御所の数ある殿舎の中でも、妃たちが住まう御殿は特に華やかだ。

 とうぐう殿はどちらかといえば落ち着いた気品ある建物だが、帝の妃たちの殿舎はきらびやかの一言に尽きる。

 かりがねの女御が暮らすちょう殿は、皇后のずいしょう殿ほどではないものの釣り灯籠から庭の木々や石まで、おもむきある物が揃えられている。


(なるほど。これはなんというか……雁金の女御様は人が持っている物はなんでも欲しがる方なのかしらね)


 皇后へ今日の妃教育の開始が遅れる理由を説明した文を送った後、つばめは大急ぎで食事をして身支度を調え、嘉兆殿を訪ねた。

 相手がなん家の出身であることを踏まえて、燕の衣装は季節を意識した色合いではあるもののおとなしめの物を選んだ。それでも、衣の生地は光沢を抑えた一級品の絹だ。

 雁金の女御への手土産は、初夏の季節に合わせた花々が描かれたあこめおうぎを用意した。

 珍しい香木の薄板を使った物で、扇を広げるだけでふくいくたる薫りが広がる逸品だ。


(雁金の女御様は、どのような容姿の方かしら)


 南羽家は燕の生家であるほく家に次ぐ名家だが、最近は宮中での勢いが落ちてきている。

 南羽家出身の郡司が治める地域で起きた反乱の鎮圧に失敗し、都から討伐軍を送ることになったのだが、この討伐軍の大将がとう家当主の三男だった。東羽家は帝から報償を与えられ、南羽家は失望されることとなった。

 このことから南羽家は汚名返上とばかりに、雁金の女御が親王を産んで南羽家を盛り上げることに期待をしているのだ。


(あの文の印象からすると、自信家かしらね。それとも、周囲にかしずかれることが当たり前だと思っている方かしら)


 南羽家の当主からは、さぞかし「早く親王を」とせっつかれていることだろう。

 せかされて親王が生まれるのであれば、皆、帝をせっつけば良いのだが、さすがに四家の当主たちは誰ひとりとして帝に「うちの妃との間に早く親王を」とは言えないのだろう。


(もし雁金の女御様が親王様をお産みになったら、宮中はさぞかし荒れるでしょうね)


 北羽家は、皇后が親王を産まない限りは、春宮位に就いた九の宮を帝に即位させるつもりだ。

 つまり、雁金の女御が親王を産んだ場合、北羽家としてはこの親王をなんとかして排除しようとすることになる。


(宮中って、本当に魑魅魍魎で溢れた恐ろしい場所だこと)


 そんな恐ろしい場所に足を踏み入れてしまったというのに、燕はどこか他人事のような気分だった。

 九の宮の代わりはいないが、春宮の代わりはいくらでもいる。

 つまり、もし九の宮になんらかの危害が及ぶようであれば、自分と九の宮はさっさと御所から逃げてしまえば良いのだ。

 帝には他にも弟宮がいるので、九の宮が春宮位を降りたところで困ることはないはずだ。

 その際、北羽家が新たな春宮を支持しないというだけで。


「雁金の女御様はこちらでお待ちです」


 燕を案内してきた女房は立ち止まると御簾を手で示す。

 燕の背後で木箱を捧げ持ったすずめがごくりと喉を鳴らす音が微かに響いた。


「女御様。春宮妃がお見えです」


 女房が御簾の中へ向かってそっと声を掛けると、内側からするすると御簾が巻き上げられた。


「まぁ、ようこそいらっしゃいました、春宮妃」


 明るく弾んだ声が奥から響く。

 女房が手振りで燕に入るよう勧めたため、ゆっくりとした動作で燕は中へと足を踏み入れた。

 一歩進んだ途端、様々な調度品で溢れている室内が目に入った。

 年かさの女房たちに囲まれて円座に腰を下ろしている女人が、にこやかに微笑みながら燕を見つめている。


「お初にお目にかかります。北羽の一のひなでございます」


 優雅な所作で床に膝をつくと、燕が挨拶をする。

 貴族の間では、通常は名を隠すのが常識だ。

 家名と、当主との関係だけを明かす。

 当主の子供は皆、『雛』を名乗るのが慣習だ。


「なんて可愛らしい雛姫かしら」


 衣の袖で口元を覆いながら雁金の女御はころころと笑った。

 年の頃は二十代半ばくらいだろう。

 白粉おしろいを塗った肌は白磁のようで、鮮やかなべにを掃いた唇は小さい。黒く大きな瞳は、女御を実年齢よりも若く見せていた。

 無邪気に声を上げてはしゃいでいるように見える。

 そんな女御の周囲を固めている女房たちは、春宮妃を値踏みするような視線を燕に向けている。


(あらあら、子供っぽいって牽制しているつもりかしら。まさか本心から褒め言葉だと思って言ってるわけではないわよね? それにしても、女房たちは怖い顔だこと)


