子爵令嬢ジョセフィーヌの婚約

黒中光

第1話

 王立公園に向かう馬車の中。窓ガラスに姿を映しながら、ジョセフィーヌは銀の長髪についた癖を取ろうと何度も手で撫でつけていた。


「お嬢様、そのようにしてはせっかくの髪が乱れます。それに些細な事に気を遣いすぎるよりも堂々と振る舞っていた方が遥かに見栄えもよろしいかと。その方が自ずと道が開けていくものです」

「今日は婚約者と会う初めての日なのよ。良い印象を持って貰いたいのは当然ではないの」


 自然体が一番なんて言うのは、美人だけにしか成立しないのだから。

 ガラスに見入るフリをして、向かいに座ったメイドの姿を盗み見る。

 黒のロングスカートに白のエプロンドレース。シックな装いに似合った艶のある黒髪が肩口で揺れている。目鼻が整っていて、子爵令嬢のジョセフィーヌよりも華がある。

 美人でよく気がつき、忠言は常に真っ当。頼りになることは間違いないのだが、完璧すぎる侍女をジョセフィーヌは敬遠していた。


「婚約されたカイン様とお会いしたことはないのですか」

「ないわ。夜会で姿をお見かけしたことがあるだけ。私では本来相手にされないもの」


 有能で公爵という身分を持ったカインと下級貴族の令嬢が婚約に至ったのは双方の持つ魔法のせいだ。ジョセフィーヌには水魔法、カインには風魔法がそれぞれ宿っている。魔法使いという貴重な血を残すためとして、国が主導し本人達のあずかり知らぬところで決まってしまった。

 とは言え、カインは家柄・能力・ルックス三拍子揃っており、貴族令嬢は皆彼を射止めようと奔走していただけに、ジョセフィーヌはこの婚約が嬉しくて堪らない。


 ところが、待ち合わせの月桂樹の下にいたのは、カインに仕えているという老齢の執事であった。

 彼から手紙を受け取り、中身を読む。

「国王直々の命を受けたのですって。凄いわ」

「待ち合わせをレストラン・ジュノに変更したい、とありますが」

「ジュノは首都で一番人気のお店よ。大商人や上流貴族しか入れないようなお店」


 ジョセフィーヌは噂で聞いただけで入ったことは一度もない。憧れの場所での逢瀬に白い頬が上気していた。

 馬車は既に帰していたので、二人は歩いて行くことにした。すると、王立公園の出口に、少年がうずくまっているのが見えた。

 全身が赤く、息は荒い。病人だ。座る気力もないのか、柵にもたれかかっている。

 リズが一歩踏み出す。


「助けましょう」

「離れるのよ」


 ジョセフィーヌは彼女の袖を掴んで引き留める。


「どうしてですか。あんなに辛そうなのに。死んでしまいますよ」

「でも、普通はそうするじゃない」


 病気を移されれば、後遺症が残るかもしれない、死ぬかもしれない。それを家族や友人に広めてしまうかもしれない。

 だから、病人を見つけたらすぐにその場を離れる。貴族も庶民も関係ない、常識だ。


「見捨てるんですか」

「私には、家名があるの。常識外れな真似をするわけには行かないわ」


 若い貴族の間には教育係から皆が教え込まれるエピソードがある。「オルランドの醜態」。ある男爵令嬢が社交界デビューした際の一件。彼女は話題も豊富でウィットに富んだ受け答えで、招待客に好印象を与えた。しかし、さる公爵に話しかけた際、うっかり仲介者による紹介を忘れてしまった。そのため、この令嬢は「常識がない」とのレッテルを貼られ、途端に全ての貴族から冷遇された。

 下級貴族にとって、名誉とは唯一の生命線。それを失ったオルランド男爵は没落し、人知れず破産したと聞く。

 ジョセフィーヌの父、エリストル子爵も内実は単なる役人。信用を失えば破滅は免れない。

 世間から見れば地味かもしれないが、先祖代々守ってきた名誉。ジョセフィーヌはリズの袖をもう一度引っ張る。


 視線を感じた。ジョセフィーヌが顔を上げると、少年が赤い顔を二人に向けていたた。

 熱に浮かされてはいたが、見捨てられる寂しさと疲れ切った諦めがにじみ出ていた。

 身体が固まる。ジョセフィーヌは似た目を見たことがあった。それは鏡に映っていた。

 公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵。五つの爵位の家、下から二番目。顔立ちも地味で気の利いた話題もない。そんな彼女はパーティーに出ても中心になることはない。

