渇望ノ夢

 伊槻絢子いつきあやこと出逢ったのは、十三夜のことだった。


 塾からの帰り道、急性の吸血症状を発症した私は、一緒に帰ってきた女友達を襲ってしまいそうになった。その帰路の出来事や通報を受けてからの記憶は、ほとんどない。錯乱していたのだろう。景色を思い出そうとすると強烈な眩暈がした。医者は「無理に思い出さなくていい」と言った。診断が下り『吸血症』持ちであることが判明すると、即座に望月学院に入寮することになった。


「貴女が鵜月彼方うづきかなたさん?」

 担当医は、飾り気のない細身の女性だった。片手を白衣のポケットに突っ込んだままで、流暢に説明を述べた。


「貴女は吸血性患者の中でも変異体なの。吸血をしてもされても灰にならない。その分、衝動は頻繁に起こるんだけど。私がついてるから大丈夫」

 鎮静剤の投与のせいで、些か頭が呆けていた。そういえば昨日か一昨日の昼に、私はここに運ばれてきたのだったか。

「これから貴女の担当医になる伊槻よ。よろしく」

「よろしく?」

 私は何故か無性に苛立ちを感じていた。

「そっちが勝手に連れてきたんだろ」と突っぱねた。訳もわからないまま、訳のわからない施設に運び込まれた不安の裏返しだったのかもしれない。

「モルモットになるつもりは無い」

「ふふ、猫みたい。かわいいわね」と彼女は言った。かわいい?そうはならないだろ。と半ば虚を突かれたような面持ちで、変わった人だな、と視線を向けた。

 彼女は、真っ直ぐに伸びた金髪が特徴的だった。こちらを見つめる目は柔らかくどこか理知的で、見るというより観られている、という感覚が湧き上がる。


「あまりじろじろ見るな」

「見るわよ」

「何で」

「貴女の担当医だもの。私」

 薄く紅を載せた形の良い唇が、上向きの三日月を象った。整然とした返答に視線を逸らしたのは抗議のつもりだった。彼女は何も言わなかった。警戒しながらもう一度視線を戻すと、目が合った。


「心配かもしれないけど、大丈夫よ。私がついてるから」

 彼女の伸ばした手が、私の頭をやさしく撫でようとした。私は反射的に頭を反らした。触られたくなかった。

「やめろ」

 しかし彼女はお構いなしに、私の頭に触れてきた。

「やめろって言ってるだろ。噛むぞ」

「だめ」

「何が」

「安静にしていないと。だめよ」

 それはそっちが、と反論しようとして。

 私は彼女の手首を掴んで、歯を立てた。

「っ……」

 たじろぐ彼女の表情を見て、私の口端が吊り上がる。やめろと言ったのにやめないからだ。


 しかし彼女は、一瞬狼狽えたような顔を見せただけで、落ち着き払っていた。どこか諭すような瞳で私を見つめている。微かに笑みを浮かべているようにも見えた。その態度がどうにも癪しゃくに触って、私は噛みつく力を思い切り強めた。


「……っ、鵜月さん」

 痛みに耐えるような顔をしながら、彼女は言った。

「吸っていいわ。好きなだけ」

 その言葉に、私は強い反発心を覚えた。

 じゅ、と唾液を吸い込む音を態とらしく立て、彼女の手を離す。吸血を中断したので血は出ていない。終始、擁護するような眼差しを向ける彼女。わけが判らなかった。彼女の向ける視線の意味も、言葉の意図も。

 眉根を寄せたままで私は言った。

「何で」

 ……そんなこと。

 知りたがる言葉が、憤りを伴って滑り落ちた。疑問文にもなっていない私の問いを、彼女は寛容に受け止めた。

「貴女の担当医だから」

「……答えになってない」

 こちらの見つめる瞳の奥に、彼女がどんな感情を抱いているのか、読み取れなかった。

「貴女が噛んでも、私なら平気だから」

「灰になっても知らないぞ」

 ならないわ、と彼女は言った。私はそれをただの反論だと思った。根拠のない自信は、一体どこから沸いて出るのか。


 しかし彼女は正しかった。

 

 発作を起こして錯乱する私の部屋に彼女が呼ばれた。彼女と二人きりになる。彼女は私を心配そうな目で見つめていた。その憂慮を孕む、奇異なものでも見るような視線が、私は気に入らなかった。途端に腸が煮えくり返るような憤りを覚え、腕に繋がれた点滴が外れるのも構わず、私は彼女に突進する。

