1-2(終).怪談

 重たい足を踏み出し、少し遅れてそれの後を追う。

 手に携えている黒い棒に当たらないようにそれと1メートルほど間隔をあけて歩く。

 夕闇から闇夜となりつつあるこの場に目の前のそれは溶け出し始めていた。今は前を行くそれの実像を視覚で捉えることができているが、暗闇に溶け出し始めているそれを、この多少の距離でも目を離してしまえば見失ってしまいそうだ。

 人間というのは、視覚で捉えていてもいなくても聴覚・臭覚なんかで存在を捉えることができるはずだ。だが目の前のそれからは、それらにおいて存在の訴えがない。

 視覚以外で人が人に存在を感じるうえで、最も大きいのが聴覚だろう。地面と足裏がこすれてなる音、足を踏み出した時に体重で地面を揺らす振動音、衣擦れの音、それらをそれの動作から聞き取ることができない。特殊な技術が用いられているのか、知らぬところでシノビシューズなるものが開発されていたのかもしれない。

 臭いも全くない。

 視覚に関しては環境の所為というのが大きいだろうが、それにしてもこの環境に馴染みすぎている。いや、それが正解なのかもしれない。暗闇に乗じるといは言うが、闇に潜み闇に紛れる。それこそが全身黒いことの意味なのかもしれない。

 ここまでくると目の前を歩いている人物に実体はなく、像だけの幽霊という可能性もある。

 馬鹿な思考を切り、おとなしく後に続く。

 幽霊は出てきた中央館へと入っていく。

 入ってすぐは廊下と廊下がぶつかる十字路となっている。

 幽霊は殺人者現場である左ではなく、二階へ続く階段と北館への渡り廊下がある、直進する方へと向かった。階段には目もくれず渡り廊下の方へと向かったので、北館には何があったかと思いを巡らせようとする。だが、その必要はなかった。幽霊は左右をロッカーに囲まれた渡り廊下へと出る扉の手前で体を左に扇回した。

「ここや」

 そう雑に紹介された場所は階段下の空間を利用した倉庫だった。実際に入ったことはないが、中の様子を目撃したことはある。だが、人二人が落ち着いて話せるようなスペースがあった記憶はない。

 幽霊は刀を脇においき、音もたてず何やら倉庫のドアノブで作業を始めた。おそらくピッキングというやつだろう。幽霊の手元を見ても暗いせいで何を使って何をしているのかわからない。「カチャリ」という解錠の合図は聞こえず、作業を終え、幽霊は倉庫の中へ入っていった。   

 開いた扉の中を幽霊の後ろから、暗所になれない目で見てもやはりそんなスペースはない。

 照明の有無はわからないが、明かりもつけず、幽霊は暗闇の中をずけずけと踏み込んでいく。

 目が慣れて、中の様子が見えるようになってきた。

 倉庫は備品を置いておくための場所のようで、バケツやほうきなどの掃除用具が散見される。広さは階段の垂直方向に奥行きあるわけではなく、並行方向に奥行きがある。

 幽霊に目をやると奥の方まで行っており、何やら作業をしている。「よいしょっと」と言いながら、米袋のようなものを積み上げている。数個移動させたところで、身をかがませて「ここやっけなっ」という声と同時に、「ズッズッ」という石と石がこすれるような鈍い音がした。幽霊が体を持ち上げると、板状のものもついてきた。幽霊はその地面から持ち上げた板を、積んでいた米袋のようなものに立てかけた。

「こっちや、こっち」と、声に招かれる。

 どうにも入る気になれない。この隙に踵を返して逃げ出そうなどと考えているわけではない。幽霊が板のようなものを持ち上げて空中に舞った謎の粉塵が僕の足をせき止めていた。

「何ためらってるんやー。早よ入ってきぃや。」

 そんなことは気にするなと言わんばかりの勢いだ。

「先に行っておいてくれ」、ぶっきらぼうに白煙に浮かぶ影へ投げかける。

「なんや知らんけど、先行っとくで。ここのフタだけ閉めてきてな」、そう言い残し影はどこかへと消えた。

 疑いもせずどこかに行ってしまった。そのまま逃げ出すとは考えなかったのだろうか。この短時間で信用が培われたとは思えない。それとも自分の脅し文句によっぽどの自信があるのか、逃げたところですぐに追いつけるということなのかもしれない。

 それとも「私は抵抗しません、どうか命ばかりは助けてください、何でもしますから」という嘘念がつうじたのだろうか。

 そんなことを考えていると、粉塵は収まり、構える身がない身を構えて暗い闇の中へと足を踏み入れる。

 足元に注意を払って恐る恐るゆっくりと足を進めていたが、思っていたよりも整理されていて、物に足を足られることなく板状のものが立てかけられている場所までたどり着いた。

