やわたり

笹 慎

転居

 私には、かなり歳の離れた妹がいる。その妹が就職が決まり、一人暮らしをするというので、家族総出で引っ越しを手伝った。妹が選んだ賃貸マンションは新築で、駅からも近く街全体の治安も良い地域だったので安心したことをよく覚えている。



 そんな妹から私に電話があったのは、彼女が一人暮らしを始めて半年ほど経ったころだったであろうか。


「今住んでいるところから、どうしてもすぐに引っ越したいんだけど、ママとパパには一人暮らし始めるのに、たくさんお金借りたばかりだし言いづらくて……」


 新居への敷金礼金と引っ越し代が手持ちで足りず、貸してほしいとのお願いだった。ただ、どうして引っ越ししたいのか理由を聞いても要領を得ない。「とにかく早く引っ越しをしたい」そればかりだ。


「お金貸すのはいいけど、引っ越しの理由を知りたい。ストーカーとかなら警察に一緒に相談行こうよ」


 若い女性の一人暮らしだ。おかしな人間に目をつけられた可能性は高かった。


「……それはかもしれないから言えない」


 妹はとても小さな声で、そう言った。実際にストーカーから盗聴されているのか、妄想か。妹の声からとても強いストレスを感じ取り、私は彼女が被害妄想的になっている可能性も視野に入れる。


 というのも私自身、仕事でコンを詰めすぎて幻聴が聞こえるようになったことがあり、当時の私は見るからに情緒不安定だったと後から夫に言われた。夫に半ば強制的に連れて行かれたメンタルクリニックのお陰で今は病状も落ち着いている。


 意外と自分ではこういったことは気が付けない。新卒の妹も慣れない会社員生活で、知らず知らずのうちに疲れてしまったのかもしれない。


 私は様々な点からとても心配になり、「お金を渡すついでに会いに行く」と彼女に告げると、しばらく沈黙したあとで妹は絞り出すように口を開いた。


「……家だとから、お姉ちゃんちに私が行きます」


 この電話のあと私は念のため、以前お世話になったメンタルクリニックに事情を話して、もしもの場合はそのまま病院に連れて行けるように彼女の来訪日に合わせて予約を取った。



◇◇◇



 久しぶりに会った妹は、酷いクマを作って土気色の顔をしていた。


「……両隣と上の階の騒音が酷くて寝れないの」


 リビングのダイニングテーブルに向かい合って座った妹は事情を説明しながらも、ずっと絶えず貧乏ゆすりを繰り返していた。目もキョロキョロと終始落ち着きなく左右に動かしている。彼女が精神的にまいっているのは明らかだ。


 妹が住んでいる家は鉄筋コンクリート造りのマンションで気密性が高く、隣の家の音は騒音に感じるほど聞こえないはずだが、かなり神経過敏になっているのかもしれない。


「だからホテルに今は泊ってるんだけど、でも隣の部屋と上の階の騒音が酷くて……」


 どこに行っても聞こえるならば、家の問題ではなく、妹自身の問題だろう。幻聴なのか、他人の生活音に過敏になってるだけなのか。なるべく私は子どもをあやすような声で妹に問いかけた。


「聞こえてくる音は、いつも同じ? それとも違う音? いまも聞こえてる?」


 貧乏ゆすりが一層激しくなった。妹は腕を交差させて、自分で自分を抱きしめ震えている。


「同じ音。お姉ちゃんちだと、聞こえない……でもいつもしばらく経ってからし始めるから……」


 周囲を警戒している様子で、頻繁に後ろを振り返って確認している妹を見ながら、「これは病院に連れて行こう」と私は決心した。


「そっか。ちなみにどんな音が聞こえてくるの?」

「……ガリガリ……違うかも……ギリギリ……? わかんない!」

「大丈夫。大丈夫。落ち着いてね。壁をひっかいてるような音かな?」


 妹は不安そうに後ろを警戒しながら頷いた。私は医師に病状を妹に代わり説明できるように、なるべく情報を聞き出す。


「いつから始まったか思い出せる?」

「……たぶん三カ月前くらい」


 かわいそうに。三カ月も前からなんて。私は幻聴に苦しんだ自分の経験を思い出して涙がこみあげてきてしまったが、なんとか質問を続けた。


「その時、何があったのかな?」

「…………引っ越し祝いに大学の先輩が訪ねてきた次のひ……」



 最後まで言い終わる前に、急にと妹の眼球が後ろにひっくり返った。


 彼女の見開かれた白目を見て、思わず「ヒィッ」と私は悲鳴を上げてしまう。妹は白目をむいたまま身体をユラユラと揺らし、それからガタリと音を鳴らして椅子を立った。


「お気に召していただけたのですか!? ええ……はい……ありがとうございます!」


 まるで誰かと話をしているような妹を唖然として見る。内容だけなら仕事の電話のように聞こえるが、妹は誰もいない空間に向かって話しかけていた。テーブルの上に置いた彼女のスマホももちろん通話中ではない。


「カミナサマがそうおっしゃるなら……ええ……はい……助かります……はい……」


 なおも妹は虚空に話しかけ続ける。その尋常ならざる様子に、私の心臓の鼓動が早くなる。


「いえいえ、仕方のないことです。こういったことは、カミナサマのお気持ちが一番ですから……ええ……はい……では、失礼します」



 電話を切ったようなセリフを言い終わると、妹はストンと椅子に腰を落とした。そして、白目を閉じると、頭をダラリと下げる。


 私はしばらく硬直していたが、なかなか動かない妹が心配になり、恐る恐る彼女の肩をゆすった。


「ねぇ、大丈夫なの……」


 ビクッと肩を震わせて、妹は顔をあげる。その顔は先ほどまでの不安そうな表情から一変し、とても晴れやかだった。


「お姉ちゃん、ごめんなさい。もうそうだから、お金も平気です。色々と


 そう言い終わると、妹はそそくさと玄関に向かい帰って行ってしまった。彼女の背中を呆然として見送る。釈然としなかったが、また折を見て電話をかけて様子をみようと思った。



◆◆◆



 ギリリ……ギリリ……ガリッ……ギリリ……。


 妹が来た翌日からずっと頭の中をひっかかれているような音が聞こえる。念のため夫に「この音聞こえる?」と質問してみた。夫は首を横に振る。


 ガリッ……ギリリ……ギリリ……ガリッ……ギリリ……。


 夫は「また幻聴かな」と慣れた様子で病院に予約の電話をかけたが、私はこれが幻聴でないことを知っている。


 ギギギギギギギ……ガリッ……ギリリ……ガリッ……。


 そう。カミナサマは、私のにいらっしゃった。


 ギリリ……ギリリ……ガリッ……ガリッ……ギリリ……。


 でも、私はカミナサマが出て行ってくれる方法を知っているから大丈夫。


 ガリッ……ギリリ……ギリリ……ガリッ……ギリリ……ギギギギギギギ……。


 夫ではダメだった。カミナサマは納得してくれない。



 もっと……もっと……大きな家を探してあげないと……——————

 


(完)

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やわたり 笹 慎 @sasa_makoto_2022

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