人喰い森のミアとレイン
空月
前編
十二歳になったその日、ミア・オースティンは霧の立ち込める森に足を踏み入れた。
木の根を乗り越え、湿った枯れ葉を踏みつけながら、思う。
(『人喰いの森』なんて恐れられてるから、どんなに恐ろしい森なのかと思ったけど……視界がきかないだけで、獣も出てこないし、なんだか拍子抜けしちゃう)
逆に言うと鳥などの鳴き声すら聞こえない、不気味なほどに静かな森だった。しかしその程度で怯むようなら、そもそも『人喰いの森』の話を知った上でこの森に入るなんてことはしない。
霧に視界を塞がれているとはいえ、伸ばした手が見えないというほどではないので、障害物があればぶつかる前に気付くだろう。転んだらその時はその時よね、とミアは足の向くままに森の中を彷徨うことにした。
そうしてどれほど進んだだろう。ふいに、視界が開けた。周囲の景色は視認できていなかったので詳細はわからないものの、明らかにそれまで歩いていた森の中とは木々の密集度が違うのがわかった。何より、霧が、完全に無くなってはいないものの、その一帯だけ薄まっていたのだ。
その中心に、彼はいた。大きな大きな、霧に染まったような真っ白な大木を背にして。
「……人間の、女の子?」
まるで不思議なものを見たかのように瞬いて呟いたのは、少年――の姿をしたモノだった。
月の光のような銀色の髪、見る者を魅了する輝きを放つ赤の瞳。体躯はミアとそれほど変わらない年頃の男の子のものだったけれど、人には持ち得ないその瞳が、何よりも雄弁に彼の正体を告げていた。
けれどミアはやっぱり拍子抜けしながら、彼ににっこりと笑いかけた。
「あなたが、この森に棲んでいるっていう『人喰い』さん?」
先ほどの呟きはこちらへの問いかけではなさそうだったから、ミアはとりあえず一番大事なところを訊ねる。
少年は臆する様子のないミアの態度に戸惑うかのように僅かに身を引いて、それから少しの逡巡の後に頷いた。
その肯定の動作に、ミアは叶うなら飛び上がって喜びたい気持ちになって――なぜならこんなにあっさりと『人喰い』に会えるとは思っていなかったので――けれど何事も第一印象が大事だと、昂ぶる感情を宥めて平静を装った。多少笑みが深くなったかもしれないが。
伝承ではなく、子供を脅かすだけの文句でもなく。本当に『人喰い』が棲んでいるのだと聞いていたから、もっと恐ろしいものを想像していた。ミアの何倍もの背丈があったり、恐怖で動けなくなるような見た目をしていたり、人と見れば襲い掛かってくる凶暴さを持っていたり。
そのどれでもなかったけれど、人ではないというのは一目見た瞬間から感覚が訴えていた。だからミアは、期待に胸を弾ませて言った。
「あなたがこの森の『人喰い』なら、どうぞ――わたしを食べてちょうだいな」
それが、ミア・オースティン――ミアと、『人喰い』のレインの、出会いだった。
* * *
ミアの『お願い』を聞いた赤い瞳の彼は、何かおかしな言葉が聞こえたような気がするけれど幻聴かな、とでも言い出しそうに首を傾げて、しかし返答を待つミアの様子に現実を認めることにしたのか、傾げた首を元に戻すと。
「ぼくは確かにこの森に棲む、人間たちに『人喰い』と呼ばれるモノだけど――きみを食べるのは無理だよ」
そんなふうにばっさりと、ミアの『お願い』を切り捨てた。
「どうして? あなたは『人喰い』なのよね?」
「うん。人間にはそう呼ばれている種族だね」
「『人喰い』は人間を食べるモノという認識は間違ってないのよね?」
「そうでなければ『人喰い』なんて呼ばれないからね」
「それじゃあどうしてわたしを食べてはくれないの? 私、おいしくなさそう? 確かに食い出はないかもしれないけど、少なくとも飢えてガリガリというわけではないし、それなりに肉は付いてるはずだし……女子供、とりわけ生娘の方が肉が柔らかくて『人喰い』の好みだって聞いたから、女で子供で生娘な今しかないと思って来たのだけど」
ミアが真剣に言い募ると、『人喰い』の彼は困ったように頬をかいた。
「人間の世界では、ぼくたちについてそんなふうに伝わっているんだ? ……怖がられる分には構わないんだけど、それを根拠に食べられに来る人間が出てくるとなると、困ったな」
その声音が、本当にどうしたものかと弱ったふうだったので、ミアは先ほどまでの期待が萎んでいくのを感じた。
「……わたし、あなたを困らせてる?」
「うん、結構困ってる」
頷かれて、ミアは消沈した。困らせるのはミアの本意ではなかった。ミアは、ただ、『人喰い』と呼ばれるモノなら自分を喜んで食べてくれる――後腐れなく殺してくれるんじゃないかと思っただけだったのだ。まさか、『人喰い』に「きみを食べるのは無理」なんて拒否されるなんて思ってもみなかったので。
「それは、……ごめんなさい。そうよね、『人喰い』にも好みはあるわよね。ところでこの近隣で、わたしを食べてくれそうな『人喰い』の知り合いに心当たりはない?」
「……きみは、食べられたいの?」
「そうよ。食べられたいの」
「それは、今すぐでないといけない?」
「そういうわけじゃないけど……」
ミアが答えると、「それなら、」と『人喰い』の彼は提案してきた。
「ぼくはあと二、三年で成体になる。それまで待つといいよ。そうしたら食べてあげることもできるから」
「成体?」
「ぼくたちには幼体と成体がある。幼体の間は人は食べない。成体になれば人を食べるようになるんだ」
「だから今は『食べるのは無理』なのね」
「そういうこと」
そういうことなら仕方ない、とミアは納得した。好みの問題というわけでもないとわかったことだし、この『人喰い』に食べてもらえるのならそれでいい。二、三年ならおそらく間に合うはずだし、と心中で呟く。