 鋭い痛みが腕に走る。

 ガシャン、と点滴が繋がれたキャスターが無機質な悲鳴を上げた。

 そのまま彼女を床に押し倒す形になって、私は彼女の首を締めようとしていた。


 彼女の澄んだ瞳を見下ろす。

 何もかもを肯定的に受け入れるような、慈悲を持つ瞳が、私を見つめていた。


 やめろ。


「見るな」

「鵜月」と彼女は言った。彼女の声など聞きたくなかった。


「私の前から消えてくれ」

 彼女の細い首にかけた手に、ぐ、と力が籠もる。彼女は短く息を漏らした。

 いやだ。

「鵜月」

 と彼女は言った。

「いやだ」

 と私は言った。


「どこにも行くな」

 それは私の声だった。


 ……矛盾している、と思った。

 溢れる感情が、私を突き動かしていた。

 私は彼女の首を締める力を強める。彼女は抵抗するように、私の手首を弱々しく掴んだ。


「私を一人にするな」

 私は彼女に懇願していた。

 なぜ私はこんなことを?


 ……。

 判っている。判っていた。

 拭いきれない孤独を、彼女に受け止めてほしかったからだろう。


「……にいる」

 彼女は締められる気道の隙間から、小さな声を絞り出した。

 薄っすらと開いた彼女の瞳と目が合った。


「ずっと、……一緒にいる」


 その言葉が、私はずっと欲しかった。

 衝動的に湧き上がる情念を、もはや自制などできるはずもなかった。


 欲しいと思っても手に入らない。手を出せば灰にしてしまう。

 吸血症という病が、私をどこまでも苦しめていた。

 私は首を絞める手を緩めて、彼女の首元に顔を埋める。


「なら」

 彼女が。

 彼女だけが。

 今は、孤独を癒やしてくれる存在だった。


「ずっと、一緒だ」


 そう言って、私は彼女の首筋に歯を立てた。

 甘くて、懐かしい香りがする。


 ──もし私が、普通の女の子だったら。

 澱んでいく執着心も、底知れない孤独も、知らないままでいられただろうか。

 

***

 

 彼女の血を吸った後、目を開けると、そこには変わらず私を見つめる彼女が居た。吸血性患者が吸血をした相手は、灰になってしまう。そういう掟だったはずだ。


「どうして」

 平気なの、と私が尋ねると、彼女は言った。

「私は貴女と同じなの」

「同じ?」

「私も貴女と同じ、変異体なのよ」

 その告白を聞いて、ただ目を瞠るだけの私に、彼女は微笑みを浮かべて言った。

「だから、灰にはならない。どこにも行かない」

 その瞳には、私が映っていた。

「ねえ、鵜月」と彼女は言った。

 細長い腕で私を引き寄せ、私の無防備な首筋に顔を近寄せた。


「──私も、貴女が欲しいわ」


 彼女は、私の首筋に歯を立てた。


 それから私達は、お互いの孤独を埋め合うように、何度も血を啜り合った。

 窓の外で、丸い月が炯々と光り輝く。


 真冬の晩のことだった。


***

 

 ……ある日の保健室。


「おかえり伊槻」

 扉が空いて、白衣を身に着けた彼女が入ってくる。肩掛けのバッグと両腕に抱えた書類。吸血症患者かつ吸血症研究員として学院と研究機関を行き来している彼女の忙しさは、出逢ったときから変わらない。部屋で会うときも、保健室で会うときも、彼女はいつも白衣を着ていた。透き通る金髪をさらりと流しながら「ただいま鵜月」と彼女は言った。

 以前、彼女に歳を聞いたら、二十代後半だと言っていたか。制服を着てしまえば、少し大人っぽいだけで私達に紛れてしまえそうだと思う。


「……貴女。また女生徒を誑らかしたんですって」

 不意の問いに私はやや面食らった。

「聞いたわよ。二年の雛森結さんが発作を起こして灰還したって」

 その名前を聞いて、私は「ああ、雛森か」と言った。


「あの子、灰還作用のこと知らなかったよ。ちゃんと指導してるのか?」

「……知らせていない場合の安全性を調査していたのよ」

 溜め息混じりの声色に、困惑めいた表情。呆れているのか。

「だけど貴女にも言っておくべきだったわね。悪戯に他の生徒に手を出すのはやめなさいって、何度言ったら判るの」


 望月女学院に通う女生徒は、全員吸血症の患者だ。発症の確率は個人差があるが、満月の夜に発作を起こす可能性を鑑み、寮生活を強いられている。


 なぜなら吸血症患者が吸血した相手は、たちまち灰になってしまうからだ。一方で、七日後に吸血者本人も灰になっていく。段々と身体機能が壊死していくさまは、本人にとっても絶望的だ。人間の形を保っていこそすれ、一六八時間後には、一瞬で灰となって消えてしまう。「禁句」を口にしないように学生生活を送っているのは、各々がその危険性を熟知しているからだった。


