光の結末

古川


 人間の感情には質量があり、でかくて強いほど重い。

 そいつの落下は水面に石が落ちるのと同じで、重いほど衝撃はでかく、生まれる波は高く、影響は遠くまで波及する。


「で、僕はそれが、その、見えるっていう……」


 僕の要領を得ない説明に、上野は、すごい、と感嘆の声を上げた。


「だから山下は俺のことを助けてくれたのか」


 すごいよ、山下はすごい、と上野は繰り返す。輝く目で僕を見るので、僕はその光を遮断するため目をつぶる。


 上野はようの者だった。容姿、発言、態度、人格、存在感など全てが文字通り光を放つ、物理的に輝かしい奴だった。

 いんの者である僕の目に、奴の存在は眩しすぎた。その光で焼き切られないよう、身を守るので精一杯だった。


 僕は「感情の落下」から上野の命を救った、ということになっている。

 負の感情というのは寄り集まって質量を増幅させる性質があり、それらが自重に耐えかねて落下したその地点で様々な惨事を引き起こす。人間の思考に悪い波風を立たせ、わずかな悪意をも助長し成長させ、邪悪な形で発露する。それは悪質な殺傷事件、突発的な無差別暴力、不可解な行方不明、意味不明な猟奇的事件などとなって現れる。

 大なり小なりそういう嫌な類の事象はだいたい「感情の落下」によって発生した波が原因で誘発されている。僕はそれが落ちることによって起こる波を目視することができるし、わりとそれを引き寄せがちな性質であるらしい。

 あの日はたまたま上野が僕の目の前にいた。


「ごめん、大事なやつだった?」


 発光しながら、上野は僕に本を差し出した。上野とつるむ、同じく陽の者たちのうちの一人が僕にぶつかって、僕の手から落ちた本だった。

 陽の者というのはその性質により、陰の者を格下、劣等な存在として扱うか、もしくは無視する。しかし上野は違った。すぐさま拾い上げ、端の折れた部分を指で触りながら、僕の眼鏡を覗き込んだ。その光の凄まじさに、僕の眼球は潰れかけた。


「大事だよな、いつも読んでるやつだもんな。ごめんな」


 僕にいい人間ぶったところで得られる利益など皆無だというのに、心底すまなそうに謝罪する。不可解すぎて恐怖すら感じた。と同時に、謎の羞恥に震える。自衛と回避、身の安全の確保のみを主軸とする人生自体がぐらりと揺らいだような気にさせる、そういう類の光だった。

 落下が起こったのは、その直後だった。


 ホームの向こうに落ちたそれは中規模の波を起こし、こちらへと波紋を広げた。それに呼応したらしいひとつの悪意が、突如刃物を翻した。

 血と悲鳴。局地的な地獄。細部は違えど、僕にとってはよく見る光景だった。だからその、無作為に突きつけられる切っ先が上野に向かった時の僕の感情は、ただの無だったとしか思えない。

 なのに、僕は一歩進み出て上野の前に立ち、悪意に取り憑かれた人物の刃物を素手で掴んだ。握りながら、僕は一体なにしてるんだろう、と思った。


 結果、死ぬほど痛かったし死んだほうがましだった。僕は犯人ともみ合って脇腹を負傷し、死の淵を彷徨った挙げ句に生還した。

 目覚めた僕は勇敢な行動が称賛され一瞬だけ英雄扱いされたがすぐに収束し、ただの陰キャ高校生へと戻った。世間というものの手のひら返しの素早さに恐怖を覚えたし、軽薄な人間の一面に触れ、人の本質というのはやはり信頼に値しないのだと再確認した。

 そんな中で上野だけが僕を英雄視することをやめなかった。


「山下のおかげで俺は今生きてるんだ」


 相変わらず発光しながら言うので、僕は毎度目をつぶって耐えた。光の威力に圧され、いや別に、とか、そんなつもりじゃ、とか言い訳を並べることしかできず、返事らしい言葉さえ返せなかった。