 笑顔を崩さずに燕は女御と女房たちの顔を見回す。

 女御は春宮妃が自分の招きに応じたことをただただ喜んでいるようだが、女房たちはどのように春宮妃を扱おうかと思案している様子だ。

 女房たちは、雁金の女御が春宮妃よりも格上であることを示すことが目的のはずだ。


(なんかもう、女房たちの態度があけすけ過ぎるわね)


 心の中で燕は苦笑する。

 わざわざ訪ねてきた春宮妃に対して、女房たちは露骨に「帝の女御を敬え」という圧を放っている。


(女房たちが強要しないと雁金の女御様は敬って貰えないって思っている残念さ加減が、なんとも言えないわね)


 他家の女房たちの圧などそよ風ほども感じない燕は、悠然と微笑んだまま結論づけた。

 燕は深窓の姫だが、鳥籠の中でおとなしく餌をついばんでいるだけの小鳥ではない。


「こちらはお近づきの印の品でございます。お気に召していただけるかわかりませんが、どうぞお納めくださいませ」


 燕が言うと、雀が木箱を雁金の女御の女房に渡す。

 女御の代わりに箱を開けた女房は「まぁ」と声を上げた。


きゃの木の衵扇でございます」


 女房たちは存在を知ってはいても見たことはないだろう、と思いつつ、燕が説明する。


「伽羅の木? これが? まぁ、素敵!」


 雁金の女御は手を叩いて喜び、すぐさま木箱から衵扇を取り出して広げた。

 ふわりと伽羅の香木の匂いが辺りに広がる。

 途端に、最年長と思われる女房の顔色が変わった。


「女御様――」


 腰を上げて女房は雁金の女御に声を掛けるが、「なぁに?」と不思議そうな表情を浮かべた雁金の女御は首を傾げるだけだ。

 その様子から、雁金の女御が伽羅の衵扇を贈られた意図がわかっていないことが察せられた。


(伽羅の木は北羽の領内の秘された場所にしか生えていない貴重な物。その伽羅の木で作られた物を受け取ったということは――)


 燕は素知らぬ顔で雁金の女御を見つめながら、女房の反応に満足する。

 伽羅の衵扇は高価な物ではあるが、値段だけを言えば南羽家の姫でも手が届くていどだ。

 ただし、伽羅の木の調度品を北羽の者から贈られて受け取った場合は、値段の問題ではなくなる。


「お気に召していただけたようでなによりです」


 燕が笑顔のまま告げる。

 女房たちの顔は強張ったままだ。


「こちらは内親王様へ」


 燕が告げると、雀の後ろに控えていた女房が運んできた箱を女御の前に並べる。


「まぁ、こんなにたくさん!」


 雁金の女御は手を叩いて喜んだが、女御付きの女房たちの顔色は悪くなる一方だ。

 春宮妃として挨拶に来る燕がそれなりの贈り物を携えてくることは想定していただろうが、まさか伽羅の木を使った扇や、内親王への品など、これだけの物を用意してくるとは想像していなかったのだろう。

 突然呼び出したのだから、たいした手土産を用意できず、不調法を詫びてくると思っていたに違いない。


「内親王様もお気に召していただけると嬉しいのですが」


 笑みを崩さずに燕は言う。

 昨日、春宮殿に運び込んだ荷物の半分以上は、帝の妃や女房たちへの贈り物だ。

 いつでもあちらこちらに配れるように、と母がとにかく数だけは多く用意しておくよう手配してくれたのだ。

 とくに妃と内親王への贈り物は、北羽家の威信にかけた選りすぐりの物が良いとのことだった。


(この機会をしっかり利用させて貰って、ちゃんと九の宮様とわたくしの味方になっていただかなければ、ね。まさか、受け取るだけ受け取って、わたくしたちが不利になるような真似はしないでしょう)


 皇后によると、宮中という場所では誰がなにを贈った誰が受け取ったという話はすぐに広まるものだそうだ。

 雁金の女御は、自ら春宮妃を自分の元へ招いたのだから、贈り物がなんであろうとすべて受け取らなければ礼儀に反する。そして、贈り物の中身が粗末であるかどうかを判断するのは受け取った側ではなく、後から受け取った品物の中身を聞いた者たちだ。


(雁金の女御が伽羅の衵扇を受け取ったと他のお妃様たちが耳にすれば、雁金の女御様は春宮側に付いたと考えるはずよ。いえ、そう考えないはずがないわ)


 他の妃たちだけではなく、帝も同じように考えるはずだ。

 雁金の女御は自分の宮中での権威をひけらかしたかっただけなのだろうが、それを燕にうまく利用される形となった。

 わざわざ届けられた贈り物は、よほどのことがない限りは受け取りを拒むことはできない。

 贈り物を突き返せば、喧嘩をふっかけるようなものだ。

 北羽家出身の春宮妃と敵対するということは、当然ながら北羽家を敵に回すことになる。


(わたくしをこちらに呼びつけようと女御様に提案したのは、あの女房かしら)


 手にした扇を震わせながら燕を睨め付けている女房の顔を、燕はしっかりと記憶した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る