 幽霊が作業していた場所を見てみると、そこには穴があった。人一人入れそうな竪穴。穴の中まで見える位置へと近づき、奥を覗いてみる。竪穴はそれほど深くないようで、淡い光で照らされた底が見える。底に光源があるというよりは、どこからか漏れ出た光で底が照らされているといった感じだ。穴の側面には梯子がかけられており、これで降りろということのようだ。

 

 床からそのままくり貫いて蓋にしたであろうコンクリートの板は重たかった。片手は体を支えるために梯子を持ち、もう一方で板を支えながら閉めるという作業は大変面だった。

 汎用性のないスリッパのせいで梯子を慎重に下りたせいか、それほど深くない穴を降りるのに少し時間がかかった。

 やっとのことで穴底へたどり着き、光の感じる方へ振り返る。そこには光の漏れる、扉のない部屋の入り口があった。

 その部屋へと足を入れる。さっきまで暗所に慣れた目が、光所に慣れず目がつぶれる。手で傘を作りながら光源を見てみると、天井には教室にあるのと同じような蛍光灯が光を放っていた。

 開くようになってきた目から傘をはずし、部屋の中を見回す。

 そこは和室だった。いや、和室ではなかった。正確には畳のある部屋というべきだろうか。コンクリートの箱に四畳半の畳がすっぽりと収まっているといった様相だ。ちゃぶ台の一つぐらいありそうな感じだが、畳の上(といいうよりこの部屋)には、奥に置かれている物干し竿くらいありそうな刀とその刀を脇の下に通して寝そべっている幽霊以外何もない。

「んじゃ、はじめよか。」と、幽霊は後ろに下げた髪を揺らしながら体を起こし、あぐらをかいて上半身を反らせるようにして後ろに手をつく。「そこすわりや」と、目線で刀と垂直になる自分の正面に促す。

 さすがに靴を置くスペースぐらいはあり、脛がすっぽりと収まりそうなぐらいの黒いブーツ(ニンジャブーツ?)の隣に役に立たないスリッパを並べる。四畳半の端から端まである刀と垂直になるように幽霊と0.5畳挟んで正面に座り、上半身は反らさずにあぐらをかく。

「そういや、自己紹介がまだやったな」、口角を上げ笑みを張り付いた顔で切り出す。「俺はえくぼゆうねん、よろしくな。職業は、そうやな~。ちょい俗っぽくなるけど、殺し屋ってやつや」と声の抑揚が激しい幽霊はエクボと名乗り、殺し屋だとも名乗った。

 名は体を表すのか、その逆なのかは知らないが、エクボと名乗ったやつの口角が上がると唇の両端が窪んでいる。

 殺し屋、そう聞くと、確かに俗っぽく聞こえる。昨今、映画や漫画なんかで多く題材として扱われるせいでそう聞こえるのかもしれない。ただ、それが現実にいるとなると話が変わってくる。

いつきだ。職業は学生なんだろうな」と少しあいまいに答える。

「学生ね。ただの学生があれを躱せるとは思われへんけどな」と、目を細めて訝しむような視線をこちらに向けて本題へ切り込むと思ったが、「まぁそれはメインディッシュに置いとこか」と、こちらを目をまっすぐ見つめる視線へと戻る。「半ば脅して連れてきたようなもんやし、こっちから対価を払うってのが筋やろな。」

 脅して引っ張ってきた自覚はあるらしい。

「なんでも一つ質問に答えるっちゅう話やったな。なんかあるんやないか」

 ある。確かに確かめなければならないことが一つある。だが、これを確かめていいのかという迷いはある。これを確かめてしまうとそれは現実となり更なる面倒が降りかかってくるのではないかという予感もある。

 知らぬが仏という言葉があるが、知らないのであれば知らないままでいる方がずっといい。良い格言だ。

 これは天秤だ。心の天秤、選択肢を秤にかけて選択する天秤。この心の天秤は選択肢を同時に秤にかけることが重要ではない。重要なのは選択肢を不可分にすることだ。一つずつを秤にかけ、自らの匙で分銅を載せていく。そうして天秤が傾いた方を選択する。しかし、必ずしも天秤が沈んだ方を選択するわけではない。どれを選んでもデメリットが生じる場合、今のような状況は浮き上がった方を選択する。

