カグラザメしんじゃった

Norrköping

カグラザメしんじゃった

 常に疎外感に呵まれる私が強く孤独を感じるのは、やっぱり昼休みだ。その時間、私はニンゲンとしての在り方を強制的に省察させられ、もはや自分が人道を逸脱してしまったのではないかとさえ思えて、消え去ってしまいたくなる。

 だのにギリコときたら、私の気も知らないで呑気に食事なんかしてやがる。

 それは食事というより捕食という言葉が相応しいような、とてつもない行為だ。


「ねえ、それなに?」


 湿っぽい風が出てきて、私の前髪を不機嫌にしていく。雨が降るのかもしれない。アイロンかけてまっすぐにした前髪がうねうねしだすと、それは雨雲がくる合図なのだ。いやだな、屋上は雨よけがなにもないから、雨が降ったら教室へ戻らなければならない。


「見てわかるだろ、コオロギだよ」


 それはわかっている。私は、弁当箱ならぬ虫かごいっぱいに詰めたコオロギの大群に手を突っ込み、現金掴み取りするときの表情でそれらを握りしめて口いっぱいに頬張る、その行為はなにかと訊ねているのだ。


「知らないのか? いま流行ってるんだぞコオロギ食」

「いやあ、私の知ってるコオロギ食とはずいぶん違うなあと思って。そんな原始的なオードブルだったっけ?」


 類を見ないほど不気味な歯列をガチガチと鳴らし、生きたコオロギを噛み潰す不快な咀嚼音を轟かせる。

 サメ女。それが私の、ギリコに対する第一印象。

 私が毎日前髪をアイロンでまっすぐにしなきゃいけないように、ギリコもまたバーバリーチェックの大判マフラーで顔半分を覆わなければならない。夏も冬も。なぜなら、彼女の口はサメだから。あだ名や比喩表現などではなく、鼻梁から下、あごの先端までがまごうことなく本物のサメだからだ。さながらハリウッド映画の特殊メイクみたいに、ニンゲンの顔とサメの顔が上下で合体しているのだ。その顔が193センチという、ほとばしる成長期が育んだ図体のてっぺんに乗っかっているのだから、網膜に飛び込んでくる戦慄は並みじゃあない。


「おまえが〈断食〉してなけりゃ、味わわせてやるのに」


 そんな私の眼差しなど歯牙にもかけず、からっぽになった虫かごに両手をあわせるギリコ。


「やっぱり食い気は起きないか」

「んん、まあ」


 前髪の生え際を人差し指でカリカリする私に、ギリコは深いため息をつき、


「もったいないなあ。せっかく地球に生まれてきたのに」


 独特の所感をもらす。


「いいか、この地球という星は生命の宝庫だ。生命ってのは捕食するものだ。それをおまえは人類という、ほぼほぼ食う側の立場に生まれついたというのに、実にもったいない」


 はじまった。それはギリコの常套句で、ことあるごとに熱弁をふるう。私はすぐに応じず、あーっと口をあけて中空を見つめ。ギリコに最適な言葉を探すのに、たっぷり5秒の間をもうける。


「ギリコはしあわせだね。ギリコにとって地球に生まれたのは、もはや運命なわけだ。えーっと、なんだっけ? 地球はでっかい——」

「――弁当箱! そうさ、私はこの世界のありとあらゆる生物を食うために生まれてきたのさ」


 途方もないことを熱っぽく語るギリコは、それでいて本気だからすごい。

 まあ、そうでなくては困る。私には彼女の食い意地が底なしであってほしい理由がある。


「それで、私のことはいつ食べてくれるのかな?」


 この問いかけに、ギリコは困惑の表情をつくって『ウーン』と唸り、


「まあアレだよ、まだ時期じゃない」


 はぐらかす。もう2年もこの調子なのだ。はやく私を食べてもらい、ギリコの〈食欲〉を満たしてやりたいのに。

 私が反論しようと息を吸うと、わざとらしく彼女はぽんっと手を打って、


「ところで、食うって云えばさ」


 話題を回避。いつもこうだ。いつもこの話を持ち出すと、こうしてかわしてしまう。


「今日の夕方6時、観にくるんだろ?」

「うん、ギリコの戦いを見届けたいからね。楽しみだなあ」

「別に観て楽しいもんじゃないだろ」

「大食い大会なんて、テレビでしか観たことないじゃん。しかも友達が出場するんだよ? ワクワクしか勝たん」

「まあ、おまえが楽しいって云うならそれでいいけどさ」


 本日は商店街で開催される大食い大会当日だった。昨今イオンのショッピングモールに景気を持って行かれっぱなしな地元商店街が、再起をかけた一大企画を立てたのだ。優勝者にはきちんと相応の賞品が用意され、4回目となる今年は例年になく大奮発、なんと賞金3万円と、商店街にある飲食店ならどこでも使える1年間有効のクーポン券だという。


