後編:烏の誕生

なんということだ。

弓を射った時の手応えが、まだ手に残っている。

それが敵を射抜いた感覚なのか、それとも恩人を殺したものなのか。

この不気味さだけでも、心が悲鳴をあげそうになる。

落ち着け。こんな時にこそ、冷静になれ。

もう一度、あの時の景色を呼び起こす。

曇天の森。生い茂る木。その隙間に、馬に乗った人間が見える。

あの時は確かに山鴉と思ったのに、今では確証が持てない。

駄目だ。何回考えても、あの人間が鳩姫様であるという可能性を否定しきれない。

いつの間にか森の風景は消え、鳩姫様との記憶が流れ出した。

どん底の日々から救い出してくれた鳩姫様。

僕にとって彼女は光であり、あの日から自分の生きる意味となった。

それから武術でもなんでも、鳩姫様をお守りするためになんでも身につけていった。

全ては鳩姫様のためであった。

算術を学んだのも、弓を再び練習し始めたのも、全て鳩姫様に言われたからだ。

長年空白だった穴を初めて埋めてくれた、恩人である。

そんな人を殺めてしまったのかもしれない。

体が、血液が全部どこかへ行ってしまったのかのように、急激に冷えていく。

ああ、どうすればいいのだ。

森を見るために、外へ移動する。

空は相変わらずの曇天で、空気が体にまとわりつくかのように重たい。

覚悟を決めよう。

矢には自分の名前が彫ってある。

鳩姫様を迎えに行った小隊は、きっと目にするだろう。

鳩姫様が帰ってきたら、自分は敵大将殺しの英雄である。

帰ってこなければ、国の重要人物を殺した反逆者だ。

残酷な運命の分かれ道が、刻一刻と迫ってきている。

僕が、一体誰を殺したのか。

自分にできることは、ただ祈ることだ。

鳩姫様、どうかご無事でいてください。


『まだ被ってるのか』

突然、声が聞こえた。

どこだ?

周りを見渡しても、そこには誰もいない。

『ここだよ、ここ。下を見ろ』

見るとそこには、一匹のからすがいた。

からすは、薄汚れた羽根を折りたたみ、切り株の上に座っている。

からすが喋った?自分は思っているより疲れているのだろうか。

しかし、今はそんなことどうだっていい。

「やめてくれ、今忙しいんだ。これ以上面倒ごとを持ち込むな」

『つれないな。俺とお前の仲じゃあないか』

からすは、馴れ馴れしく話しかけてくる。初対面のくせに。

『それに何が忙しいんだ。何もしてないじゃないか』

「うるさいな」

だんだんムカついてきた。なんなんだ、こいつは。

今、僕がどんな気持ちで祈っているのか分かるのか?

「何も知らないくせに」

僕がそう呟くと、からすは笑った。

『何も知らないわけがないだろう。俺はお前なのだからな』

こいつは一体何を言っているんだ?

