つばめとうぐう殿へ戻って来ると、またもや九の宮が中門廊で落ち着きなく歩き回っていた。

 御所での用事は早々に済んだのか、昨日に続き九の宮の方が燕よりも帰宅が早い。

 こうも毎日九の宮に出迎えられると、なんだか外出することそのものに気が引けてしまいそうだ、と燕は思った。


「春宮妃殿下が戻られました」


 は心得た様子で声を張り上げ、殿舎内の人々に知らせる。

 主に春宮に知らせるためだろう。


「なにがあった!?」


 九の宮が駆け寄ってくると同時に、祈祷師も全力で走ってくる。

 すこしでも遅れると春宮に叱責されるとでも思っているようだ。

 しかも、中門廊には春宮殿の女房から下女下男まで、手が空いていると思われる者たちがぞろぞろと集まっていた。

 今日の妃教育の教師と思われる年配の女性の姿もある。


ちょう殿へかりがねの女御様を訪ねてきただけですわ」


 燕は笑みを浮かべて答えたが、九の宮の表情は険しい。


「なにを言われた? なにをされた?」

「ご挨拶をして、贈り物を渡してきただけです。途中で皇后様がいらしたので、わたくし自身が直接雁金の女御様とお話をしたのは本当に挨拶ていどですのよ」

「皇后様が?」


 皇后の名が出た途端、九の宮の表情が緩む。

 彼の中で、皇后は御所内最強の女性なのだろう。


(まだまだわたくしは九の宮様の中では弱い雛鳥なのでしょうね。残念だわ)


 いつか、九の宮から自分がもっと強い大鳥であると認識して貰いたいものだと燕は思った。


「春宮妃殿下は、大事ございませぬ」


 祈祷師がうやうやしく告げると、九の宮は大きく息を吐いた。


「さぁ、お妃様。早く中に入って一息ついてくださいませ。宮様も、お妃様がご無事に戻られたのですから、一緒に昼餉を召し上がってくださいませ」


 古参の女房が九の宮と燕を殿舎の中へと押し込む。


「さぁさぁさぁ」


 九の宮はまだ燕の頭の先からつま先までじっと確認していたが、肌の傷や衣の汚れなどがないことを確認すると、素直に頷いた。


「うん、そうだな。昼餉にしよう」


 この一言で、使用人たちは自分の仕事に戻った。


     *


 結局、燕の妃教育初日は教師の挨拶だけで終わった。

 挨拶と言っても、教師は燕が九の宮と昼餉を食べ終えるまで待っていたし、その後も九の宮がかるがもの雛のように燕の後をどこまでもついてきていたので、本当に一言挨拶をしただけで帰った。


「雁金の女御様は、皇后様に頭が上がらない様子でしたわ」


 妃教育の授業がなくなると別段用事がない燕は、愛用の硯を文机の上に置いて墨を擦り始めた。

 雑記帳に、今日の出来事を記しておくためだ。

 いつ、誰に会い、なにを贈り、なにを贈られ、どのような話題が出たかを詳細にしたためておくことは大事であると父から言われている。

 贈り物であれば同じ人物に同じ物を贈らないために、また、他の人に贈る場合は似たような物を贈るにしても同等の物にするか優劣を付けるか、などを考慮しなければならない。

 燕が墨を擦っている横で、九の宮は黙々と織紐を織っている。

 織紐は彼の唯一の趣味のようなもので、作業をしていると集中できるのが良いそうだ。この織紐は、主に贈り物を入れた木箱などにかけており、今日雁金の女御に贈った伽羅の衵扇を入れた箱にもこの織紐をかけた。