「なんだか緊張してきちゃったよ」

「おまえは緊張する必要ないだろ。大食いするのは私なんだから」

「もし優勝できたら賞金で一緒に水族館に行ってくれるんでしょ?」

「もちろん。なんとかってサメを拝みにいこう」

「カグラザメっていう深海のサメだよ」

「どんな味がするんだろうな」

「いや食べないでよ」


 弾む私たちとは裏腹に、空はさきほどよりも雲を厚くし、陽光を完全に遮ってしまった。このまんまだと本当にひと雨降るかもしれない。

 鈍色に染まる空を見つめながら、ギリコとかわした稀に見る約束を思い出していた。




 それは2年前、夏の終わりの夕暮れにかわした秘密の約束だ。

 当時を思うと、私はいつも胸が締めつけられる。ギリコとのそれは、いやな思い出を紐づけで引っ張ってきてしまうから。

 〈断食〉とギリコは云っているけど、実際には〈食べない〉のではなく〈食べられない〉が正解だった。私はいっさい食事のとれない体質なのだ。その原因は中学2年生まで遡る。

 いつもの教室で、なんの脈絡もなく、


「あんた、へんなにおいするよ?」


 不意打ちされる。親友でも不仲でもないクラスメイトAに云われたのだ。その瞬間、私の世界は腐臭ただよう暗闇に閉ざされた。

 きっかけは、食生活を見直そうと思ったことだった。へんなにおいを解消しようと体質改善を試みたのだ。しかし思うようにいかず、気がつけば体重ががたんと落ち、クラスで一番軽い女子になった。それでも相変わらず、へんなにおいはつきまとった。

 断食は最後の手段だった。もはやなにも食べないのが有効だと結論づけたのだけど、結果はお察しの通り。

 そうして苦しみを味わっているうち、不思議なことが起こった。三大欲求のひとつである〈食欲〉が、完全に消失してしまったのだ。以来、私から〈食べたい〉〈お腹すいた〉〈おいしそう〉という感情が、まったくなくなってしまったのだった。




 ギリコと出合って約束をかわすまでに、いくつかの覚悟を必要とした。

 もちろんその覚悟とは、へんなにおいに付随する悩み苦しみの告白なわけだけど、そんな鬱積した精神の解放を可能にしたのは、ギリコのあけすけな性格のためにほかならない。

 はじめてギリコと相対したとき、彼女は遠慮なく、


「おまえ、うまそうなにおいするなあ」


 体育後の8×4する前だったから、私は当然それを嘲笑だと解釈する。けど、なにかおもしろい返しをしなくっちゃと思って、


「食べてみる?」


 うそぶく。長身で常にマフラーを巻いている得体のしれない、会話したことすらないクラスメイト相手にも虚勢を張らなきゃならない自分の立場が、すごくみじめで逃げ出したくなる。もし彼女の反応が想像を逸脱する斜め上なものじゃなかったら、私は本当に保健室へ逃げ込んでいただろう。

 そんな私にギリコは、


「食っていいのか?」


 とマフラーをずり下げ、凶器みたいな歯列をガチガチと噛み鳴らしてみせたのだ。


「正直、一度食ってみたいんだよなあ、ニンゲン」


 その瞬間、私のなかから劣等感と羞恥心が霧散した。代わりに沈潜させられた欲望が満を持したように膨らんでいき。ほんの一瞬にせよ、へんなにおいにつきまとわれて以降、喪失した思春期の少年少女が当然のごとく持つ快活さがみるみる甦り、稲妻のように全身を駆け巡ったのだ。


「冗談だよ」


 ギリコが口を歪めて消えたあとも、岩漿のように芽吹いた熱情に浮かされていた。

 それは些末な偶然にすぎないのだろう。幾千、幾万のひととの出合いで、さながら絡みあう糸のように、きまぐれに見舞う風雨に晒されながら複雑に交差し、なおも切れず絶えずするなか微々たる確率のもとに導き出された、いわば奇跡だと直感した。


 食っていいのか?