「どや。決まったか」と、5分ほど測っていた僕の顔をにやけ面で見続けていたエクボ。

 「決まった」とは答えず、天秤が傾いた方を簡潔に答える。

「なぜ狙われたか。それだけ聞きたい」

 なぜ今もこうして生きているのかわからないが、死人に口あり状態でも人生、先の先を見ていかなければいけないというのはままならない。

「それしかないわな」と最初からそれが来ると分かっていたかのような口ぶりの半面、にやけ面がとれ表情が険しくなるエクボ。

「怖い話は得意か?」と表情と共に声色も険しくなるエクボ。

「別に得手も不得手もない」

 僕が怖かった話なのに、どうしたら自分が怖かった話になるのだろうか。

「んじゃ、一席失礼して」と、指が開ききった右手を空に切らせて、表情は暗いまま寄席でも始めるかのように芝居がかったエクボ。


「あれは今日の昼間のことや。近々この辺で仕事があってな、その下見をしてててん。路地を歩いててんけど、なんか視線を感じてな。まあこの格好やし、奇異や好奇の目を向けられることは珍しない。そのうち飽きるやろ思って、そのままほっといてん。そしたらまあ、なんでか、付いてくる付いてくる。それでも見られて困るもんもないし、物見遊山で付いてきてる思ってたわ。」と言葉尻に語気が弱くなっていく。エクボ

 曇りがかった声が雷でも鳴りそうに暗くなり続ける。

「なんでやろ。なんで気づかれへんかったんやろな。油断してたんやろな。隠してる感じもなかったし。むしろ隠すつもりがないというか。単に視線に晒されるっ訳じゃない、こう攫われてる感じ」と自問自答しているのか感覚を伝えようとしているのかはっきりしないエクボ。すると今度は「人間って中身晒されるのって嫌うやろ」と尋ねるような口調。「最近は内心晒すの流行ってるみたいやけど、そんな上っ面の部分じゃない。もっと人間の核心部分。どうやって生きてきたとか、人生の指針とか、そういうのが全部白日の下にさらされてるようなそんな感覚。」とまた言葉尻がだんだんと弱くなっていき、今度は途切れる。

 先ほどまでこってりと張り付いていた関西弁が剥がれ、体を両手で抱き震えている。

「いや~、嫌なこと思い出してもうたわ」と手を解き元の調子に戻る。いや、もはやどちらが素なのかわからない。

「あの厄介な奴なんやったんやろな。視線で居場所はバレバレやったけど、なんか妙に手馴れてる感じやったな。まあそれでも素人やったんは間違いないやろな。あんな尾行するこっち側の人間なんかおらんしな」

 あっちやこっちや言われてもどっちのことかさっぱりわからない。

「そんで、なんか覗かれても面倒やし、さっさと撒こうおもってんけど、これがまたしつこくてな。付いて離れへんってゆうか、行く先々におる感じでな。完全に撒くのは無理や思って、いったん撒いてこのセーフハウスに来たところ、お前さんに出くわしたって訳や。ほんま怖かったわ」

 それはどちらのことを指しているのだろうか。

 オチがついてすっかりとすっきりと話し終えたような雰囲気の靨だが、肝心な話が聞けていない。

「それだと理由になってないだろ」

「そういや、そんな話やったな。お前さん、俺が廊下を歩いてるところ、こっちをチラッと見たやろ。その刹那、体が動いてたわ。反射的に、本能的にな。ここまでゆうたらわかるんちゃうか」と最後の答え合わせ。

「似ていたからか…」と呟くようにして答える。

「そういうこうとやな。本質は違うんやろうけど、あの一瞬、あの視線にあった、全部が晒されるような感覚をお前さんの視線からも感じたわ」とまた少し声色を落として語るエクボ。「しかし、あんときはほんまビビッたわ。さすがに撒いた思ってたから、つい手ぇ出してもうたわ」とまた常時に戻るエクボ。「まぁ、そういうわけで、事故みたいなもんやったちゅうことやな。これで納得いったか」と、これ以上何もないぞと両手を上げ、そのまま元の位置へと戻り、くつろぐエクボ。

 ついぞ偶然と殺しかけたと言われて納得できるほど壊れてはいない。この畳一畳を隔てて死の概念が大きく違うことは理解できる。だが、その価値観に一度でも共感し、納得してしまうと晴れて僕も晴れてあちら側の人間だ(どちら側かは知らないが)。

