烏の自覚
カラス
前編:カラスの過ち
カラスと呼ばれる少年がいた。
背は低く、髪の毛も目の色も吸い込まれるような黒で、全体的に薄汚れている。その名の通り、からすのような風貌である。
物心がついた時から親はおらず、毎日を自分の手で食い繋いでいた。気づいた時から独りであったため、本当に人の親から生まれてきたのかも疑わしいが、少年の腕にある黒い羽根の紋様が、彼の出自が烏の集落であることを示している。
そんな少年を人々が受け入れるわけもなく、頼れる者どころか味方さえいなかった。
外に出ているだけで疎まれ、何か食べるものはないかとゴミ箱を漁ろうとすると、いつまでも棒を持って追いかけ回された。
生きていても辛い人生。生きるだけでも辛い人生。
彼の目には、最初から明るい色など写っていなかった。
そんな少年を救ったのが鳩姫であった。
ある年の冬。命の気配が消える季節。
小動物たちは冬籠を始め、鳥たちは南へと向かった。
主な食料調達が狩りであった少年は、何かを口にすることさえ、ままならなかった。
最後に食事をとってから何日経ったかも分からない。
ついに意識が薄れかけたその時、少年へ手が差し伸べられた。
初めて向けられた善意。しかも、相手は何よりも高貴なお方だ。
どれだけ眩しく感じたことか。
少年は震える手で何とかその手をとり、感じたことのなかった温もりにまどろんだ。
鳩姫は少年を家に向かい入れ、自ら面倒を見た。
食べ物をたくさん与え、体も清潔にし、質の高い教育も施した。
栄養が足りなかっただけで、少年は成長期であり、何でも吸収していった。
背はぐんぐん伸び、算術も理解し、剣術弓術馬術など大抵の武術を習得した。
少年は立派な青年へと成長した。
鳩姫は青年を、側仕えとして近くに置いた。
品行方正で従順。優秀であるということも理由の一つではあったが、何より鳩姫への忠義心が高かった。
誰も助けてくれなかった真っ暗闇のような時期、なぜ生きているのかも分からず、そんなことを考える余裕もなかった時に突然現れた鳩姫は、青年にとって光であったと同時に、生きる意味ともなった。
鳩姫に拾われてから今までの間、一度たりとも恩を忘れたことはない。
青年は一日中鳩姫の近くにつき、不届な輩から鳩姫を守っていた。
国の重要人物であった鳩姫は、かなりの頻度で襲われたが、全て青年が跳ね除けた。
人々は、未だ青年の腕にある紋様を見て躊躇いを覚えることもあるが、青年のひたむきな姿に心を打たれ、親しみを込めて青年をカラスと呼ぶようになった。
こうして、青年に居場所ができた。
明日への不安はなくなり、生きる意味もできた。
満ち足りた時間は、穏やかに過ぎていった。
ある朝、青年はいつも通り鳩姫の護衛をしていた。
青年は常に鳩姫の近くにいるのだが、部屋などには無論入らない。
その時も青年は部屋の前で待機しており、中にいる鳩姫を守るために、何人たりとも通さぬように目を光らせていた。
そこへ、鳩姫がやってきた。
中にいると思っていた鳩姫が、目の前に立っている。
青年は驚き、不思議に思ったものの、部屋に入ろうとしている鳩姫に話しかけようとはしなかった。
鳩姫の行動に割り込む。そんな選択肢が、青年の頭の中には無かったのだ。
数分後、尋常でない静けさに流石に不信感を覚えた青年が、ようやく部屋に入った。
そこには鳩姫の姿はなく、代わりに黒い羽根が置いてあった。
当然、国中が騒然とした。
国の重要人物が攫われたのだ。国全体の問題と言っても過言ではない。
捜査が直ちに始められ、犯人はすぐに明らかになった。
烏の集落だ。
盗みが生業の犯罪者集団である烏の集落は、一人一人が卓越した技術を持っており、どんなものも鮮やかに盗み出す、国賊どもである。
彼らは自分達がいた印として、いつも黒い羽根を残していく。
そして、頭領である山鴉は、鳩姫と生き写しかのように、容姿が瓜二つなのだ。
青年は呆然とした。
自分のせいで、自分が山鴉を通してしまったせいで、鳩姫が危険な目に遭っている。
しかも、山鴉は自分と同郷である。
周りは気にするなと言ってくれるが、青年の心には届かなかった。
鳩姫。山鴉。誘拐。
空っぽの頭にこれらの文字が浮かび、青年の心には沸々と怒りが湧いてきた。
憎い。集落の全てが憎い。
自分の腕の紋様を今すぐ剥ぎ取りたくなる。
鳩姫を攫い、生きがいを奪った山鴉のことが、どうしても許せなかった。
必ず自分の手で、山鴉を殺してやる。
