夏鳴る夜に会いましょう
真田
*
人は孤独だ。
今年の春に、鈴夏は女子高生になった。
それとほぼ同時に、近所の飲食店でアルバイトを始めた。
鈴夏の家は母子家庭だ。母はほとんど家にいない。いつも仕事に行っているか、そうでない時は彼氏とどこかに行っている。
時々母は、鈴夏の昼食代や夕食代を置いていくのを忘れて出かけてしまう。
腹が減るのは辛いし、食べ物だけでなく服や小物も買いたいと思うと、バイトするしかなかった。
学校の友達は上辺だけで中身のない会話しかしない。バイト仲間は学校を辞めてタバコを吸えと勧めてくるけれど、鈴夏の事情を探ったりはしない。
重くてめんどくさい鈴夏の心の中なんて誰も知りたくないのだ。
人は生まれた瞬間から一人だし、きっと死ぬまで一人なのだろう。
夏休みの八月。
バイト先の主任が、五日間のお盆休みを取るという。
その間嫌われ者の店長が店を仕切るというので、バイト仲間は皆愚痴っていた。
休憩時間にふと、お盆って何だろうと思い、スマホで検索した。
お盆の間は亡くなった人があの世から帰ってくるといわれており、生きている人は仏壇にお供物をしたり墓参りに行ったりする。
地獄では鬼が休暇を取るともいわれ、江戸時代には
奉公人とは、現代的に言うと奴隷みたいなものだろうか。
なるほど、それで働き詰めの主任もお盆には休暇を取れるというわけだ。
何となく納得して、スマホの画面を切り替えた。
*
バイト上がりに帰り道のスーパーで、158円の冷凍パスタを買った。
夜のぬるい空気の中を歩き、一人の家に帰る。
電子レンジでパスタを解凍している間、スマホで昼の続きを読んだ。
お盆の初めには、亡くなった人をあの世から迎えるために迎え火というものを焚くという。
迎え火には、仏壇の前に
亡くなった人といわれて、鈴夏は祖父のことを思い出した。
鈴夏と母は親族付き合いもほとんどしていないが、鈴夏は小学生の頃、何度か祖父のところに預けられたことがあった。
年寄りの男やもめでがさつなところもあったが、祖父は鈴夏をかわいがってくれた。
祖父の家でのある夜、鈴夏はなぜだかどうしても寂しくなってしまい、布団の中で泣いていた。
おじいちゃんはそれに気付くと、布団の隣に寝転んで、鈴夏が眠りにつくまで鈴夏の頭を撫で続けてくれた。
硬いけれど柔らかい手の感触を思い出す。
おじいちゃんがまだ生きていたら。
鈴夏はもうかわいい子供ではなくなってしまったが、まだ頭を撫でてくれただろうか。
鈴夏の家には仏壇も提灯もない。
解凍したパスタをぼんやり食べながら、室内を見回した。
リビングの隅の棚の上で、母の化粧品や未開封の郵便物に埋もれた写真立てに目がとまった。
三歳くらいの鈴夏を抱いた母とおじいちゃんが並んで立っている写真だ。
鈴夏は写真立てをテーブルの上に置くと、その手前に小さな陶器の皿を置いた。
バッグの中から、バイト先でもらったタバコの箱とライターをとり出す。
タバコに火をつけたが上手く燃えなかったので、代わりにレシートに火をつけて皿の中に置いた。
これが鈴夏の迎え火。
薄っぺらいレシートは、すぐに燃え尽きた。
*
ショウミョウは走っていた。
四つ足の獣が、森の中を飛ぶように駆ける。
やがて森から町へ抜けた彼は、二本の足で立って着物を着た人間の姿になった。
続けて刑務所に入って独房の扉を叩く時には、ネクタイをして紺色の制服を着た男の姿をしていた。
戸を開くと、三畳ほどの部屋の真ん中で
八哉は七十歳くらいの老人で、灰色っぽい作業服を着ている。
ここは人間たちの呼ぶところの地獄で、八哉は地獄の受刑者だった。
ショウミョウの仕事は地獄の受刑者たちを見回り、時々『水』を与えること。
数えきれないほどの受刑者を看ているが、八哉とは特に親しかった。
「八哉さん、あなたに免状が届いたそうですね」
彼がそう言うと、老人は目を細めた。
「ああ、鈴夏が呼んでくれたらしいんだ」
「では、現世を訪ねることができるのですね。お孫さんに会いにゆけます」
ショウミョウは、受刑者たちが
八哉が鏡で一生分の過去を振り返っている時もそこにいたので、八哉のことは大体何でも知っている。