 この戯れ言に、私がどれほどの〈悦び〉を見出したか。

 ある日の屋上。薫り色濃くなりだした初夏の風にあたり、ふたりで鉄柵にもたれて黄昏れていた。取るに足らない雑談をかわし、ふいに訪れた夕凪みたいな沈黙のあと、私はおもむろに口火を切る。


「ねえ、ギリコは世界中のあらゆるものを食べるのが夢なんだよね?」

「まあな。私に食えないものなどないということを証明してやるんだ」

「ギリコに食べられないものなんてないよ。なんでも食べちゃうんだもん、信じられない」

「おまえのほうが信じられないよ。なんも食わなくても生きてられるなんてな」

「食べてるよ。私は毎日食べてる。苦汁という涙を」


 ねえ、ともう一度呼びかけて、吐息をひとつ。


「ほんとにニンゲンを食べてみたくない?」


 マフラー越しに、サメの歯列がぽかんと開いたのがわかった。


「こないだの続きか?」

「本気だよ。私はね、ギリコに食べてほしいんだ」


 潮風で傷んだようなごわごわの髪をガシガシと引っ掻き、今度はギリコが一拍措く。


「なんでまた?」

「だって、あらゆるものを食べたいんでしょ? ならニンゲンもその例にもれないよね?」

「――じゃなくって。どうしておまえはそんなに食われたいんだ?」

「私はもう一生食事ができないと思う。長くは生きられないよ。ゆるやかにだけど体重も減ってるし、たとえ死なないまでも骨と皮だけの姿になりたくない」

「死にたいってことか?」

「死も毎日味わってる。おそらくずっと、私はこうなんだよ」

「食えばいいじゃないか。食って健全になったら普通に生きられるだろ」

「無理だよ、私は普通じゃないもん。このへんなにおいも完治しないと思う。体質とか病的とかじゃなくって、私はこういうニンゲンなんだ。これは生まれる前から神様がきめてたことなんだ」


 ギリコがなにか発言する前に、私は言葉を繋ぐ。


「だから私の人生に意味があったって云えるよう、ギリコに食べてほしいんだ。ギリコに食べられるために生まれてきたと思えたなら、少しは報われるでしょ?」

「なんで私なんだよ」

「だって、私とすごしてくれるのはギリコだけじゃん。だから約束してほしいんだ、どんなものでも食べられるあなただから」


 眼下に見えるテニスコートで部員が後片づけをしている。誰かがボールの入ったバスケットをひっくり返したらしく、軽い悲鳴と嬌笑が辺りにこだまする。そのうち部員は散らばったボールを拾って、ぶつけあいをはじめた。


「わかった。私もニンゲンを食える絶好のチャンスを逃したくはないからな。おまえが食っていいと云うなら食ってやる、でもな」


 観念するような表情のギリコは、強調するように人差し指を立てる。


「食うタイミングは私がきめる。私がおまえを食いたくなったときが、約束を果たすときだ。それでいいか?」


 もちろん、私に異存はない。できることなら高校を卒業するまでがいい。成人し、いまよりもっとみじめな自分に成り果てる前に、ギリコに捕食されたかった。




 にわかひとが集いはじめた商店街。元来が寂しい場所なので、しとしとと降り出した雨によって、閑散とした佇まいはより陰気さに閉ざされてしまう。

 それでも大食い大会の評判は町境を越え、会場となった学習塾の空き家には物見高いギャラリーが話の種にと、ささやかな賑わいを演出していた。


「見ろよ。ラッキーFMだぜ」


 誰かの指し示す先には、県域ラジオ局のスタッフの姿も見える。

 参加者も集まった。いかにも胃袋が丈夫そうな大柄な男性。ウェーイといった具合いのノリで参加した女性。育ち盛りのスポーティな大学生風男子。大食いという名称が似合う肥満の男性。いずれも油断ならない連中が、ステージとして設置された学習机に陣をかまえる。

 ギリコが名簿をチェックしていた司会者らしき男性に名を告げると、学習机のひとつに着席するよう促される。私はギャラリーに潜り込み、彼女の勇姿を最前列で観戦できるようスタンバった。