 輪の端で愛想笑いを浮かべるしかできない。人々の中に入りたくても、決して入れないもどかしさ。

 そのジリジリと焼くような苦しみは知っているのに。どうして自分が同じ目に遭わせようとしているのか。ジョセフィーヌは自分自身がまるで知らない他人のように思えて怖くなった。


「行って」

「お嬢様?」

「良いから、行って」


 リズの背中を押す。メイドは一瞬立ち止まったが、構わず、少年に向かって走る。これで良い。今は顔を見られたくない。


『消え去れ、病魔。陽に照らされし影の如く』


 リズの光魔法。病魔を打ち砕く右手が輝く。それは主人の水魔法よりも珍しく、ジョセフィーヌはこれまで面白くないと感じていたが、今日は助かったと心から思う。

 助けられた少年は赤みも取れてすっかり元気になり、二人を道案内してくれることになった。


「今日は祭りなんだ」


 広場には石畳が見えないくらいに人であふれかえり、露天からは活気のある呼び声が入り乱れる。

 少年の家は宝石商だった。子供から事情を聞かされた親は「お礼に好きなものを持って行って欲しい」とリズを捕まえて離さなかった。

 勢いに押される形で彼女が選んだのは、アクアマリンのネックレス。細身の鎖に、青く透き通った宝石が煌めく。


「どうぞ、お嬢様」


 店が見えなくなった途端、リズがネックレスを差し出してきた。


「貴方が貰ったものでしょう?」

「ですが、わたしに着ける機会はありませんから。それより、お嬢様に身につけていただいた方が喜びます」


 リズは平然とした表情で、惜しいと思っているような気配は微塵もない。

 ジョセフィーヌは手を伸ばし、受け取った。リズがそのネックレスを選んだとき、あまりにも素敵で羨ましかったのだ。


「ありがとう」

「喜んでいただけて何よりです」


 ネックレスを着けて小川に姿を映し出し、歓声を上げる主人を侍女は微笑ましく見ていた。

 これまで、小うるさい完璧超人だと思っていた侍女が見せた柔らかな表情に、ジョセフィーヌは見蕩れてしまった。


「お礼をするわ。貴方、リンゴが好きよね」


 香ばしい匂いをさせる出店でアップルパイを買う。おっかなびっくりな手つきで代金を支払うと、焼き菓子を持ってメイドに手渡す。薄い紙で包まれたパイは火傷しそうなほど熱い。


「お嬢様、わたしだけ食するというのは」

「私はこの後、レストランだから。気にせずに。貴方へのお礼だから」


 諫言はしても、リズは主従の線引きをきっちりと引く人間。躊躇っていたが、買ってしまったものはどうにもできない。何度も無礼を詫びながら、パイを口にした。

 サクリと言う音と共に、甘酸っぱい香りが漂う。見ているだけで食欲をそそられる。

 リズは無言だったが、ほころんだ口元が彼女の気持ちを示している。パイはすぐになくなってしまった。


 人混みを掻き分けながら、店の商品を眺めて回る。艶のある黄色や赤色の果物。緻密な刺繍を施した反物。露店の品は見るだけでも飽きない。出歩く機会の少ないジョセフィーヌには全てが新鮮。


「お嬢様、今日は少し大胆ですね」

「この雰囲気のせいかしら」


 誰も彼もが浮かれ騒ぎ、笑い合う。マナーがなっていないところはあるが、誰も気にしていない。自由で朗らかな空気に満ちている。毎日礼儀作法に縛られているジョセフィーヌにとっては、楽しくて仕方がない。解放された気分。

 広場の端に楽団がいた。アコーディオンにヴァイオリン、フルート。キラキラした音。

 陽気なリズムに乗って令嬢は歌い出す。


「エルデの河に陽が煌めき。新芽は萌え出て、町を染める。若人よ、輝き楽しめ。笑い愛し合え。クライズンの霊峰が我らを見下ろす――」


 声と音が混じり合う感覚に恍惚とする。曲が終わってしまうのが惜しいくらい。


「お上手です。お嬢様」


 リズが拍手してくれる。ジョセフィーヌの前には籠が置かれていて、中には小銭が山となっていた。


「これは?」


「投げ銭です。芸事がお上手な方にお金を渡すのです。明るいお召し物ですから、歌姫と間違えられたのでしょう」


 ジョセフィーヌにとって、歌は自分の無聊を慰めるための物でしかなかった。それが人に認められたことは望外の喜びだった。他人に比べ、秀でたところなどないと思っていたのに。見知らぬ誰かが褒めてくれる。それは心を熱くさせるものだった。


