六
他の女房たちは、年長の女房が不機嫌になっていく様を肌で感じているのか、お互いが目配せをしながら女御と
(どうやら、雁金の女御様はあの年増の女房の言いなりのようね)
見た目の年齢からすると雁金の女御の乳母かなにかだろう。
雁金の女御にしてみれば、幼い頃から世話をしてくれていた女房の存在は御所で心強いものとなっているはずだが、必ずしも良い影響を与えているわけではないようだ。
(あの女房、もうすでにわたくしを敵だと認定した感じの目つきね)
燕にしてみれば、たかが他家の女房のひとりだ。
敵として見なすほどの存在ではない。
とはいえ、放置しておくわけにもいかなそうだ。
(さて、どうしましょうか)
女房は幾ばくかの贈り物で懐柔されることはないだろう。
雁金の女御に対する忠誠心というよりは、自分が育て上げた姫を国母にするという使命感に捕らわれている様子だ。
(雁金の女御様よりもあの女房の方が、宮様とわたくしの障害になりそうだわ)
ふむ、と燕が心の中で対応策を検討し始めたときだった。
渡殿の方でなにやら女房たちがざわつく気配が感じられた。
(なにかしら)
なんといってもいまは
今後、雁金の女御が親王を産んだ際に敵対することになるとわかっている春宮妃に、最初から嘉兆殿の女房たちが弱みを見せることはない。
いかに雁金の女御が住まう嘉兆殿の者たちの教育が行き届いているか、態度で示そうとするはずだ。
燕は背後を気にしつつも、雁金の女御との会話に集中しようとした。
そのときだった。
「雁金殿、ごきげんよう」
燕の背後から、聞き覚えのある威厳ある女人の声が響いた。
雁金の女御が大きく目を見開き、女房たちは慌てた様子で腰を浮かせる。
燕が振り返ると、そこに立っているのは皇后だった。
「皇后様!」
燕も慌てて立ち上がり、皇后が室内に入る邪魔にならないよう道を空ける。
雀たち春宮殿から付いてきた女房は皆、広廂の端に寄って皇后の女房たちに場所を譲っている。
もちろん、皇后の女房たちは春宮妃を押し退けて部屋に入ることはしない。
なんといっても春宮妃である燕は、
皇后の女房たちは、春宮妃を内親王と同じように敬わなければならない。
「よいよい。そのように堅苦しい挨拶はなしじゃ」
略装姿の皇后は明るい声で頭を下げる燕に声を掛けた。
その気安い口調から、雁金の女御の女房たちは皇后と春宮妃の関係が良好であることを察する。
いくら帝の寵愛が深い雁金の女御であっても、親王を産んでいない妃は皇后にかなうことはない。
雁金の女御はすぐさま立ち上がり、上座を皇后に譲った。
こればかりは地位が絶対である。
「黒……皇后様。なぜこちらに?」
皇后の別称は黒鶫だ。
入内前は黒鶫姫と呼ばれていたことから、黒鶫の中宮と呼ばれることもあったが、現在では皇后と呼ぶことがほとんどだ。
帝や北羽家前当主、現当主ですら黒鶫の名は口にしない。
(雁金の女御様は、随分と迂闊な方のようね)
雁金の女御の女房たちは、自分たちの主人が皇后を黒鶫と言いかけた瞬間に真っ青になっている。
皇后を別称で呼ぶことは、敬意が足りていないことを意味している。
同時に、普段から雁金の女御とその周囲の者が皇后を別称で呼んでいることを匂わせてしまったのだ。
皇后は雁金の女御たちを咎めることはしないはずだが、皇后付きの女房たちの心証が悪くなることは間違いない。そして、皇后付きの女房たちはこのことをそれとなく宮中に噂として広めるはずだ。
噂というものは、時として毒にも薬にもなる。
主に、遅効性の毒であることが多いが、現在宮中での評判が下落の一途を辿っている南羽家にしてみれば、即効性の毒にもなり得る。
もちろん、帝の寵愛にも影響する。