 まずは司会者の挨拶から。がやがやしていたギャラリーが沈黙し、会場は静かな闘志入り乱れる緊迫感が漲ってくる。

 挨拶が終わると、彼はうしろに用意された箱を掲げた。箱のなかには今日の対決に使用される料理が入っているのだろう。この大会は直前までなにを食べるのか明かされないので、料理発表前のスリルはヒトシオなのだ。


「さて、いよいよ料理の発表です。今回はこれを食べていただきます」


 固唾を飲む会場を眺め回してから、司会者は威勢よく箱をあける。

 中身の意外性に会場がざわついた。ご飯だ。箱の中身はなにものでもない、真っ白い炊きたての米飯が入っていたのだ。


「ほかはなにもないのか?」


 参加者のひとり、大柄な男性が当然の疑問を呈する。


「はい、今回はご飯だけを食べていただきます。お椀に盛られたご飯を何杯食べたかで競っていただきます。制限時間は30分。水は自由にお飲みください」


 思わぬ展開に、ギリコも深刻な表情を浮かべている。さすがの彼女もご飯だけでは食が進まないと見え。それはほかの参加者も同様らしく、この意表をついたお題に首をひねっている。前代未聞の設定だけど、条件はおんなじだ。持ち前の食い気を発揮して、どうにか食いまくるしかない。


「いざ、いただきます!」


 司会者のコールにより、開戦の火蓋は切って落とされた。

 威勢よく箸を持つ面々、序盤から怒濤の食いっぷりが繰り広げられる。さすがに大食い自慢ばかりなので、その迫力は凄まじいものがあった。

 負けじとギリコも応戦する。かなり早いペースの食べ方なのを、隣の席の大柄男性がツッコんだ。


「いい食いっぷりじゃねえか、まるでサメみたいだな。だが気をつけなよ。おんなじものを食い続けるってのは想像よりもキツいもんだ。米の飯の味ってのはさりげないからな」


 そう云って目配せした先では、ウェーイ系女性の手が止まっている光景だった。早くも飽きたらしい。


 「残念! ウェーイ系女性、ここでギブアップです」


 司会者のアナウンスに、残り4組の背筋が伸びる。これはなにかしらの対抗策が必要だ。ただご飯を口に運んでいるだけでは、越えられない壁がある。参加者は一様に察して、作戦行動に出た。

 まず大学生風男子。ノースフェイスのバッグからiPadを抜き出し、なにやら動画を再生しはじめる。


「おおっと大学生風男子、YouTubeでグルメ動画を流し出しました!」


 彼はそれをガン見しながらご飯をかっこみだした。


「ほう。〈エアおかず〉とは、たいしたものですね」


 その様子に肥満男性が眼鏡をクイッとする。なるほど、どうやら画面のおかずを見ながらご飯を食べる作戦らしい。さながら彼の頭のなかは牛角にでもいる算段なのだろう。

 けど、しかし。

 この作戦がうまくいくはずがなかった。


「ダメだあ、観れば観るほど味がしねえ!」


 自爆。視覚効果がもたらす誘惑がかえって仇となり、大学生風男子、脱落。これで残り3組になった。

 大柄男性がせせら笑う。


「へっ、視覚じゃダメさ。〈エアおかず〉をやるにはせめて嗅覚よ」


 とはいえ、彼も余裕はなさそうだ。ひたいに玉の汗を浮かべ、表情には精彩がない。

 自分でも限界を悟ったのだろう。咄嗟にお冷やをご飯にぶっかけ、苦しまぎれのサラサラお茶漬け作戦を敢行した。考えられた案に見えたけど、これは良策とは云い難い。ただですらさりげない味しかない米飯に、水をかけるのは愚の骨頂だ。これでは炊きたての利点も失い、それこそ食べるのは困難だろう。

 予想通り大柄男性、ほどなくしてギブアップ。これでギリコと肥満男性の一騎打ちとなった。


「さあ勝負も大詰め、残り時間は10分です!」


 ここまで食べたお椀は同数。見る限りすでに両者ともペースは落ちている。僅かな差が勝者と敗者を分けることになる。

 すると突然、肥満男性が、


「悪いが冷房を切ってくれ」


 眼鏡をクイッとし、申し出る。外はしとしと雨、熱気冷めやらぬ会場はじっとりとした気温に包まれている。自身もひたいに汗しているのに、冷房を切れとはどういう了見か。運営側はしばらくこの申し出を協議し、やがて結論が出たのか司会者に耳打ちする。