 吸血症は、一般的に高校三年生──十八歳の誕生日を迎えたと同時、治まっていくという性質があった。無事望月女学院を卒業して、今では普遍的な日常を営んでいる卒業生も多くいる。


 ──しかし。変異体と呼ばれる個体が、稀に存在する。


 同じ吸血症を患っていても、発症の頻度と衝動性が著しく高い。情緒不安定に陥りやすく、齢十八を迎えても治らない不治性があった。

 そしてもうひとつ、変異体は、吸血を行っても灰に還らないという特徴があった。

 仮に吸血症状を発症し、吸血行為に及んでしまったとしても、自身の体には何の影響もないのだ。

 つまり、ただ本能的な吸血行為による快楽や享楽のみを得ることができる特異体質の持ち主だった。


 暴走した変異体が学院を崩壊させてしまうリスクを孕んでいるために、変異体の一人である私は、保健室登校という体で伊槻絢子研究員──の監視下に置かれているのだ。


 かつ、彼女は私と同じ変異体だった。もし私が吸血症を発症しても、彼女ならノーリスクで私を抑えることができた。


 これまで聞いた話によると、判明している変異体はどうやらまだ彼女と私の二人だけらしい。私と出逢う前まで彼女はどうやって吸血症状を抑え込んできたのか。何かのタイミングで尋ねたとき、「自分を吸って凌いでいた」なんて回答が返ってきたか。

 理性の強い彼女だが、痛みに耐えながら自虐行為で快感を得る絵面が何となく想像できてしまって、すぐに納得した覚えがある。

 真似しようとは思わなかった。


 彼女と出逢ってから早二年。研究員として、先生として、パートナーとして彼女から注意を受けてきたことは数え切れない。


「しょうがないだろ。衝動なんだから」

「衝動?」と彼女は言った。「どう見ても計画性がある話にしか聞こえなかったけど」

 そう言って手荷物を整理し終えた彼女は、私の方に近寄ってきた。上体を起こしたままの私と向き合うようにして、彼女がベッドに腰掛けると、スプリングが軽く軋んだ。


「『〈吸血鬼〉の噂の話になって、鵜月さんが真実を教えると言った。からかわれているんだと思って後をついていった中庭で、告白の流れになった。彼女は禁句を口にしないと私に約束させたのに、彼女がその言葉を口にした』って雛森さんが証言していたそうよ」


