探偵道程

常爪甘男

1.邂逅

 夕闇で満たされた校舎の階段を一段また一段と降りてゆく。足取りが重いわけではないが、ゆっくりとゆっくりと下って行く。「ペタ、、、ペタ、、、ペタ、、、」と極力足音を抑えながら下っていく。分岐点に到着し、手に携えていた上履き用のスリッパを地面に下ろす。これも契約の一部だ。ひときわ大きな「パタン」という音が狭い踊場ではよく響く。今度は「ペタン、、、ペタン、、、ペタン、、、」と音を響かせながら、人気のない階段を下ってゆく。

 階段でよく転ぶ子供だった。物心がつく頃には、上るにせよ下るにせよ、こうしてゆっくりと足を踏み出す癖がついていた。トラウマということではなく、原因があった。原因を特定した記憶はない

 この頃、疑問に思うことがある。高校生になってまで、学校指定の上履きがスリッパなのかということだ。一歩踏み出すたびに足から離れて主導権を失うのがどうにも歩きづらい。ただ、この歩きづらさに意図を感じるのもまた事実である。子供というのはよく走る生き物だ。一応小中学校に通っていた経験からすると、小学生が履いていた丈夫そうな上履きでさえ潰す子供がいた。中学に上がるとスリッパへと変わるのは、『走りづらいのだから走るな』という意図が通じると判断したからだろう。だがその意図は全く通じることはなく、上級生になろうと履き潰す者はいた。義務教育の敗北だろうか。それを踏まえてしても好かない。

 そんなどうしようもないことを考えていると、階段が途切れた。中央館へと続く渡り廊下がある方へと体を向ける。中央館へと向かうわけではなく、渡り廊下には収納兼下駄箱となるロッカーがあるので、履き心地のいい我が相棒へと鞍替えす。「ペタ、ペタ、ペタ、」と足取りよく境界をまたいだ。

 

 渡り廊下といっても、屋根とロッカー群に囲まれているだけで、他に遮るものはない。遮るものが少ない分夕日が差し込み、先ほどの校舎よりも幾分か明るい。

 ここはもう少し早い時間帯だと人通りの多いが場所だが、この時間に人の気配はない。 この時間だと聞こえるグラウンドの喧騒は、この日、静まり返っていた。代わりに聞こえるのは風が中庭に一株だけある樹木というには小さい木の葉を揺らす音だけだった。

 渡り廊下の中ほどまで来ると、左右にあるロッカー群が途切れ、少し視界が開ける。左手は中庭へと抜ける道、右手は夕日が差し込む裏門への道、となる十字路に差し掛かる。

 何の気もなく中庭の方へ視線を動かすと、背後で耳をつんざく甲高い音が聞こえた。音の発生源を確認しようと振り返ろうとした、その時、左の首筋から血が勢いよく噴き出したのが横目で見えた。止血をしようと出血口に手を当ててみたが、流出する血液はとどまることを知らない。裂けてはいけない血管が裂け、血液を止める術を失っているということなのだろう。地面を見やると、赤黒い血だまりができていた。これはもう助からないだろう。そう死を意識すると、視界が狭まってきた。意識が朦朧とし、体の制御を失い、膝が崩れる。顔面をコンクリートに打ち付け、完全に意識を失った。

 

 痛みはないことが幸いした。痛みまでていたら、動きが止まるだけでなく、昏倒しているところだった。

 思考の回転率を上げ、止まっていた足を前へと進める。ポイントは目と鼻の先、左右を囲むロッカー、それが途切れる場所。左手は中庭へと抜ける道、右手は夕日が差し込む裏門への道、その十字路へ差し掛かる場所。

 夕日さす、吹きさらしのポイントへと差し掛かる。なぞるように、視線を中庭の方へ向ける。その瞬間、中央館の窓奥でチラッと小さいがまばゆい光が見えた。これだ。そう察する前には体を動かしていた。足を踏み出したままの体制で下半身を固定し、腰の動きだけで上半身を鋭く右にスライドさせた。

 客観的に見れば間抜けに見えるだろうが、これが一番効果的だと思った。

 そして、実際に効果的だった。背後で耳をつんざく甲高い音はしたが、首筋から血が噴き出すことはなかった。

 結局、分かったことは、何かがチラッと光ったことと、背後でロッカーと何かの衝撃音、だけだった。本質として理解できたことは何一つなかった。

                 *

  第二射が来ることはなかった。

 普段使わない腰の動かし方をしたせいか、腰がスライドしたまま動かなかった。これが、腰が抜ける、というやつだろうか。

「こんなところで、躱されるとはなぁ。世間は狭いってやつか」、こちらに話しかけたというより、感嘆の声。

 いつの間にか、正面にはいた。正確にいうと、正面の中央館と渡り廊下を繋ぐ開け放たれた扉の前から声がする。姿は夕暮れの濃い影に隠れて確認できない。

「あんなん、同業でもよけれる奴少ないで。いや、狙いどころが悪かったんかなぁ。まあ、ええや。」

 語りかけているのか、自問しているのかよくわからない関西弁のは、こちらにゆっくりと近づいてくることで姿を現した。

 の視認できなかったのは影のせいだけではなく、肌に黒色を多く纏っている所為だろう。靴はつま先から紐に至るまで黒色、服は昨今あまり見ない黒色の学ランタイプの学生服で袖と前合わせのボタンに至るまですべて黒色。もちろん、髪も黒色で、前髪はなく後ろで長髪を一つくくりにしている。顔の美醜についてはわからないが、まだ幼さが残る青年といった面持ちだ。そしてひときわ目を引くのは、黒の手袋をした手で持つ棒だ。その色もまた黒く、長さは足から肩まで有りそうだ。