「要望に応じ、冷房を切りました。なお協議で中断された時間はアディショナルタイムとして加算します」


 律儀にアナウンスし、勝負は再開された。再び時計の針が動き出し、ふたりは箸をかまえる。

 ここで思いもよらないことが起こった。もはや胃袋の底見えたとばかり、食いつき悪くなっていた肥満男性、


「これはどうしたことか。肥満男性、猛烈な勢いでご飯をかき込んでいる!」


 驚く司会者。目を見開くギャラリー。ギリコも突如息を吹き返した対戦相手に面食らい、慄然としている様子。

 終盤にきて、なぜ肥満男性は食欲を取り戻したのか。

 これに勘づいたのは、大柄男性だった。


「わかったぞ、彼が突如としてダイソンの掃除機のような食いっぷりを見せた理由が!」


 会場にいる者すべてが彼に注目した。真相はいかなるものぞと、緊張と不安を募らせるギャラリー。

 束の間の静寂を破り、大柄男性が指を差した。


「彼の顔面を見ろ、あの大量の汗を。彼は自分の汗を飯にふりまくことで、塩味をくわえているんだ!」


 なるほど、だから大量の汗をかくために冷房を切ったのか、と関心している場合ではない。この種あかしには会場のあちこちで乾嘔の悲鳴が轟いた。もはや身の毛もよだつ不快さに、会場のSAN値がゴリゴリ削られていく。


「ふん、いつからおれが怠惰や夜食で肥っていると勘違いしていた? すべてはこのときのための戦術よ」


 ドヤ顔で眼鏡クイッとする肥満男性だったけど、その言葉を鵜呑みにする者はいなかった。

 ともかく残り3分にして、ギリコは肥満男性に引き離されてしまった。

 焦るギリコ。このビハインドを追いつこうと必死に食らいつく彼女だったけど、時間は少ない。なにより食い気は限界に達している。懸命に箸を持ちあげるも、動作が重い。脳が拒絶しているのだ。肥満男性のように秘策を講じなければ、形勢を逆転するのは不可能だろう。なにか、なにかギリコにアイデアでもあれば……。

 無力だ。目の前で友人が苦しんでいるというのに、圧倒的無力感に支配される。なにもしてやれない自分が、いつにもましてみじめだった。やはり私は、ただへんなにおいを巻き散らすだけの陰キャで終わるのか。


 ――へんなにおい……?


 私の脳裏に天啓が走った。まさに起死回生の着想が、閃光のようにほとばしる。

 しかし、この思いつきを実行するためには、ただならぬ勇気を要する。はたして私にできるだろうか。

 否、やらなければならない。私の悩みを嘲笑もせず、真摯に約束をかわしてくれるギリコのためにも、強い意志を持って挑むことができなければ、それこそダメなニンゲンに成り下がってしまう。

 もはや足は自然と踏み出していた。ギャラリーの突き刺さる視線もはね除け、悠々とギリコのもとへ歩みよる。スタッフが慌てて私を捕まえようと近づいてくる。それにかまわず、私はギリコの眼前に堂々と立った。


「諦めちゃダメだよ」


 目をまるくし、ギリコはサメの口をあんぐりとさせている。


「ギリコ、まだ戦えるでしょ。ここで諦めるようなあなたじゃないでしょ?」

「すまない。米の飯だけを食うのがこれほど困難なことだとは知らなかったよ」

「おかずがほしいんだね。なら、私がおかずになってあげるよ」


 深く息を吐き、やおらアクシーズファムのブラウスに手をかける。ゆっくり丁寧にボタンをはずしていき、全開にする。そうしてボクサーがかっこよくガウンを脱ぎ捨てるように、派手にブラウスを放り投げた。

