無限の一

香久山 ゆみ

無限の一

 学生時代からの友人である絵理子に誘われて、百貨店で催された展覧会へと足を運んだ。美学科を卒業し現在画廊に勤める彼女がチケットを手に入れたのだ。

 九階の催事場に着くと、なかなかに大きな展覧会のようだ。『大山雅武 絵画展』の看板が出ている。絵理子いわく、この絵画展の作者・大山雅武氏は、「現代の大家」だそうだ。

 入口には展覧会の概要とともに、作者近影のパネルがでかでかと掲げられている。確かに大家というにふさわしく、着物姿の老人が厳しい顔をして写っている。展示されている絵も、墨絵の風景画が多く、重厚な雰囲気を醸している。いわく、「日本画の技法で西洋絵画を表現している」のだそうだ。凡人の私にはよく分からないけれど。

 展示場を進むと、一際大きな展示室が広がった。正面の壁面に、一枚の大きな絵が飾られている。

「……いち?」

 私は思わず首を傾げた。

 黒い額縁に収められた大きな白いキャンバスには、漆黒の墨で横一文字に、ただ一本の線が引かれている。それだけ。

 絵理子は、絵の脇に掛けられた解説プレートを一瞥した。

 ――無題。

「ふむ、なるほどね」

 隣に立つ彼女は一人合点して頷くと、一人言のように呟いた。

「これは地平線を描いているのね。大地と、宇宙と。どちらも表現に難い程の深遠さを持つけれど、それを見事に画面いっぱいに表現している……」

 絵理子の解説を耳にして、なるほどそういうものかと思うけれど、一方で、やっぱり「一」にしか見えないんだけれどなあとも思う。

 一通り観て回った後、絵理子はがさがさとパンフレットを広げ、もう一度じっくり観たい絵があるからと、また入口の方へと戻って行ってしまった。もう十分に飽きてしまった私は、集合場所にした「無題」の「一」の前でぼんやりと時間を潰す。

 平日の昼間のせいか、上品な感じのご婦人が多い。そんな中に、小柄な老爺がいたので、自然と目に付いた。いや、目に付いたのは、性別のせいだけではなく、老爺があまり似つかわしくない、ポロシャツにジーンズという出で立ちだったせいかもしれない。老爺はじっくり絵を見るでもなく、会場をぶらぶら歩き回り、絵を観る人の様子を眺めているようでもある。なんとなく目で追いかけていると、老爺もこちらに気づいたようで、私の方に近づいてきた。

「どうですか?」

 老爺はにこにこと微笑みながら、「一」の絵を眺めて私に尋ねた。

「うーん、そうですね。私こういうのには疎いので……、友人はこれは地平線だと言ったのだけれど、私にはどうしても数字の一にしか見えないんです。でも、とても力強い、立派な一だと思うわ」

「そうですか」

 私がしどろもどろに答えた隣で老爺はにこにこしている。その顔に、ふと、どこかで彼に会ったような気がして、私は記憶を手繰った。むむ、思い出せない。知り合いではないと思うんだけれど。私が首を捻っていると老爺が言葉を継いだ。

「あなたは実直な人のようですね」

「あ、ありがとうございます。おじいさんはこの絵をどのようにご覧になりますか」

「さあ、どうでしょう」

 老爺は答えず楽しそうに微笑んだ。

 と、展示室に親子連れが入ってきた。小さな男の子はこの絵を見るや、絵を指差して大きな声で叫んだ。

「ねえ、おかあさん。お日さまだー」

 大声に驚いて、思わず少年を振り返る。お日さま? 地平線ということかしら。少年は母親に口を塞がれて、そのまま展示室から出て行ってしまった。視線を返すと、いつの間にか老爺も姿を消していた。代わりに、絵理子が戻ってきた。

「さすが子どもは発想が面白いわね」

「お日さま?」

「そう」

「地平線ということかしら」

 私が眉根を寄せると、絵理子は呆れたような表情をした。

「やだ、分かんないの。あんたも頭が固いわねえ」

 ほら、と言って、絵理子は宙で黒い線をなぞった。額縁と横線……、なるほど、お日さまだ。感心して、思わず大きく嘆息した。

「結局、なんだかよく分からないけれど、線一本でこんなにいろいろ想像するなんて、人間ってすごいわね。この絵ってすごいわね」

「そうよ。シンプルにして深淵。すごいでしょ」

 絵理子が楽しそうに笑った。

 なんとなしに満足し展覧会を後にして、入口の前を通った時、思わず声を上げてしまった。振り返る絵理子をよそに、私は作者近影をまじまじと見上げる。――こんな厳つい老人が、あんな優しそうに笑うだなんて、とても同一人物だとは思えないわ。まさに深淵。

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