いくら至上の君である帝であっても、この世のすべてが帝の思うがままになるものではない。特に
いくら愛していると言っても、帝は自身の立場を不利にする妃を愛し続けることはできない。
雁金の女御とて、妃の地位は失わないとしても、次第に御所の片隅に追いやられることになる。
皇后は、雁金の女御に対して「南羽の出だから」という名目で妃の立場が維持できるようには取り計らうだろうが、それすらも雁金の女御と女房たちにしてみれば皇后の慈悲に思えてくるはずだ。
恥も外聞もなく帝や皇后の慈悲に縋るほど南羽の者は矜持を失ったわけではないのなら、雁金の女御の女房たちがいますべきことはただひとつ。
皇后の義理の娘となった春宮妃である燕に無条件で敬意を払うことだ。
「雁金殿が昨日入内したばかりの春宮妃をわざわざ呼んだと聞いて、な」
手にした衵扇を広げて皇后が答える。
「どうやら雁金殿は春宮妃に会いたくて仕方なかったようじゃな。妾は、近いうちに後宮で春宮妃を紹介する宴を催す予定にしていたが、その知らせを昨日のうちに雁金殿に伝えておかなかったことを詫びに来たのだよ」
皇后は目を細めて微笑んだが、全身を包む空気は穏やかではない。
「春宮妃が妾だけに挨拶をして、帝の他の女御たちに挨拶をしないのは、春宮妃が遠慮しているのではないかと思ったのであろう? だからこそ、わざわざ雁金殿から文を送って春宮妃を招いたのであろう?」
燕が皇后に送った文は、最優先で皇后の手に渡ったようだ。
その上で、皇后自ら嘉兆殿へ乗り込んできてくれたということらしい。
「え、えぇ、そうです、わ……」
雁金の女御はこくこくと頷いて皇后に同意を示した。
彼女が皇后の言葉から圧力を感じていることは間違いない。
いくら帝の寵愛があっても、皇后の不興を買うような愚かな真似をすれば、雁金の女御が親王を産んだときに不利になることは目に見えていた。
下手をすれば、生まれた親王が皇后に取り上げられる可能性だってあるのだ。
春宮と春宮妃が皇后と北羽家の勢力下にあることを思い出したのか、女房たちも途端におとなしくなった。
なにせ、皇后に黙って雁金の女御が春宮妃を呼び出したことが知られてしまったのだ。
「他の妃たちにも本日中に触れ回ることにしているが、春宮妃を紹介する宴は後日開催する。春宮妃は、帝の妃たちへの個別の挨拶は不要だ。まずは妃教育に励み、春宮殿での暮らしに慣れてもらう必要があるのでな」
「さ、さようでございますね」
雁金の女御は頷き続けた。
女房たちはうつむき、唇を噛んでいる。
自分たちが春宮妃を呼ぶことを雁金の女御に勧めたことで、主人が皇后から叱責されているのだ。
皇后は怒気こそ放っていないが、嘉兆殿の女房たちの先走った行動を不快に感じていることは明らかだ。
「わ、わたくし、春宮妃様から素敵なお品をいただいてしまいましたの」
「それは貰っておくと良い」
皇后は雁金の女御の手元にある伽羅の衵扇をちらりと見やると、あっさりと答えた。
返せ、と言われることを期待していた女房たちは身体を強張らせる。
受け取れ、と皇后に命じられたのであれば、今後雁金の女御は春宮妃を支持しろと言われたも同然だ。
もちろん、春宮妃が勝手に嘉兆殿へ押しかけてきたわけではないのだから、雁金の女御側が自滅したことになる。
「のう、春宮妃?」
賛同を求めるように皇后が燕に視線を送る。
「はい。ぜひ、雁金の女御様のお手持ちの品にお加えくださいませ」
燕は無邪気な笑みを浮かべて答える。
こうして、雁金の女御は春宮妃側に付くことになった。
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