「納得はできないが、理解に努める」と降参の両手を掲げて見せる。「それで。こちらからは何を話したらいいんだ」と次を急く。

「こいつを躱せた理由。それだけや。」と右手で刀を軽く持ち上げて見せる。「持ち前の並外れた反射神経やってゆうならそれでもええけど。投擲専門って訳やないし、同業者とかに躱されるなら納得するわ。けどな、お前さんはどっからどう見てみても、普通の高校生やし素人や。なんや仕掛けがあるんやろ。それを話してや」

「別に種も仕掛けもない。ただ、ああいうのが少し得意なだけだ」と少し極まりが悪く肩を縮める僕。

「どのくらい出てたか分かれへんけど、そこらの人間が目で捉えれるような速さやなかったはずや。それを躱すことがちょっと得意で済まされるかいな」とくつろいだまま、少しけだるそうに言うエクボ。

「あれは躱したわけじゃない」

「てゆうと」

「お前の言う通り僕はその短刀を目で捉えれてたわけじゃない。僕は飛来する短刀を目で捉えて、脳から躱せと信号をだして、脊髄反射で上半身を動かしたわけじゃない。あの時あの場所あの瞬間に、飛来する何かが首筋付近を通るのを知っていただけだ。」

「それはあれか、未来が見えてたってことなんか」、自分の出番が終わり一息ついていたエクボが興味あり気に身を乗り出しながら、そう問う。

「最近知ったんだが、未来が視えてるわけではないらしい」

「えらい曖昧な感じやな。自分のことやろ」

「自分に興味はないし、このよく分からないのにも興味ない。」

「そうかいな。んじゃ未来が視えてるわけじゃないってのはどういうことなんや」

「未来が視えるってのにも色々種類があるらしい。その中でも僕のそれは未来予測ってのが適当らしい」

「なるほどな。確定した未来やと、お前さん今頃あの世やもんな」

 突拍子もない話をしたつもりだが、やけにあっさりと得心がいった様子だ。

 自分でも最初は既視感の類だと思い込んでいた。次第にそうではないことに気づいた。だが、別に周りに影響を及ぼすものでもなかったし、何かできるものでもなかった。周りにそういった人間はいなかったが、自分を特別な人間だと思うほど自尊心の高い人間でもなかった。そもそも近しい人間以外は周りにいなかった。

 棲む世界が違えば、こういった特異な人間に出くわすのも珍しいことではないのかもしれない。

「そういうことらしい。理屈はよく分からないが、見えるタイミングは場合に依るし、今回みたいな危機的な状況だけを見せるわけじゃない。十数年生きてきて法則性があったことはない」

「そこまで便利なもんってわけじゃないんか」と思案顔で少し間を置き、「理屈はよ、今聞いたのと体験してみて、なんとなくわかった気がするわ」、そうシニカルに口元を緩ませ、自信ありげに語り出すエクボ。

「ほれ、さっきゆうたやん。お前さんに見られた時、探られるような覗かれるような感じがしたって。あれはよ、多分、お前さんの無意識が人とかモノの本質ってゆうか、なんてゆうか、過去と現在を見てる感じやな。それを踏まえて未来を演算してるって感じなんやろうけど」、最初の自信はどこかへ行き、「いや、まぁでもこの理屈やと、タイムラグがあるのが分からんけどな」と勝手に自己完結した。

「まぁ無意識に覗きをしてるってのはどうかと思うけど、意思がないだけなんぼかマシやな」と含みがあるように少し視線をはずして、結論づけた。

 流石に僕もあれはどうかと思う

「前にもそんなことを言われたが、そんな仮説・空論を唱えられたところで呪文にしか聞こえない」

「そうなんやろな。お前さんのそれは客観的に見なわからんやつみたいやしな」

「そうなんだろうな」

「そういや、聞こう思ってたことが一つあるねん。」と少し面持ちが重くなる。「お前さん、短刀じゃなくて、俺を避けることができたんやないか?」

「確かにあれは避けれるタイミングだっただろうな」

「せやろ?じゃあ、なんで踵を返そうとは思わんかったんや?」

「面倒だった。それだけだ」

「てゆうと、あれか。遠回りして俺を避けるよりも短刀を躱す方が面倒じゃなかったってことか」

「そういうことになる」

「お前さん、変わったやつやな」

 殺し屋ほどじゃない、というツッコミは届かないだろう。

「生き死にが懸かってるんや。めんどうの一言で済ませることやないやろ」

 こんなところまで話すつもりじゃなかった。いや、話す中身には何の問題もない。自分の中身を話したところで不利益を被ることはない。というか中身なんてない。

 言質がとれたから早々に切り上げたいと思っている人間にここまで話をさせるのは、話術なのか人柄なのか、それ以外の要因なのだろうか。

「そんな大層なことは考えていなかった。あの時、確かに死の予測は出ていた。でも、お前が言った通りこれは予測だから覆せる。だから、あの時あの一点で飛来物を躱せば、帰れると思っただけだ。普段使わない神経を使って脳の容量を超えたせいで動けなくなったが」

