四
翌朝、燕は目覚めた瞬間に自分が盛大に寝坊したことに気づいた。
開けられた
「おはようございます、姫様」
几帳の陰から雀が声をかけてきた。
どうやら燕が起きた気配に気づいたようだ。
春宮妃となった燕を『姫様』と呼ぶのは、燕なりのこだわりのようだ。
昨日、春宮殿の女房のひとりが雀に「春宮妃様とお呼びすべきでは」と注意していたが、雀はまったく耳を貸さなかった。
その割には、彼女は九の宮を『春宮様』と呼んでいる。
「おはよう、雀。宮様は?」
燕が返事をすると、雀は
「朝餉を召し上がった後、御所へ行かれました。姫様はよくお眠りでしたので、無理に起こさないようにとおっしゃって」
「まぁ、そうだったの。昨夜は宮様とお喋りをしている間に眠ってしまっていたみたい」
「お疲れだったのでしょう。よくお休みになれたようで、よろしゅうございました」
「そうね」
両手でこぶしを作り天井に向けて伸びをしながら燕は頷く。
昨日は春宮殿に入る儀式と皇后への挨拶で忙しかったせいか、かなり疲れていたようだ。
夜は
「お食事のご用意ができておりますので、召し上がってください。今日は午後からお妃教育が始まることになっておりますが……」
自分で顔を洗う燕に手拭いを差し出しながら、雀が言葉を詰まらせる。
「実は、
「雁金の女御様?」
手拭いで水を拭いながら燕は首を傾げた。
雁金の女御は
もし次に御子を産むとすれば雁金の女御だろうと宮中では評判だが、こればかりは授かりものなので寵愛の深さが実を結ぶとは限らない。
「はい。こちらです」
雀は使い終わった手拭いを受け取ると、膝の上に置いていた文を差し出した。
乳白色の
さらに甘い匂いの香が焚きしめられていた。
「雁金の女御様は、わたくしに会いに来て欲しいそうよ。今日の午後であれば都合が付くので是非、と書いてあるわ」
文を広げて内容を確認した燕は、ふっと息を吐く。
「いきなり姫様を呼び出した、ということですか? しかも、今日の午後?」
雀が目を丸くして声を荒らげる。
当然の反応に、燕は苦笑する。
これまでも交流があった皇后であればともかく、まったく文のやりとりすらしたことがない女御から、春宮妃に対して自分のところまで挨拶に出向いてこい、という呼び出し状が届いたのだ。
常識的に考えて、あり得ない。
(それとも、これが御所の常識なのかしら)
文の流麗な文字に目を落としながら燕は考える。
(雁金の女御様は、きっと昨日わたくしが皇后様のところへご挨拶に伺ったことを誰かから聞いたのでしょうね。それで、皇后様の次に挨拶に来るべき妃は自分であると主張するために、このような文を寄越したのでしょうね)
帝の寵愛を得ている自分が皇后の次位であると主張したいのだろう。
しかし、通常であれば、まずは文のやりとりを幾度か繰り返してから、訪問に至るものだ。
いきなり春宮妃を呼び出すなど、穏当ではない。
「無視しますか? 当日になって、自分の都合に合わせて尋ねて来いなどと、非常識極まりないですし、今日は午後からお妃教育で教師の方々が……」
「教師の方々には、わたくしが戻るまでしばらくお待ちいただくことにしましょう。まずは皇后様に報告の文を出すわ。雁金の女御様からご招待をいただいたので、女御様のご都合に合わせるためにお妃教育について少々開始が遅れる旨のお詫びということをきちんとお知らせしましょう。こういったことは、報告と連絡と相談が重要だそうよ」
ふふっと微笑んで燕は告げる。
「皇后様に……! なるほど。皇后様に、雁金の女御様が姫様を文ひとつで呼びつけたことをお知らせするのですね!」
ふんっと鼻息荒く雀が頷く。
「呼びつけただなんて……。雁金の女御様はなにかとお忙しいでしょうから、新参者のわたくしがあちらのご都合に合わせるのは当然でしょう」
笑みを浮かべたまま燕は続ける。
「でも、お妃教育が初日から遅れるようであれば皇后様にご心配をおかけすることになるでしょうから、きちんと理由は報告しておかなければならないわ。だって、わたくしが今日雁金の女御様のところに出向けば、他のお妃様方もわたくしに挨拶をするようにと文を送ってくるでしょうからね」
「春宮妃である姫様を呼び出せるのは帝と皇后様だけのはずです」
「あちらは、そう思っていないということでしょう」
昨日、皇后からは宮中の人脈作りにも励むようにと言われた。
御所にいる皇后以外の妃や女房たちと顔見知りになっておくことは重要だ。
しかし、侮られてはいけない。
春宮である九の宮にはほぼ権力がないからといって、春宮妃も同様であると思われては困るのだ。
燕はあくまでも北羽家の姫だ。
北羽家の支えがあるからこそ、九の宮は春宮位を得たのだ。
その点は他の三家の妃たちにはっきりと示しておく必要がある。
そして、春宮妃の背後には皇后がいることも忘れられては困るのだ。
(女御様たちは、ご自身が親王様をお産みになればご自分の天下は安泰だと思っているのでしょうね)
まだ生まれてもいない親王が、すでに自分の腹の中にいるような思い違いをしているようだ。
すでに春宮となった九の宮と、まだ生まれるかどうかもわからない親王。
女御たちは、九の宮がただの仮の春宮であると勘違いしている。
(仮だろうがなんだろうが、春宮位を得た九の宮様は間違いなく春宮であり、もしいまこの瞬間にでも帝の御身に差し障りがあれば、帝位に就くのは九の宮様だわ)
九の宮が弱い小鳥であると軽んじている者は宮中に多い。
かといって、九の宮がまったく政治的に注視されていないわけではない。
仮とはいえ春宮位に就いた以上、彼が帝位に就く可能性がまったくないわけではないことを認識している者も一定数は存在している。
その者たちが、北羽の権勢がこのまま続くことを良しとするか否かによって、九の宮の味方となるか敵となるかに分かれるだろう。
(できれば、九の宮様の敵は可能な限り早いうちに減らしておきたいわ)
味方にできなかったとしても、敵にならなければ良い。
「雀。雁金の女御様のお部屋を伺う際にお渡しする贈り物をなにか用意しておいてちょうだいな。反物か櫛か、それなりに値が張る物が良いでしょう」
「――かしこまりました」
不承不承といった様子で雀は頷いた。
「わたくしの挨拶に満足していただけるようにしなければならないわ。だって、これは重要な宮中での人脈作りの最初の一歩ですもの」
文を畳みながら燕はどのような衣を纏うべきか考える。
「できるだけ、春宮妃ここに有り、と印象づけたいわね」
「おまかせくださいませ」
きっと目を吊り上げた雀が答える。
「雁金の女御様に、姫様を呼びつけたことを後悔させてやりましょう」
「あらあら、物騒だこと」
くすくすと燕は笑い声を上げた。
「別に、雁金の女御様が後悔してくれなくても良いの。ただ、知っていただきたいだけよ」
文を雀に渡しながら告げる。
「
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