 明らかに噛み合わない会話を続けても、上野は僕に対して友好的な姿勢を崩さず、友達と接する気安さで僕に接し、それでいて自然に敬意を表明し続けた。陽の者の陰の者への態度としてあまりに異質に思えたが、命を救われたという事実がそのあたりを歪ませているのだろうと納得することにした。


 僕としては恐怖という感情が先行した。とにかく眩しいので、上野と向き合うことは身体的苦痛が大きかった。そのことをしどろもどろに上野に伝えてみたところ、


「人の感じ方がそれぞれだっていうのは理解してたつもりで、俺と山下はそのへんの感覚がずいぶん違うんだろうなってわかってたはずなのに、全然わかってなかったな俺。ごめんな」


 と眩しく謝られる始末で手に負えなかった。もうどうせならこの特異体質すら吐露してしまった方が回りくどく説明するより早いと思えた。負の感情の波が見える体質など物騒で気持ち悪いこと間違いなし、一発で見限ってくれるに違いないと期待して告白した結果が先のセリフだ。


「すごいよ、山下はすごい」

「いや違、その、ただの生まれつきで、いやこれほんと気持ち悪くて、つまり近くにいない方が身のためって、いうか……」


 上野は狼狽える僕の様子を見てしばらく考えてから、そうか、と光った。


「俺にまた危険が近付くといけないから、お前心配してくれてるんだな。いいんだよ、俺はいいんだ」


 跳ね返された。独自の解釈で物事を都合よく捉えて前向きに進もうとする態度、本当に陽の者の極みというか、上野に関してはその領域を突き抜けていると思った。所詮、光の前で陰は焼き殺される運命なのだ。


 だったら、と僕の中の薄暗い部分が言う。焼き殺してもらえるなら、僕の奥底に巣食い続ける黒い感情ごと全部この場に吐き出せば、上野がその光でもって一瞬にして灰にしてくれるのではないかと思った。

 最初は両親のお互いへの憎悪が見えたこと。そのせいでなにも信頼できなくなったこと。笑顔の裏側の邪気ばかり探ってしまって友達ができないこと。人の目を直視できないこと。人間の本質が醜悪であることにいちいち傷付いていること。そのすべてを打ち明けてしまおうかと思った。

 しかし上野は頷く。奴の放つ光は、白にも金にも見えた。どこにも闇の気配がない。


「それは確かにすごい能力だし、怖い思いもすると思うけど、でもお前はあの時逃げなかった。お前は俺の一歩前に出て、その恐怖に立ち向かった。それがすごいって俺は思う」


 僕は目を閉じる。瞼の裏が冷たい。相容れないのだと思い知る。僕は上野がわからない。そんなふうに光る感情を、僕は知らない。


 僕が上野と同じ気持ちになれないように、上野も僕と同じ気持ちにはなれないだろうと思った。奴は奴の持ち前の明るさで僕を陽のあたる場所へと引き上げることができるかもしれないが、僕は誰にも傷付けられることのない奥深くで穏便にうずくまっていたいのだと、それだけを望んでいるらしい。

 僕はどこまでも陰湿で卑屈で自己中心的。そのことがわかった。僕が僕である以上、あらゆるあがきは不毛なのだ。


 しかし上野は陽の者らしく、僕が一人でうつむき続けるのを許さなかった。


「山下。お前はここに行くべきだ」


 進路を決める段になり、上野が僕に突きつけてきたのは国家機関へと続く訓練校の入学資料だった。僕の特殊能力を活かし、負の感情を根源とする事件事故から人々を守る側になれという。


「俺も行くぞ。俺も、お前の横で悪意と戦う。なんたってこれ、お前に助けてもらった命だからさ」


 どん、と胸を叩いて言う上野。空虚な穴だけだった僕の未来に、現実的で具体的な策が無理矢理ねじ込まれた。

 僕は拒否する意志すら持ち合わせていなかったため、それで決定してしまった。どうにでもなってくれていいと思った。そんな僕の本心とは裏腹に、上野は嬉しそうだった。

 眩しさに目を伏せながら、でも確かに、見てみたいと思った。上野の光が、この負で満ちた世界のどこまでを照らせるのかを。

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