そう決心した青年だが、救出作戦の本部から外されてしまった。
いつもは冷静沈着で頼りになるが、その日は妙に興奮していた。
早く攻めようとしか言わないのだから、外されても仕方ない。
人々は青年に、食料調達を頼んだ。
青年は今すぐに一人ででも集落へ行きたかったが、そんなことをしても意味がないと、かろうじて残っていた理性が青年を踏みとどめた。
集落までの道のりは短くない。食料調達も立派な仕事だ。
青年はそう自分に言い聞かせ、森へと向かった。
少年時代、よく来ていた森だ。
国を囲うように生えた木々は、今にも家々を飲み込むように、鬱蒼と茂っている。
森の外側は無法地帯となっており、烏の集落もそこにある。
青年は弓を担ぎ、獲物を見つけるために少し盛り上がった丘を上り始めた。
澄んだ空気に、木々の青い匂い。
空は曇っているが、懐かしい森の雰囲気に、青年の荒ぶる心は幾分か落ち着いた。
それから青年は、獲物を見つけては弓で狩り、回収してまた丘に上って獲物を探す、というのをしばらく続けた。
その繰り返しの中で、青年は無心になり、頭を整理する余裕が生まれた。
救出作戦を立てるのは仲間に任せ、しっかり準備を整えてから山鴉を倒しに行こう。
そう考えた青年は、一層狩りに注力した。
子供の頃は、生きるためにがむしゃらに毎日を生きていた。
失敗すれば死ぬ。そんな緊張感から上達した弓の腕や視力は、今も生かされている。
あの毎日も無駄では無かったのかな、となどと青年が考えていると突然、視界の隅に不審な影が映った。
数百メートル離れたところ、国と森の外側をつなぐ唯一の道の上を、馬に乗った人物が砂埃を立てながら向かってきている。
こんな時に、一体誰だろうか。
目を凝らした青年は、再び自分の心が冷えていくのを感じた。
山鴉だ。
青年は、気づいたら弓を構えていた。
葉々の間から見えるその顔は、忘れもしないあの顔である。
青年は、殺意が異常なほど高まるのを自分でも感じた。
絶対に中ててやる。
騒ぐ心を落ち着かせ、目標をよく見て狙いを定める。
なにやら急いでいるみたいで、まるで何かに追われているかのように焦った顔をしていたが、青年には全く関係のないことだった。
風は無く、視界は開けている。最高の環境だ。
矢は鳩姫からもらった、名前入りの特別な一本である。
外すわけがない。
青年は思い切り弓を引き、矢を放った。
真っ赤な殺意をはらんだ矢は、勢いよく宙を切り、遠くの目標目掛けて飛んでいく。
中った。
目標が倒れ込むのを見ると、青年は急いで皆の元へと向かった。
山鴉を殺したといったら、どんな反応をするだろうか。
青年を祝福するかのように、一羽の白い鳩が飛んでいった。
青年が心を弾ませながら帰ると、人々はやけに騒がしくしていた。
何か問題でも起こったのかと思ったが、それにしては妙に明るい雰囲気である。
青年は不思議に思い、近くの仲間に聞くと、嬉しそうに答えた。
「なんだ、お前まだ知らなかったのか。
鳩姫様が集落からご自身で抜け出されたんだよ。」
聞くところによると、鳩姫は自ら敵の目を掻い潜り、急いで馬に乗ってこちらで向かっている、という内容の手紙が伝書鳩で届いたらしい。
見ると、青年が先ほど見かけた鳩が木の上でくつろいでいる。
既に鳩姫を迎えに行く小隊が、出発をしようとしている。
青年は目の前の問題が一気に解決し、なんとも晴れやかな気持ちになった。
山鴉を殺したことは、鳩姫様に直接報告しよう。
そう考えた青年は、鳩姫を迎える準備を始めた。
捕ってきた獲物たちを解体処理し、料理班に渡す。
布団を洗濯し、陽の元に干しておく。
しかし、なかなか鳩姫は帰ってこない。
そのうち、青年の中に一つの疑問が生まれた。
自分が殺したのは、本当に山鴉だったのか。
青年はその深刻さに気づき、青ざめた。
疑問はやがて不安となり、時間が経つにつれ少しずつ真実味を増していく。
朝、同じ間違いを犯してしまっていたばかりに、感じる恐怖は大きかった。
青年は、ありえないと思いたかったが、否定できる材料は見つからない。
むしろ、そちらの方が本当のことのように思えてくる。
自分は、鳩姫様を射ってしまったのかもしれない。
目の前が真っ暗になるような感覚を覚える。
果たして、鳩姫は帰ってくるのだろうか。
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