八哉は生きている間、自暴自棄になって多くの人を傷付けたことがあった。
おのれの行いを恥じ悔いている八哉は、現世で重ね着してきてしまった怒りや悲しみを
若い頃にはひどい生活をしていた八哉だったが、晩年には随分落ち着いていた。
疎遠だった娘が産んだ孫の鈴夏は、八哉にとって宝物のようだったが、娘との関係もあって望んでいたほど共に過ごすことはできなかった。
その孫娘が、
その火は、地獄にいる亡者の元に届くと、生者の世へ渡る免状となる。
その免状が届いたため、八哉は少しの間だけ、鈴夏に会いに現世へ行くことができる。
しかし、八哉の様子は晴れやかではなく、老人は首を振った。
「でもな、ショウミョウさん。おれは、鈴夏に会いに行くのはよしとこうと思ってるんだ」
ショウミョウは、八哉の迷いを感じ取った。
八哉は、まだ地獄での勤めを終えていない。自らを悪霊だと思っているので、孫娘に合わせる顔がないと思っているのだろう。
「ですが、あなたには免状がおりたのですよ」
そう言われても、老人の姿をした頑固な受刑者は、首を縦に振らなかった。
「おれが訪ねていっても、鈴夏に何もしてやることができねえ」
老人の目元に涙が浮かんだ。
地獄にあれば一瞬で干上がってしまうはずの涙も、休息の期間である今この時は、受刑者の頬を伝って流れ落ちる。
「会ったって、声のひとつもかけてやれねえだろう。
なあ、ショウミョウさん、例えばあんたがおれの代わりに、鈴夏に会いに行ってもらうってこたできねえのかな。
おれのとこに届いた鈴夏の声がなあ、さみしそうなんだよ。誰か、あんたみたいに優しい人に、あの子に一声かけてほしいんだよ。
それでな、じいちゃんが鈴夏を大好きだって、伝えてほしいんだ。生きてる間に、言えなかったからな」
ショウミョウのような者が、用事があって現世を訪ねることがないわけではない。
何より彼は、八哉の願いを叶えてやりたいと思った。
彼が普段受刑者たちに配り歩いている水は、飲み物の形をしていることもあれば、言葉や想いである場合もある。
時にはこんな形で水を差し出してもよいのではないか。
「わかりました。鈴夏さんに会いに行ってみましょう」
*
翌日の午後七時、鈴夏はバイト帰りの道を歩いていた。
住宅街の通りが、いつもより騒がしい。
見れば、通り道にある神社だかお寺だかで、お祭りをやっているらしかった。
夜闇に溶けかけた石畳の参道には屋台が並び、吊り下げられた電球や提灯が、人だかりに黄色い明かりを投げかけている。
夜の中で弾む灯りと人々の声。
少し寄り道してみよう。
そう思って、鈴夏は鳥居をくぐった。
小さなボールが浮いた水槽の周りに、子供たちがしゃがんでいる。
大きなリンゴ飴は赤くてかわいらしいが、一体どうやって食べるのだろう。
コンビニでも買える焼きそばやフライドポテトも、ここでは妙においしそうに見える。
見物しているうちに参道を抜けてしまい、気付くとお寺だか神社だかの建物の前に来ていた。
賑やかな声が少し遠のき、ちりちりちりりりと、涼やかな音色が聞こえた。
お堂の手前に門のようなものがあって、そこに数えきれないほどの風鈴が吊るされているのである。
仄かな灯りの中、音を奏でる風鈴の下で、ひらひらくるくると短冊が回っている。
その光景が美しくて、そしてなぜだか懐かしいようにも感じて、鈴夏は足を止めた。
男の人の声がした。
「鈴夏さん」
風鈴が連なる門の向こうに、着物を着た、ひょろりと背の高い男の人が立っていた。
知り合いだろうか。
鈴夏が返事をする前に、男性が近付いてきた。
涼しげな容姿の人だった。
どこかで見たことがあるような気もしたが、誰だか思い出すことができない。
ただ男性は、見たこともないほど穏やかな瞳をしていた。
「あの……すみません、どちらさま、でしたっけ」
「八哉さんの友人で、ショウミョウと呼ばれています」
鈴夏の頭に疑問符が浮かんだ。
八哉というのは、死んだ祖父の名前だ。
なぜその祖父の知り合いが、今こんな場所で鈴夏の目の前に現れるのか。
「おじいちゃんは三年前に死んでるんですけど……」
「はい、存じております」
「じゃあ……あたしに何の用ですか」