僕は人間で、こいつは鳥だ。

からすであると言うだけで仲間意識を持たないでほしい。

「とにかく、僕は祈るのに忙しいんだ。邪魔しないでくれ」

『誰にだ?自分のためにか?』

頭から、プツンと音が鳴ったような気がした。

僕は頭にきて、からすに掴みかかった。

しかし、からすはそれをひらりとかわした。

「おい、いい加減にしろ」

自分への執着など、とうの昔に失くした。

そんなことも知らないくせに我知り顔で話しているのが、どうしても腹が立った。

『そんな、本当は自分でもわかっているくせに』

からすは、ニタニタと薄気味悪い笑みを浮かべながら続けた。

『お前は鳩姫なんか大事じゃない、自分大好き人間だろう?』

ドス黒い感情が、自分中から湧き上がってくるのを感じる。

殺意が、自然と目に宿る。

「ふざけるな」

唇が震え、呂律が回らない。

鳩姫様は、僕の光だ。

彼女こそが僕の人生であり、生きる糧である。

こいつは一体何の権利があって、僕の人生を否定しているのだ。

「鳩姫様が大事じゃない?そんなことあるわけないだろ」

からすは、あからさまにため息をついた。

『はあ、仕方がない。お前には早く自覚してもらわんといけないからな』

小さいがどこまでも黒い目が、僕の方へ真っ直ぐと向く。

『俺が説明してやるよ』


いつの間にか心配という感情は消え去り、怒りが頭を埋め尽くしていた。

喋るからすだか何だか知らないが、ここまで馬鹿にされたのは初めてだ。

今すぐにでも殺してやりたいが、掴もうとすると避けられてしまう。

怒鳴ることしか、できない。

「説明されても何も変わらない。自分のことは自分が一番よく分かっている」

『果たして、本当にそうかな?』

からすのくせに、器用に口角を上げて笑う。

『俺には、今も自分が馬鹿にされて怒っているようにしか見えないがな』

「そんなわけないだろ」

やはりこいつは、僕のことを何一つ分かっていない。

僕は今、鳩姫を馬鹿にされたことに怒っているのだ。

『もう祈るのはいいのか?』

「お前が邪魔をするからだろ」

何なんだ、こいつ。

『まあいいだろう』

からすは、一つ咳払いをして続けた。

『それでは、朝に鳩姫と山鴉を間違えたことはなんて説明するんだ?』

少し、心が揺らされる。

『大切な人のはずなのに、他人との見分けもつかないのか』

それを言われると、確かにきつい。

悔やんでも悔やみきれない、もう思い出したくもないミスである。

しかしそれと、僕が本当に鳩姫様を慕っているかは別問題だ。

「それは確かに、反省しても仕切れない。けれど鳩姫様と山鴉は、皆の目から見ても確かに似ていた。それでは、僕が鳩姫様を尊敬していることの否定にはならないぞ」

『なるほど。ではお前は、鳩姫と山鴉を見分けられないということを認めるんだな』

「ああ」

悔しいが、それは事実だ。

『それならば、なぜお前は弓を引いたのだ?』

息が詰まる。

『馬上の人間に矢を射るときお前は、躊躇いなく弓を引いた。鳩姫と山鴉を見分けられないということを、自覚しているにも関わらずにな』

急いで反論しようとするが、言葉が見つからない。

「でも・・・」

『この時点でおかしくないか?少しでも鳩姫を心配する気持ちがあるならば、殺そうとするときに躊躇いがあって然るべきだろう。お前は既に一度、鳩姫と山鴉を間違えたのだからな』

からすの言葉の一つ一つが、僕の心の何かを破壊していく。

先ほどまでは自信満々だったのに、鳩姫様を尊敬しているのか、自分でも分からなくなってくる。

『それにもかかわらずお前は、視線の先にいる相手が山鴉であると断定し、怒りに任せて矢を放った。鳩姫への心配よりも、その殺意が優ったのだろう?』

疑問がどんどん増えていき、頭の中を駆け巡る。

なぜ僕は、すぐ弓を引いたのだろうか。

なぜ僕は、あんなにも山鴉を殺そうと思ったのだろうか。

なぜ僕は、そのことを疑問にも思わなかったのだろうか。

「ちが、」

『気持ちはわかるぜ。せっかく鳩姫の近くで順調に出世街道を歩いていたのに、自分のミスで転落しそうになったのだからな。元凶である山鴉を恨む気持ちも、自分の手で山鴉を殺してミスを取り返そうとする気持ちも、よーく理解できる』

否定できない事実に包まれる。

思えば僕は最初から、苛立っているばかりで鳩姫様を心配していなかった。

そうだ、弓を練習したのも、鳩姫様を守ったのも、全部、、、

いや、違う。やめてくれ、これ以上僕の人生を壊さないでくれ。

体の中で、何かが蠢いているような感じがする。

腕の紋様が痛む。

『そもそも、お前が誰かを生きがいにするような奴なら、長い間一人で生きるなんてことできるはずないだろ』

やめろ、僕は、僕は、、、

目の前が暗くなり、体が浮いているような感覚に陥る。

からすは嬉しそうに、続ける。

『お前はあの時から、自分の命のためなら死んでもいいと思えるような、しぶとく汚い、真っ黒な烏だったんだよ』

遠のく意識の中で、かあ、と鳴く声が聞こえた。



カラスは目を覚まし、辺りを見渡した。

さっきまでのからすは、どこかに行ったようだ。姿が見えない。

迎えに行った小隊は、まだ帰ってきていない。

ひとまずどうするべきか考えるが、結局することは同じだった。

カラスは、森へ向かって祈った。

『無事でいてくれよ、鳩姫』

果たして、その言葉に鳩姫を心配する気持ちがあったかどうかは、言うまでもない。

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烏の自覚 カラス @karasu_14

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