「私はミアというの。あなたは?」
「レイン。〈霧の森の〉レインだよ」
そうして名を交わした――それこそが、後の二人の関係を決定づけたのかもしれなかったが、その時の二人は無論そんな未来など知る由もなかった。
* * *
ミアは霧の立ち込める『人喰いの森』に足繁く通った。
レインにいなくなられては困るのでその確認のためでもあったし、単純に何のしがらみもない相手に関わるのが楽しかったのもあった。
だから、その問いがレインから出たのは、必然だったのかもしれない。
「ミアは、友だちがいないの?」
ミアは目を瞬いた。意外なことに驚いたのだった。いつもならミアが一方的に話して、レインが相槌をたまに打つという程度なのに、レインから話しかけてきたのが一つ。人外であるレインにそんなことを気にされるとは思わなかったのが一つ。
「友だち……そうね、今はいないわ」
「今は? 前はいた?」
「わたし、両親が死んで、親戚……に引き取られたの。だから新しい場所では、いないわ」
「そうなんだ」
不自然に言いよどんだミアを、けれどレインは追及しなかった。興味がないのか気づいていないのか、どちらでもありそうだとミアは思った。
「ぼくときみは、友だちなのかな」
ところがレインがそんなことを言い出したので、ミアは今度は戸惑った。
返答に窮しているうちに、レインはそんなことを言い出した理由をつらつらと話し出す。
「知り合いにミアのことを話したら、それは友だちというものじゃないのかって言われたんだ。言われてみればそうなのかもしれないと思って。きみはどう思う?」
問われて、ミアも考えてみる。
高い頻度で会いに来て、話をして。勝手に親しみを感じ始めてさえいる。あくまでもミアの側からは。しかし、翻ってレインの側からはどうなのだろう。レインは口数が多い方ではないので聞き役に回る方が多いし、会いに来るのはミアの側ばかりだ(当たり前だが)。
ミアはしばし悩んで「レインがわたしを友だちだと思うのなら、友だちになるのではないかしら……?」と言った。
するとレインは、ミアが通い詰めるようになってから初めて、ほんのりと頬を緩ませ、「そっか、じゃあ友だちだね」と微笑んだのだった。
衝撃だった。ミアは、ちらとも表情を変えないレインに、人の外の生き物だから笑ったりしないのかと思い始めていたので、驚きに固まった。
「……?」
固まったミアにレインが表情を無表情に戻して首を傾げて、やっとミアは我を取り戻した。
「その……あなた、笑えたのね」
「……笑ってた?」
不思議そうにレインは言った。自分の表情がわかっていなかったようだった。
「笑っていた……と思うわ。少なくとも、わたしはあなたが微笑んだと思って、驚いたんだもの」
「ぼくが笑えるなんて初めて知った。きみを見ていたからかな」
「わたしを?」
「きみの表情は、くるくる変わるから。見ていて飽きない。つられたのかも」
確かにこの『人喰いの森』では、ミアは何のしがらみも感じずに感情を表せていた。何故なら、レインしか――ミアのことをただのミアとしてしか見ないレインしかいないからだ。
その得難さを今更に思い知って、ミアは先程のレインの『友だち』という言葉を噛みしめた。
「……『友だちというものじゃないか』って言った知り合いって、人喰いのお仲間さん?」
「うん、そう。ぼくは〈霧の森の〉レインだけれど、彼には属する場所がない。棲み処がない。本来なら消滅するはずなのに生きてる。不思議」
「普通はレインのように、『人喰い』の伝承があるところにいるものなの?」
「場所が決まっている、という意味なら、そう。そこに『人喰い』がいることを人間が知っている場合も、知らない場合もある。ぼくたちは土地に根ざすから、自然と噂にはなるけれど」
そこまで聞いて、ミアはふと気づいた。レインはまだ『人を食べない』幼体なのに、ここには『人喰いの森』の伝承がある。その矛盾に。
「レインはまだ人を食べないのよね?」
「うん」
「じゃあ、もしかして、ここの森にはレインの前に『人喰い』がいたの?」
問うと、レインは少しだけ難しい顔をした。ほんの少し、眉が寄っただけではあったけれど。
「説明が難しい。ここにはずっとぼくしかいない。霧の森にはレインしかいない。ずっといたぼくの、成体だった時期に、人喰いをした。それが人の間で伝承となっている」
ミアは頭を捻った。レインの言いたいことを汲み取ろうと、言われたことを整理する。
「〈霧の森〉にいるのは、レインだけ?」
「そう」
「今のレインは幼体だけど、成体だったときがあった?」
「ぼくにはない。だけどレインにはある」
「……レインという名前の、別の人喰いさんがいた?」
「違う。……人とぼくらの生態は違う。ぼくはずっとレインとしてこの森にいるけれど、それは連続した意識の上でのことじゃない。ぼくであり、ぼくでないレインがいた」
「以前は、レインはレインだけど、意識の上ではあなたと違う『レイン』が、いた?」
「それが近い……と思う。ぼくもぼくのことを誰かに説明するのが初めてだから、うまく説明できない」
(レインは幼体から成体を繰り返しているってことなのかしら。意識としては別人だというなら、生まれ変わりみたいなもの?)
とりあえず、レインも一応近いと言ってくれたことだし、そういう理解でいいということにしておく。
その後はまた他愛ない――主にミアの日常の話になったけれど、その一連の話は、後々までもミアの心の中に残ったのだった。
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