゃない。あのときだけは、私のことを見てくれたし、これだけは私にくれた贈り物だ。

 そして手元にはもう一つ、抹茶味のお菓子がある。先生が兄のために買ったはずのもの。欲が出て私が自分の好きなものを言ってしまったせいで、兄が食べられないもの。

 ━━両方とも私のものだ。ごめんなさい。嬉しいのに悲しい。なんて、浅ましい。

 日焼け止めを塗っていなかった肌は赤くなっていて、兄のように黒くなることも無かった。ヒリヒリとした痛みを堪えながら、少ししょっぱい抹茶クッキーを頬張った。

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