 織紐は糸の色によって模様が変わるが、その模様で様々な意味が生まれる。

 紐ひとつで祝福にも呪詛にもなるのだそうだ。


「雁金の女御様は伽羅の衵扇の意味をよくご存じないようでしたわ」

「知らずに受け取った、と?」

「知って受け取るも、知らずに受け取るも、結果は同じですわ」


 ふふっと燕が答えると、九の宮は「まぁ、そうだね」と呟いた。

 今頃は、宮中にて雁金の女御が春宮妃側に付いたことが噂になっていることだろう。

 四羽家の中で伽羅の衵扇の意味を知らないというのは、世間知らずを通り越して無知だと見なされる。

 つまり、雁金の女御は意味を知らずに受け取ったから春宮妃に味方したわけではないという言い訳をすれば、大恥をかくことになるのだ。それは雁金の女御ひとりの恥ではなく、なん家全体の恥になる。無知な雛を帝の女御として入内させた、と公言するようなものだからだ。

 南羽の当主は雁金の女御に、伽羅の衵扇を受け取った真意を問い質すだろう。そして、雁金の女御から「そんな意味があるなんて知らなかった。相手が持って来たから受け取っただけだ」と返事をされ、そもそも女御と女房たちが春宮妃を呼び出したことに関して怒りを爆発させることになるはずだ。

 春宮妃に伽羅の衵扇を贈らせる隙を見せたのは雁金の女御なのだから。


「あとは、父と皇后様にお任せしておけば良いだけですわ。よしなにしていただけますよ」


 燕の役目は南羽を春宮側に引き込むための種をまくことだけだ。

 今回の春宮妃と雁金の女御の間のやりとりに、春宮は関わっていない。あくまでも雁金の女御が春宮妃を呼び出したのであり、それに応じたのは春宮妃だけだ。そして、皇后が出てきたのも春宮妃のためだ。


「帝にとっては少し頭が痛い事態かもしれませんが」

「そうかもしれないね」


 九の宮をあくまでも仮の春宮として指名した帝にとって、春宮とその妃が宮中で力を持つことは避けたい。

 もし帝に親王が生まれていれば九の宮とほく家を牽制できただろうが、いまはまだ帝の息子は存在していない。それだけに、春宮である九の宮を軽んじることはできないのだ。

 だからこそ、弟である九の宮におとなしくしておくよう帝は言い含めているのに、自分の妃が勝手に春宮妃に喧嘩を売るような真似をしたのだ。

 帝だって、北羽の当主の娘である春宮妃が売られた喧嘩を喜んで買ったことに驚きはしないはずだ。春宮妃は皇后の姪であり、深窓の雛姫で世間知らずでも、北羽の血筋は好戦的であることに変わりはない。


「宮様が心配なさることはありませんわ」

「私が心配しているのは、あなたのことだけだよ」


 ふっと息をついて九の宮は苦笑いを浮かべた。


「あなたがどこかで傷つけられていないか、困っていないか、呪われていないか……」

「宮中には宮様の敵がたくさんいるようですが、北羽の者もたくさんおります。北羽でない者も、北羽の味方になる者がたくさんおります。いまは敵対していても、こちらの味方にできそうな者も少なくないはずです」


 筆に墨を付けると、燕は雑記帳に雁金の女御の名を記した。

 雁金の女御が春宮妃から贈られた物は他の女御たちにも知れ渡っていることだろう。

 つまり、他の女御たちには同じ手は使えない。


(さて、とう西せいの女御様たちにはどのような方法でわたくしたち側に付いていただきましょうか)


 紙の上で筆を滑らせながら燕は考える。


「羽根を切ったり鳥籠に閉じ込めたりするよりも、ずっと効果的な方法を探っていく必要がありそうですね。その点については、父や皇后様に相談して考えることにします」


 声を弾ませながら燕は告げる。


「帝には、九の宮様を春宮位に就けたことが最良の選択であったと後々思っていただきたいですからね」

「きっと今頃、最悪の選択だったと後悔しているんじゃないかな」


 丁寧に織紐を織りながら九の宮は答える。


「大丈夫です。最悪と最良は紙一重です」

「そうだね」


 手元から視線を上げた九の宮は柔らかく微笑んだ。


「あなたがそう言うのであれば、間違いない」


 空がたそがれていく中、ようやく春宮殿は落ち着きを取り戻しつつあった。

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鳳国春宮妃の華麗な宮中生活 紫藤市 @shidoichi

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