 相変わらず詰めが甘い。

「ほんまやで。咄嗟にほったとはいえ、お前さんがちょっとでも早よう避ける動作に入ろうもんなら、それに合わせるぐらい考えんでもできるからな」

 もはや、ぞわりともしない。慣れたわけではなく、ここでそれを想像したところで、あの未来の像を超えることがないだけの話だ。

「ほな、自殺願望があるっちゅう訳でもないんか。わかったような、わからんような話やったけど、少々喋らせすぎたな。」

 妙な言い回しだった。

「そんな時間取らせへんから、ちょっとおまけ聞いていかへんか。」

 どれくらい時間がたっただろうか。時間を把握するのは得意だと思っていたが、この空間では役に立たないようだ。

 この空間には外を測る要素がない。時計はもちろん、換気口ぐらいはあるかもしれないが、外とのつながりはなく、太陽も月も拝むことができない。部屋の温度は一定に保たれており、熱くも寒くもない。これだけ外界と隔絶されていれば、時間が把握できないというのは当たり前のことなのかもしれない。

 そんなことよりも、 時間の有無をいわず、早く帰りたい。

「取引は成立したんじゃないのか」

「確かに名目上は成立したんやろうけど、フェアやない思ってな。聞いて何があるっちゅう話でもないけど。違和感ぐらいは感じてたんとちゃうか。」

 そんなことがあっただろうかと思い返してみる。気にしていたことは一つ、事件においての動機だ。なぜ襲われたのか。しかし、これはもう解決したはずだ。なんて探偵みたいに事件を振り返ってみたが、探偵逃避行中だった。知らずのうちに毒されていたのかもしれない。

 いや、一つあった。違和感というよりも、違和感がなさすぎること。会話という会話をしていないのに、どうにも事が滑らかに運びすぎているような気がする。

「手短に」

 手短にそう答えると、靨は語り始めた。

「端的ゆうとな、俺もお前さんと同じようなもんもってんねん。てゆっても、中身は違うねんけどな。共感覚ってわかるか。」

「文字とか音に色がついてるように見えるってやつか?」

「大体そんな感じやな。俺のはちいと違くてな。なんてゆったらええんやろな。こう、人から色のついた線が生えてる感じでな。そういうのが見えんねん」

「それが人の考えを表わしていると」

「そういうことやな。まぁ、厳密に言うと感情って感じで、思考は副次的なもんやな。」

 読心術なるものがあるとかないとか、いう話は聞いたことがある。そういう類の技術が使われているのかと思っていたが、どうにもそうではないらしい。だがそれに近いものではあるだろう。読心術というのは相手の情報や会話の中で相手の心の動きを読むという技術のことだろう。つまりは心理カウンセリングのようなものだろう。エクボのそれはその過程をすっ飛ばして心の動きを読んでいるということになるのだろう。

 しかし、やはりそれは普通の人間にできるできないの話ではない。一般的な人間というのは機能が定まって生まれてくるものだ。その機能が成長することはあれど、新たに加わることはない。だが、その普通の人間の機能に加えて新たな機能を持った人間が生まれてくることがあるそうだ。それは身体的な機能ではなく、未開の地、脳だ。すなわち天才の領域だ。いや、天災の領域というべきだろう。(これらはすべて受け売りだ)だからエクボは同じようなものだといったのだろう。

 考え込んでいるところに声がかかる。

「これで手打ちってことでええか」

 そもそも選択肢なんてなかった。聞いておきたいことは聞けたし、余計なことも聞いてしまった気がする。しかし、そんなことも些末な問題だった。

 結局のところ、目前の殺人屋が納得して早々に返してくれるかどうというのが今回の焦点だった。一部は達成できていなさそうだが、最早ここから解き放ってくれるならなんだっていい。

「問題ない」

「そんじゃあ、お開きっちゅうことで」

 そうエクボが言い切る前に立ち上がっていた。

「しばらくこの辺おるから、また会うやろ。そん時はもうちょいのお話にしようや」

 早々に家路につこうとしている背に、呪いの言葉が降りかかる。

 そんな呪いの言葉を振り払う術を持たない弱者は間髪入れず、二度とごめんだ思いながら、「二度とごめんだ」と虚空に放つしかなかった。

 

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探偵道程 常爪甘男 @Itsuki621

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