 ジュノは石造りの歴史を感じさせる建物。そのホールで婚約者カインは待っていた。


「初めまして。カイン・ノーストです」

「ジョセフィーヌ・エリストルです」


 カインは金髪で背の高い男だった。緑の目は自信に満ちている。端正な美貌を前にして、ジョセフィーヌは自分の挨拶がぎこちなくなったことが恥ずかしくなった。

 ジュノのテーブルが立ち並ぶエリアには大きな窓があり、先ほど歌にあったエルデ河の雄大な流れが一望できた。

 ジョセフィーヌ達は、鷲の絵の下にあるテーブルに案内される。


「待て、なぜ窓際ではないんだ。せっかくの景色がみえんだろう」

「お生憎、窓際は埋まっておりまして」

「ならば動かせば良い」


 狼狽えるボーイに噛みつき、カインがまっすぐに指さしたのは老夫婦が座ったテーブルだった。


「あの者は平民だろう。移らせろ」


 そして、返事も待たずに本人がズカズカと席に近づく。

 しかし、夫婦は「老後の唯一の楽しみを取らないでくれ」と抗議する。

 反駁されたことに対して、カインは露骨に顔をしかめる。


「お前達は、誰のおかげで安全に安楽に暮らせると思っている。我ら貴族がまつりごとに国防に働いているおかげであろうが。その恩を理解していれば、自ら譲るのが本当だというのに」


 高圧的な態度で迫られた老夫婦は小さくなって顔を青ざめさせている。このように傲慢な態度をジョセフィーヌは見たことがない。特権階級の醜悪な自尊心の姿。


「お待ちください。この方達に罪などないのですから。楽しく食事をしていただいて良いでがありませんか」

「ジョセフィーヌ。我々は貴族です。特権が認められており、敬われるべき存在です。我々と庶民は対等ではない。対等であってはならないのです。これは正当な権利を主張しているだけなのですよ」


 彼は真剣な目で力説する。心底からこの横暴が正しいと信じているのだ。自分とはあまりにも異質でジョセフィーヌは怖くなった。

 誰か味方を見つけようと、周囲を見渡す。すると、ささやき声が聞こえてきた。


「ノースト公爵と言えば王城付魔法使いだろう。そんな人に刃向かうとは」

「大体、何が不満なの? 席を譲って貰うだけじゃない」

「貴族でありながら貴族のあり方を否定するような物言いは、いかんなあ」


 老若男女、全員がカインを支持していた。どうしてこんな理不尽を平然と見過ごせるのだろう。

 リズを見る。彼女だけは、ジョセフィーヌの味方をしてくれるはずだ。

 しかし、先に侍女に声を掛けたのは公爵だった。


「リーズロット・オルランドか。装いがあまりに違うので気付かなかったが。そうか。エリストル子爵の元に紛れ込んでいたのか。己の非常識で自家を没落させるだけではなく、他家にまで広めるとは。ご令嬢の物言いにも納得だ」


 リズの顔はこわばり、身体は小刻みに震えていた。その姿は、この罵倒が真実であることを雄弁に物語っていた。


「オルランドの醜態」。貴族達にとって反面教師として伝えられてきた逸話。その張本人がリズ。没落した後、生きるために使用人となったのだろう。

 ジョセフィーヌは彼女の素性を知らなかった。行動を共にし、教育係でもあったというのに。

 彼女はずっと自分を騙し続けていたのか。知られればクビになってしまうと恐れたのか。そんなにも信用されていなかったのか。

 リズはいつも的確な助言をくれる侍女だった。所作も物腰も丁寧で控えめで。それらも全部仮面だったのか。


「あれがオルランド男爵令嬢か」

「雇う方もどうかしてるんじゃない?」

「身元を調べなかったのかね?」


 好奇心と揶揄に満ちた声が広いレストランに満ちていく。

「常識」外れの言動で冷遇される。この様は「オルランドの醜態」そのものではないか。リズが自分にその種を植え付けたのではないか?