「八哉さんに代わって、鈴夏さんにご挨拶に伺いました」
男性の様子があまりに穏やかなので、鈴夏ははいそうですかと頷きそうになったが、ちょっと待てよと思いとどまる。
「おじいちゃんは死んだって、今言いましたよね……?」
「はい。彼岸の向こうにいる八哉さんから、伝言をお預かりしています」
「……」
ちりりり、ちりりと風鈴が鳴っている。
真夏の夜の空気は、昼の名残を含んで生温い。
混乱し始めた鈴夏の気配を感じ取ったように、男性が言葉を付け足した。
「鈴夏さん、あなたは八哉さんのために迎え火を焚かれました。でも、八哉さんはお勤めを終えていないので来られなかった。だから代理を寄越しました」
鈴夏は驚いた。
確かに鈴夏は、レシートを燃やした。家の中で一人きりで。
なぜそれを、この人が知っているのだろう。
見開いた目を向けられて、男性は説明を続けた。
「このショウミョウも、この世のものではないのです。今日は特別に、鈴夏さんをお訪ねしました」
男性の言うことは鈴夏にはよくわからなかったが、意図は伝わった。
ショウミョウさんという変な名前のこの人は、あの世から来たのだ。
いつもならそんな話は信じるわけがないが、ショウミョウさんは鈴夏が迎え火を焚いたことを知っていた。
「……おじいちゃんの伝言て、なんですか」
すると、目の前で穏やかに微笑んでいたショウミョウさんの顔が、悲しげに曇った。
その目尻から、すうと涙がこぼれる。
「……八哉さんは、鈴夏さんのことが大好きだと」
その瞬間、ショウミョウさんが流した涙がおじいちゃんのものなのだと、鈴夏にはわかった。
人混みのざわめきを遠ざけるように、風鈴が鳴っている。
ショウミョウさんはもう一度言った。
「鈴夏さんのことが、大好きです」
大きな手が、鈴夏の頭を撫でた。
撫でたのはショウミョウさんだが、きっとそれもおじいちゃんの手なのだろう。
「いつもそばにいられないけれど、ずっと一緒にいます。鈴夏さんが悲しい時は悲しいし、鈴夏さんが嬉しい時は、嬉しいです」
喉が辛くなり、目の奥が熱くなった。
鈴夏はうつむいて、耳だけで、穏やかな声を聞いた。
「また会いにきます。送り火を焚いてくださいね」
そうだ、亡くなった人を迎えるときには迎え火を焚くが、お盆の終わりにはあの世へ送り返すための送り火を焚く。
また、皿の上でレシートを燃やせばいいのだろうか。
それを尋ねようとして、鈴夏は顔を上げた。
ショウミョウさんの姿は、もうなかった。
そこには提灯の明かりと夜の空気があり、影のように佇む門の向こうに、賑やかな人だかりが見えた。
ちりちりん。
風鈴の音が、柔らかく耳に響いた。
*
家に帰ると、母がいた。
バタバタと洗面所と寝室を往復する様子からすると、今し方帰宅したようだ。
テーブルの上にはビニール袋が置かれており、中を覗くと弁当が二つ入っていた。
「遅かったじゃない。どこ行ってたの」
寝室から、母の声がした。鈴夏は答える。
「バイト」
そっちこそ今日は早いね、そう言おうか迷ったとき、母がリビングに入ってきた。
「ねえ、お弁当食べない?」
「……手洗ってくる」
鈴夏はそう言うと、洗面所へ向かった。
テーブルに着いて、二人で弁当を食べた。
黙食が続いていたところ、ふと母が言った。
「そういえば母さんね、今日から夏休みなのよ」
「ふうん」
「明日、どっか行こっか。バイトある?」
急な風の吹き回しだ。
鈴夏は首を振った。
「夏休みっていっても、行く場所ないわよねえ。おじいちゃんちも、なくなっちゃったし」
呟くように、母は言った。
続いて、その視線がテーブルの上に動いた。
「あれ、何これ」
母の目が指しているのは、かすかな燃えかすの残った小さな皿だった。
鈴夏は知らない顔をすることにした。
そして思いつく。
「ねえ、買い物行きたい」
「へえ。何が欲しいの」
「ロウソク」
「へえ。アロマキャンドルとか? いいわね」
母が微笑んだ。
うんと、鈴夏は頷いた。
<終>
夏鳴る夜に会いましょう 真田 @kazuhiko_sanada
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