 商店街にスポブラ姿の女子高生。ギャラリーちょっと『おっ?』となるも、残念ながら私が提供するのは萌木の瑞々しい色香ではなく、へんなにおいだ。

 徐々に異変に気づく会場。そりゃそうだ。冷房を切ることで倍増したのは肥満男性の汗だけでなく、私の蒸れっ気もなのだ。


「な、なんだこの得も云われぬ芳香は!?」


 たちまち会場全体が動揺しはじめた。


「おおーっと、これはどうしたことか。この大食い大会特設会場が謎の異臭に見舞われているーっ!」


 司会者のマイクパフォーマンスも冴える。んなこと実況しなくてよろしい。

 こうなればもはや、怖いものなし。なんの恥じらいもなく、私は私のすべてを解放する。


「ギリコ、これでご飯が進むでしょ。さあ、おもいっきり食べて!」

「おまえってやつは……。ありがとな、これであと100杯は食えるぜ」


 私の激励に応えるよう、ギリコが再び輝きだした。錆びついた箸にジェットエンジンが搭載され、動作は音速を超えた。


「待ってくれ、こんなにおいのなか飯が食えるか! おい審査員、どうなってやがるんだ?」


 肥満男性が悲痛にさけぶ。けど、無情にもそのリクエストは認められなかった。彼の一度〈冷房を切る〉という要望を叶えている運営に、2度目のVARはない。それに彼も自分の汗をおかずに飯を食うという、非紳士的行為をかましている。お互いさまだ。

 いまや会場は阿鼻叫喚の大パニック。隅っこでゲロを吐く者も現れ、まるで映画『スタンド・バイ・ミー』のブルーベリーパイ早食い競争のシーンを地で行く、伝説的光景を紡ぎ出していた。

 この異様な空間に平然としていられるのは、私とギリコのふたりだけ。つまりラストマン・スタンディングは私たちだ。


「ここで肥満男性、失格! 残り時間1分を切ったところで、無情にもゲロってしまいました。失格です!」


 かくして、今年の大食い大会はギリコの優勝で幕を閉じた。


「やったねギリコ。私は絶対ギリコなら勝てると信じてたよ」

「おまえのおかげだけどな。けど勝ててよかった。これでおまえが行きたがってた水族館へ行ける」


 地獄絵図と化した学習塾を背景に、私たちは小雨降る商店街をさわやかに去っていったのだった。




 いま私たちは苦難を強いられている。過酷な大食い大会を勝ち抜き、やっとの思いで掴み取った賞金で、念願の水族館へ電車を乗り継ぎはるばるやってきたわけだけど、その門前で気概を削がれてしまった。


〈カグラザメしんじゃった〉


 正面玄関の前。設置された看板に、なんとも拍子抜けした告知。この文言が『いらすとや』で拾ってきたようなゆるい絵とともに表記されていたのだから、脱力感は著しく。

 注釈に目を凝らすと、カグラザメは2週間ほど水槽内での展示を経て、あくる日の朝に動かなくなったそうな。

 これぞ出鼻をくじかれる。思えば深海ザメの育成の難しさを鑑みれば、この結果は予想できなくもなかった。けど、いまさらそれを云ってもしょうがない。現実にもう、カグラザメはしんじゃったのだから。

 さて、これからどうしたものか。

 私はうねうねしてもいない前髪をもてあそびながら、ギリコを振り返る。


「ねえ、ギリコ。いますぐ私を食べる気はない?」

「急になんだよ。食うタイミングは私がきめていいはずだろ?」

「目的もなくなっちゃったし、もう思い残すこともない。この辺で終わりにしてくれてもいいよ」


 次々と客が好奇の眼差しで私たちに一瞥し、通りすぎていく。痩せっぽちで年頃よりもちっちゃい私と、初夏にバーバリーのマフラーをコーデする193センチのギリコとの取り合わせ。水族館の入口で、ひとの流れを憚らずに棒立ちする妙なふたり組を、関心と侮蔑の色合いでもって睨めつける。

 そんな周囲にほんのぽっちの配慮も示さず、ギリコはマフラーをずり下げ、サメの亀裂を剥き出しにする。


「いや、おまえはまだ食べない。だって、いまのおまえは食うところないだろ」


 私はハッと胸を突かれ、まじまじとギリコを見上げてしまった。そんな私にギリコも態勢を直し、真上から見つめてくる。

 両肩に手を添え、それはまるで愛をかわすように、


「私に食われたかったらな、もっとうまそうになれ」

「ギリコ……」

「だから生きろ。生きて食って、食いまくるんだ」


 そうしたら食ってやるよ。

 言下にくるりと背を向けて、足早に去っていく。それが私には照れ隠しに思えて、なんとも華やいだ気分に浸った。


「生きて食え、か」


 私はひとりごち、思考する。ギリコの云うように、このまんまでは約束の前にいずれ餓死する。それを拒むためには、やはり食事をとらなければならない。

 忘れかけていた感情が、色彩を帯びて広がっていく。徐々に鮮やかに、それはまばゆい虹となって、私のなかを照らしだした。

 そうだ、試しになにか食べてみよう。ギリコみたいに、まずはコオロギでも食べてみようかな。

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