「可哀想に、ジョセフィーヌ。毒されてしまったのですね」


 甘い目でカインは令嬢の髪に触れる。

 この言葉に従えば。エリストル家は助かる。そんな考えが浮かぶ。

 父エリストル子爵は寝る間も惜しんで、細かな仕事や小さな領地の管理で毎日働きずくめ。その努力を無にしなくて済む。

「私は何も知らなかった。メイドによって非常識な振舞をすり込まれた」と言えば。きっと皆は被害者であるジョセフィーヌに同情するだろう……。


 口を開く。


 アップルパイを食べるリズを思い出す。無邪気で楽しそうだった。その表情に堪らなく悲しくなる。


 触れられた手を払いのけていた。


 驚くカインに素早く告げる。


「この婚約、取り消させていただきます」

「何?」

「彼女は私のメイドです。それに対するこのような不愉快な振舞い。容認するわけには参りません」


 カインは薄笑いを浮かべる。真剣に目を吊り上げるジョセフィーヌを、単なる無知な小娘と侮っている。


「この婚約は国が進めたもの、両家の面子もある。貴方の一存で決められるわけではないのですよ」

「もしこの婚約を進めるというのであれば、私は家を出ます。身分を捨てて、歌でも唄って生きましょう」


 貴族とは人の上に立って生活している。故に、自力で社会を生き抜くことには誰しも大きな不安を持つ。それを辞さないとの宣言は、彼女の決意の強さを伺わせた。

 そして、それほどまでに強く拒絶されたことはカインのプライドに大きく傷を付けた。誰もが羨む家柄に、天才と呼ばれた魔法の才。他人は彼に阿るばかりで刃向かわれたことはなかった。

 彼は怒りを呑み込むということを知らなかった。


「このような侮辱。公爵家の者として、見過ごすわけにはいきませんね」


 閉め切られたレストランに風が逆巻く。カインは酷薄な笑みを浮かべ、ジョセフィーヌへと気怠げに指を向ける。


『風刃よ。罪人へ罰を与えよ』


 風の剣が令嬢へと向かう。


『大波よ――』


 ジョセフィーヌの命に従い、水壁が出現する。それは人よりも高く、風をあっさりと受け止める。

 胸元のアクアマリンが青い光を放つ。その意味は「海水」。主の水魔法をかつてない規模に高める。ジョセフィーヌは自分の両手が熱く、魔力の奔流を感じた。


『心汚れし者を押し流せ』


 大波は慄くカインを呑み込むと、ガラスを突き破りエルデ河まで悲鳴ごと押し流していった。

 その圧倒的な力を前に皆が沈黙する。

 カインは魔法使いとしては最高の「王城付魔法使い」という称号にあった。これは王直属の家臣であり、大臣に匹敵する権威がある。

 それをジョセフィーヌは簡単に打ち破った。こうなれば、彼女が次にその座を射止めるのではと皆が考える。悪し様に評しようという無謀はいない。

 ジョセフィーヌは騒ぎに関して丁重に謝罪をしてジュノを後にする。

 日も暮れて、人通りが少ない中メイドが声をかける。


「先ほどは庇い立てくださり、感謝申し上げます。ですが、わたしは本日限りでお暇をいただきたく思います」

「どうして?」


 ジョセフィーヌは、自分でも気付いていなかった力を見つけて、その魔法さえあれば何だってできそうな気がしていた。

 けれど、冷静な侍女はそれを否定する。


「今は表だって批判する人間はいないでしょう。しかし、わたしは上流社会の中で不徳の象徴のように扱われています。それを留め置いては、エリストル家の評判に悪影響が出るでしょう。それは避けねばなりません」


 冷静で忠実。まさに使用人の鏡。ジョセフィーヌがよく知る完璧超人の答えだった。

 その裏にはどのような感情があるのだろう。没落し家族がバラバラになる悲惨さはジョセフィーヌには想像できない。それをやり過ごしてリズは今の日常を手に入れていたはずだ。慎ましくも平穏な日常。それを自分から捨てるという選択が辛くないはずがない。

 肩を揺さぶりたい気持ちを堪える。


「そんなことは嫌」

「必要なことです」

「嫌よ。貴方一人に全部押しつけるような。私は、皆でただ気楽に仲良くしていたいの。皆で、よ。誰かを踏み台になんてしたくないの」


 メイドの手を強く握る。リズが引き抜こうとしても、離さない。


「貴方は今まで通りにして頂戴。命令よ」


使用人は主に従わなければならない。それを言い訳にしてくれれば良い。 周囲からなんと言われても。


「――かしこまりました」


 いつものまっすぐな声が震えていた。その時の表情は、主だけが知っていれば良い。

 暗くなり始めた道を並んで歩く。足は自然と広場に向いていた。


「夜になればお祭りも終わりかしら」

「いえ。むしろ夜の方がさらに活気に満ちています」

「行ってみましょう。せっかくの外出だもの。目一杯楽しみたいわ」


 ジョセフィーヌがその場でくるりと回ると、黄色いドレスがひまわりのように広がる。


「お召し物が汚れてしまうかもしれませんよ」

「誰も気にしないわよ。そんなこと」


 お腹いっぱいになるまでの楽しみが広場で待っているはずだ。珍しい物に美味しい物。今までの籠の鳥ではいられない。

 顔を見合わせた二人は、弾む足取りで賑わいの中に消えた。

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