後編
そうして二年あまりを過ごした。最初に出会ったときに口にした、二年。
ミアは成長し、レインもまた、成体となった。
それでもミアは、まだ足繁く『人喰いの森』に通い続けている。
「レイン、今日もわたしを食べてくれないの?」
それは、ミアが成長する間少しも変化のなかったレインが、ある日突然成体――青年の姿になってから、ミアが毎日口にしている台詞だった。
「約束をしたんだから食べないといけないとは思うけど……僕は友だちを食べたくないよ」
それに対するレインの返答もまた、成体になった日から変わらない。
(友だちだから、レインに食べてほしいのに……)
今はミアも『誰でもいいから食べてほしい』ではなくなっている。それは確実に、二年の付き合いがなさしめたことだった。ただ、その方向が二人では真逆になってしまっただけで。
いつもはここで、まだ時間に余裕のあるミアがとりあえず折れるのだが、今日は違った。
「聞いたことがなかったけど……ミアはどうして、そんなに食べられたいの?」
レインが、そんな問いを投げかけてきたのだ。それは最初に出会ったときにされるべき問いだったのかもしれないが、少しずれたところのあるレインとミアとの間では、今になってしまったのだった。
ミアが最初に事情を説明しなかったのは、訊かれなかったのもあるけれど、『人喰い』が人間の事情に興味を持つと思わなかったからだった。だから端的に、直球で、『食べてほしい』と乞うた。
だけれど、今はレインがミアに興味を持っている。『友だち』として。ならば話してもいいか、とミアは思い、口を開いた。
「わたし、八歳のときに両親が死んでしまって、親戚だっていう貴族に引き取られたの。両親が生きていた頃は下町で暮らしていたわ。お父さまが体が弱くて普通のお仕事ができなかったから、代わりにお母さまが外に出て働いていて……生活が苦しい時もあったけれど、お父さまもお母さまもいつもにこにこしていて、優しくて、あたたかくて。幸せだったわ。お父さまが貴族の血筋だというのは聞いていたけれど、縁は切ったようなものだと言っていたし、関係のない話だと思ってた」
そこで、ミアは自分の目を指さした。朝焼けを写し取ったような紫の瞳を。
「この目がね、お父さまの血筋の証なんですって。代々伝わる――とは言っても、確実に子どもに受け継がれるわけではないらしいのだけど、たまたまわたしはお父さまから受け継くことができたみたい。そして問題はね、お父さまの生家……つまりわたしが引き取られた先に居た、この目を持つ子どもが死んでしまったことらしいの。わたしが引き取られたときにはもうその子はいなかったから、わたしは詳しくは知らないのだけど。この目の人間がいないと、何というのかしら……貴族の面子、とかいうのに関わるのですって」
それがどうして『食べてほしい』に繋がるのだろう、というような顔でレインは言葉の続きを待っている。それがわかる程度には付き合いを続けてきたことに感慨深くなりながら、ミアは続ける。
「でも、わたし自身を求められたわけじゃなくて……というのも、あの人たちにとって、わたしは『どこぞの得体のしれない女が産んだ子ども』でもあるから、仕方なくそこに目をつぶって引き取ってやった、というつもりみたい。そして、そんな女の子どもを正式に家の子になんかできないから、妾にして子どもを産ませるっていうのよ」
「……妾」
そこで初めて、レインは表情を揺らがせた。ミアは頷く。
「そう、妾。でもさすがに八歳じゃあどうしようもないし、外聞が悪いでしょう? だから十五になったら、という話になったの。でもわたしはそいつらが大嫌いで妾になんてなりたくないから、死んでやろうと思って。どうせならあと腐れなく殺されたいと思って、『人喰い』に食べてもらおうとこの森に来たのよ」
(うっかり友だちになって、食べてもらえなくなっちゃったけど)
そこは口に出さないでおく。まだ可能性はあるはずだ。
レインはしばらく無言だった。レインが言葉を考えるのに時間がかかることは多々あったので、ミアはいつものことだとのんびり待った。
「……そんな家、出てしまうことはできない?」
無言の後、レインはそう問うてきた。ミアは首を横に振る。
「残念ながら、家の人達は最悪だけど、貴族としては大きな家なのよ。逃げても見つかって捕まるわ。八歳の頃のわたしみたいに。そして今度こそ飼い殺しにされる」
今はミアが従順に見せているから外出ができているが、遠からずそれが難しくなるだろうとミアは感じていた。
「わたしが妾になるとしたら、次期当主の十歳上の従兄なんだけど……すごく性格が悪いの。そしてわたしを人間扱いしていない。八歳からの四年間で思い知ったから、わたしはここを目指したのよ」
ミアの持つ目を自分が持っていない劣等感の裏返しか、従兄は理由をつけてミアを甚振った。父親に注意されてからは生命の危機を感じることはなくなったが、言葉で甚振ることには余念がない。
