そして今、すべての結末が僕の足元にある。それは上野らしく、目が覚めるほどに赤い。


 上野は首元を押さえ、血を吐きながら僕を睨みつけている。それは侮蔑に満ちているようにも見えたし、もっと純粋な優越のようにも見えた。

 俺はな、と上野は低くうめく。


「完全な善人であるはずだった。なれるはずだった。でもあの時、お前に命を救われた時、負けたと思った。俺は自分の命を危険にさらしてまで、他人の命を助けることなんかできなかった。あの時の俺には、そこまでの善行は、できなかった」


 もう黙ってほしいと思った。あんなに光っていた上野は、今では黒々と炎上していた。体内から漏れ出る邪悪な気配が、周囲の負の波に揺られて増幅していくのが見える。


「あれ以来ずっとお前の近くにいたのは、このじりじりした劣等感を振り払うためだ。そのために、常にお前の横にいて、命の危機のその瞬間に、お前の一歩前に踏み出してやると決めていた。それで俺は、俺の善行を達成してやると、そう思ってずっと」


 上野の呼吸が乱れて血が飛び散る。僕は抱えて体を起こしてやろうとするが、噛み付くような勢いで拒否される。

 上野の目はただ黒い。僕の知らない目をしている。


 殺されるかと思う程の訓練を経て、数年の現場経験を積んだのち、僕と上野がこの特殊急襲醜波部隊に入ったのは半年前のことだった。人間の思考に悪影響を及ぼす波の存在とその性質が科学的に感知できるようになって、もうすぐ二年が経つ頃だった。

「醜波」と名付けられたその波に対抗するためにこの部隊は作られ、僕はこの見える目によって、上野は身体能力と持ち前のバイタリティによって前線に送られた。


 この国における負の感情の総量は年々増してきている。その一部が落下したのが四日前。巨大なエネルギーはさらなる悪意を生み、各地に醜悪で陰惨な事件や事故を引き起こした。負の感情は寄り集まり、さらに大きな落下を連鎖的に発生させた。

 上野はその犠牲者だった。同じ部隊の人間が醜波に飲まれ、銃を乱射した。上野は前に踏み出して僕をかばい、弾たれた。


「俺は自分の命を差し出して、お前を救った。お前にできることが、俺にできないわけないんだよ……!」


 波は黒く渦を巻きながら僕らの周囲を通過していく。あらゆる悪意を絡め取りながら、肥大し膨張を続ける。

 だから今上野の口から吐き出される上野らしからぬ言葉は、奴が体の底に溜めてきた負の感情であり、それが波に呼応して発露に至っただけのことだ。それはわかっている。

 どんな現場を経験しようと、僕は諦観により、上野は信念により、その本質を変えることはなかった。上野はいつでも上野だった。それが今、無慈悲な波にさらされて瓦解していく。


「なぁ山下、見ただろ。俺は、今、してやった! 日陰の陰気なお前にできて、陽を浴びる善人の俺にできないわけがない! 見ろ、この血! はは、俺の勝ちだ! ははは!!」


 どんなに善くあろうとする人間にも、黒を纏う感情は湧く。当たり前だ。清い心だけでいられるはずがない。どんなに光と共にあろうとも、恨みも憎しみも妬みも怒りも奢りも蔑みも怖れも湧いてくる。僕は上野の中に確かに存在していた人間らしい感情に、心の底から同意を示す。


「そうだね。お前の勝ちだよ」


 上野はひどく歪んだ表情をして崩れた。笑っているのか苦しんでいるのか、もう僕にはわからなかった。


 僕が上野の命を助けたあの時から五年以上が経過していた。あの時上野の前に出る一歩が踏み出せたのは、奴の発する光がこの世から失われるのは避けなければいけないと、直感で、それこそ命の危機と同等のレベルで感じたからだ。

 僕は負で満ちた世界が怖くてたまらなかったが、一筋の光にすがりつきたくて上野を助けた。それだけだったのだと、今ならわかる。


「大事だよな、いつも読んでるやつだもんな」


 そう言って本を手渡した、あの時の上野はすでに、僕にとっては完全な光だった。


 上野は薄く目を閉じた。抱え上げてみたが、ひたすらに重いだけだった。

 僕は初めて上野の顔を近くで見た。眩しくて直視することのなかったその顔は、思いのほか平凡な造形をしていた。

 奴もまた、欠乏感や焦燥を抱えるただの人間だったのだ。僕が陰の者に徹して身を守ったように、上野も発光する完全体として完成する必要があったのだろう。

 なんだ、と思った。お前も同じか。


 今ならわかり合える友達になれる気がしたがもう遅かったし、無性に苛立つし涙が出た。これが醜波にあてられたせいなのかただの本心なのか、判別できるほど僕ももう正気ではないような気がした。

 現在見える波の状況を後続の部隊へ告げる。湧き立つ負の感情に、震える息を吐いた。


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光の結末 古川 @Mckinney

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