「これが気になるんか」と視線から察したのか、左手を前に突き出し、黒い棒を見せつけてきた。

「これがわからんってことは、ほんまに素人なんやろな。」

 何を確認されているのかわかないが、黒い棒の正体がわかると素人ではない何からしい。

「飛んできたもんも、何かわかってへんねやろ。動けるんやったら確認してみぃや。どんだけ鈍い奴でも、見たらさすがに解るやろ。」

 そんなことを言われて、殺されかけた、であろう相手に背を向けるやつはいない。というか、普通に動けない。

「ええやん、ええやん。後ろ向いたらドスンやったで」と太ももに手を打ちつけながら、楽しそうに笑っている。

  何がそんなに楽しいのか。死損じたのであれば、そんな遠回りなことをせずとも、すぐにでもこの場で殺せばいい。それとも、試すようなことをして、遊んでいるのだろうか。どちらにしても、生殺与奪の権利はが握っていることに変わりない。

 は何かが琴線に触れたのか、笑みを張り付けたまま楽し気に、ゆっくりと音のない歩を進め始めた。

 痛みを感じる暇もなく、上半身をもとの位置に無理やり戻し、右脇を通ろうとするを正面で捉えるように体を動かす。

 はロッカーへと向かっていき、ロッカーに刺さっている黒い棒の前で止まった。その黒い棒に手をやり、軽々と抜いてみせた。

「見たことぐらいはあるやろ」

 見せびらかすように差し出された黒い棒には続きがあった。片側は黒色、もう片側には銀色の刃がついていた。記憶にあるものより短いようだが、刀というやつだろう。

 あの短刀がチラッと光ったもので、音の正体ということなのだろう。

「取引せんか」

 は短刀の刃をこちらに向けながら、話を持ち掛けた。

「お前さんを殺さん代わりにや。この短刀を躱せた理由わけを教えるってのでどうや。たまたま躱せたってわけでもないんやろ。」

「それは取引じゃない。恐喝だ。」

「そらそうや」

 意外と聞き分けが良かった。

「そうやな~」とまた楽しそうに笑みを浮かべながら、何やら考え始めた。同時に、こちらに向いていた刃が、の周りを回り始めた。片手でまわしているが、短刀が反対側へ行ったとしても、投げた黒い手が反対側まで伸びてゆき、また縦横無尽に回り続ける。

「こっちはなんでも一つ質問に答えるってので、どうや」と妙案が浮かんだといわんばかりの楽しげな顔で、こちらに選択を迫る。

 脅しから取引という体面になったことで、こちらに断るという選択肢ができた。まともに取引をするつもりがあるようだが、仮に取引を断ったとして、再びあの切っ先がこちらに向かってこないという保証はどこにもない。

 そもそも、には取引が断られるという発想がないように見えるのは気のせいだろうか。

 こちらは真剣に考えているというに、目もくれず楽しげに短刀を廻している。

「何がそんなに楽しいんだ」

「すまんな。こうゆう腹の探り合いっちゅうんは機会無くてな。」

 取引を受けるにせよ断るにせよ、生存確率を図りたかったのだが、さっぱりわからない。

 情報がほとんどない以上、判断材料は最初の取引条件しかない。理由を話す代わりに、殺されない、というやつだ。殺さないと明言している部分を信用するしかない。結局のところ、奴の掌の上でしかない

 「望み通り、取引に応じるよ」

 右手に携えていた黒い棒の方を回して反転させ、空中で舞っていた短刀がそこに吸い込まれるように収まった。

 あの黒い棒には長刀が収まっていて、短刀は脇差に当たるのだろうとは思っていた。しかし、短刀の鞘がないことが疑問だった。長いとは思っていたが、単純に長い刀が収まっているのではなく、短刀の鞘も兼ねているとは思わなかった。

「こんなところで立ち話ってのもなんやしな。近場でええところあるからそこで取引といかんか。」

「好きにしてくれ」、考えることに疲れて少し投げやりになる。

「そんじゃ。ちょいと移動しよか」と言い、は移動を始めた。

 それの後に続こうと、足を前に進めようとしたが、うまく足に力が入らなかった。気づかないうちに緊張していたのか、体の方も疲弊している。

 疲労感が一気に押し寄せたことにより、一歩目が重たかっただけで、全く動かないということはなかった。

 遅れての後に続く。緊張が緩んだのか、周りを見る余裕ができた。

 日は完全に沈んでおり、辺りは暗く、外灯の光が見える。

 夜の学校というのはやはり不気味だ。何が不気味さを醸し出しているかというと、敷地に対して照明の量が釣り合っていないということだろう。この薄暗さが絶妙に人の想像力を掻き立てる。

 不気味さを感じているのはこの薄暗さのせいだけではない。人の想像力を介さないという不気味さがにはある。この先何が起こるか全く予測できないことが何よりも恐ろしい。


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