そして彼の最近の楽しみは、妾になったミアをどう甚振ってやるか考えることだ。それを聞かされるたびに、ミアは「ああ早くレインに食べてもらいたい」と思ってやり過ごしてきたのだった。
「どう逃げても飼い殺しにされて、この目を繋ぐために凌辱されるくらいなら、あなたに食べてほしいの。だめ?」
凌辱という言葉に驚いたのだろう、レインが目を見開いた。青年姿になったレインは、それでも少年姿であった時と変わらない。ちょっとずれてて、テンポが遅くて、どこか純粋で。
「……友だち、なのに……」
そして、やさしい。
「友だちだから、食べてほしいの。わたし、他の誰でもなく、レインに食べてほしいわ。レインの糧になるんだったら、八歳からの日々にも意味があったように思えるから」
「……考えさせて」
心なしか肩を落としてしまったレインに言われて、その日はミアは引き下がった。
そして、翌日。
「僕は、ミアは友だちだから、食べたくない。でも、ミアは友だちだから、食べてほしいって言う。……じゃあ、食べなくてもいい方法はないかって、思って」
ミアが来た途端にそう話し出したレインに、ミアは目を瞬く。レインが真剣そのものなので、ミアは何を言い出すのか身構えた。
「聞いてみた。シェイドに」
「シェイドに?」
シェイドとはレインにミアは友だちなのではないかと聞いた、人喰いだ。それ以降もたまに話題に出ていたので、ミアも名前は知っている。彼が博識であるということも。
「諸刃の剣だって、シェイドは言った。でも、ミアを食べることは僕にはできない。それなら、って」
「……食べるのでないなら、何?」
「ミアを、僕と同じにすることなら、できるって」
一瞬、言われた意味がわからずに、ミアは固まった。それから、ゆっくりと思考が回って、言われたことを理解する。
「……それは、わたしも人喰いになるってこと?」
「そう。僕と同じになれば、場に守られる。人を人喰いにするには、同じ場の人喰いの寿命を捧げないといけないらしいけど、それ以外に必要なものはないって。ミアが人を食べたくなくても、僕と同じ場を共有していればミアは維持される。ーーねえ、ミア。僕と同じ、人喰いになって」
まっすぐに見つめられて、そう言われて。
突然の提案に驚くより、そんなふうに真剣に、自分のことを考えてくれたのだということが嬉しくて――ミアは、気づけば頷いていた。
ぱあっと、花開くようにレインが笑う。それはミアが初めて見る、レインの満面の笑みだった。
「よかった。これで僕はミアを食べなくて済む。ミアが誰かに食べられなくて済む」
「……それをずっと、気に病んでたの?」
「だって、ミアはずっと食べられたがってた。僕が食べないと言ったら、他の僕たちのところに行ってしまうんじゃないかと思って」
確かにそうなるのではと考えたことは一度ではなかったので、ミアは懸命に沈黙を守った。
「人喰いになるには、どうすればいいの?」
「僕が〈源〉を開く。ミアはそこに入って、変化を待つだけでいい」
「〈源〉?」
レインはいつも背後にしていた真っ白な大樹を指し示した。
「この森の、場の〈源〉は、この〈霧の大樹〉。……来て、ミア」
大樹に手をついたレインは、ミアを手招いた。ミアが近づくと、レインの手がするりと大樹に沈む。
驚くミアに、レインは微笑む。
「怖がらなくていい。〈源〉を開いただけ。〈源〉は僕らの〈源〉。僕らの生まれるところ。ここで、ミアも生まれ直せる」
「……記憶とか、なくなったりしない?」
「シェイドは大丈夫だって言ってた」
心もとない言葉だ。けれど、それを信じるしかないのだとミアは覚悟を決めた。
差し出されたレインの手を取る。その手をぎゅっと握ったレインは、そのままするりと大樹の中に入って――つまり、ミアもそこへ招かれた。
大樹の内側――と言っていいのか、そこはまた、濃い霧の中にいるように真っ白だった。
「ここにいるだけでいいの?」
「うん。シェイドはそう言ってた」
もしかしたらシェイドは、今レインがしているように、誰かを人喰いにしたことがあるのかもしれない、とミアはふと思った。それはただの思い付きだったけれど、間違っていないように思った。
「それじゃあ、おやすみ、ミア」
横たえられて、やさしく目元を覆われる。とろりとした眠りが襲ってきて、ミアはそのまま目を閉じた。
* * *
……霧の森には人喰いがいる。
真っ白な体に、真っ赤な目を持つおそろしい生き物が。
けれど最近、その伝承が変化したという。
真っ白な体に、紫の瞳を持つ何かが増えたのだと。
その何かの正体は、誰も知らない。
人喰い森のミアとレイン 空月 @soratuki
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