「間違ってない」と言うと、彼女が私を見る目が僅かに据わった。

「『私を好きだと言ってくれたから、信用してしまった』と言ってたみたいだけど。騙したの?」

「騙してなんかない」と私は言った。

「彼女に好きだと言ったのは事実だよ」

「へえ」と彼女は薄い唇を吊り上げた。

「好きだったんだ。告白して油断させて、血を吸いたくなるくらい?」

「どうかな」と私は視線を逸らした。その推論は当たっているようで、外れていた。彼女の視線を受け流して私は言った。


「許せなくて」

「許せない?」

 シーツの上に波を作るその滑らかな手の甲に、自分の手を重ね合わせた。彼女の視線を、今度は真正面に受け止める。


「雛森が君を好きになることを、許せなかった」

「どういうこと?」と彼女は言った。

「雛森さんは貴女のことが好きだと言ったはずよ。それに貴女も彼女のことが好きだと」

「仕向けたんだ」

「え?」

「彼女が吸血したくなるように仕向けたんだ」

「つまり」

 彼女は長い横髪を耳に掛けて言う。

 常よりも鋭い眼光で私を見据えていた。

「貴女への好意を利用したってこと?」

「そういうことになるな、結果的には」

 そう返すと、ますます睨むような目つきになる。

「貴女を好きになるように仕向けたうえで、彼女を殺したの」

「そう」

「なぜ?」

「なぜって」

 私は瞠目した。

 ──邪魔だったからだよ。


 そう言おうとして、私は一度口を噤んだ。彼女が欲しがっている答えではないような気がしたからだ。他人にまつわる話で彼女の情緒を支配するのは、不本意ではない。

「……伊槻がいるからだよ」

「……。私が?」

 結論まで近道をすることにする。私は彼女の機嫌を取る有効的な方法を知っていた。

「伊槻が盗られるんじゃないかと思って」

 そう言うと、彼女は困ったように眉を下げた。ようやく合点がいったようだ。

「盗られるわけないじゃない」

「どうだか。彼女は保健委員で、君との接触回数も多い。よく人目の少ない時間帯にここに来てたのは、君との逢瀬を期待してたという可能性も考えられる」

「考えすぎよ」と彼女は深く溜め息を吐いた。


 吸血症を自覚して以後は、必要以上に同胞との接触を避けていた。吸血症を発症して、人を灰にしてしまうことを恐れていたからだ。しかし伊槻と出逢って、私は変わった。彼女というパートナーを手に入れ、私の心は安定し始めた。それと同時に、彼女を失うことへの不安を感じるようになった。


 だから彼女に気がありそうな女生徒には、同じような手口で近寄り、灰に還した。伊槻が私以外を好きになってしまわないように。伊槻が私から離れていってしまわないように。彼女達を灰に還すために、手段は問わなかった。


 今回も、同様だった。保健委員の雛森結は、人気のない時間帯に保健室を訪れた。偶然だったのか、それとも意図的だったのかは判らない。聞くまでもなかった。不安要素は、すべて取り除いてしまえばよかった。


 だから雛森結が私にあの質問をさせるように仕向けたのだ。彼女から例の噂について話題を切り出してくれたのは好都合だった。


「雛森さんは私じゃなく、貴女のことが好きだったのに」

 どうでもいい。伊槻以外から受ける愛なんてどうでもよかった。

 ……だが。

 私は素直に反駁できないでいた。雛森結と話をするのは嫌いではなかった。私のことを本当に好きでいてくれたなら、それは純粋に、嬉しいことだと思えていた。


「……」


 もし、そうなら。彼女が私を好きでいてくれていたなら。私は、彼女を殺したことを後悔してしまいそうだった。彼女を愛惜する気持ちが微塵もないわけじゃなかった。


 きっと、私は彼女のことも好きだった。

 だって、そうでもなければ。

 灰になっていく彼女を見て謝ってしまった理由が、見当たらなかった。


 ──それでも。

「もし仮に、私と彼女が両想いだったとしても」と私は告げた。

「私が伊槻を想う深愛には到底、匹敵しえないよ」

 そう言うと、彼女は戸惑いの表情を少しだけ緩めた。

「……それは」

 案外、彼女はこういう駆け引きを楽しむ癖があった。

 私に灰還させられた女生徒を心配するふりをして、私の心の中に彼女が一番に君臨していることを、心の奥底で実感したがった。

 彼女の悪癖を知らぬふりをして、私は返した。


「この部屋で、伊槻と二人きりになりたかったんだ。ただそれだけ」

「……。やりすぎよ」

 勢いの欠けた口調でそう言うと、彼女は私の手を払い、ベッドから離れると事務机の方に向かった。うねる白いシーツの波を見ながら、彼女に言われた台詞を反芻する。


「あの子は私じゃなく、貴女のことが好きだったのに」。

 ……もしそれが本当なら、彼女は不幸者だ。


 彼女はただの吸血症患者で、私は変異体だった。もし同じ一般的な吸血症患者だったなら、もしかすると普通の少女達より幸せかもしれなかった。伊槻に愛執を覚えることもなく、最愛の人と結末を迎えられる選択肢が、常に与えられていたからだ。好きな人と終わりを迎えることができること。それは一般的な吸血症患者に与えられた権利だとすら思う。


 いくら望んだって、私は灰に還ることがない。ただ、私だけが取り残される。

 灰還していく彼女達のことが、私は羨ましかった。


 徐々に降りゆく春夜の帳。

 彼女と保健室を後にして、寮室へと戻ってきた。カーテンを閉める拍子に窓の外を見上げた彼女が、小さな感嘆の声を漏らした。


「見て、鵜月。きれいな満月よ」


 制服を脱ごうとした手を止めて、夜空を仰ぐ彼女の隣へと足を向けた。

 窓の外には、丸く大きな月が出ていた。

「──」

 ふと仰いだ彼女と、視線が絡み合う。

 近付いてくる彼女の顔を、私は静かに目蓋を閉じて受け入れた。


 死ねない身体で、貪り合う。

 朽ちることのできない運命を、甘美な血の匂いで塗り替える。

 噛んで吸って、貴女の血で、私を満たしていってほしいと思う。


 死なないと判っていても。きっと死ぬと判っていても。

 貴女を置いていったりはしない。


 ……ねえ、伊槻。

 灰に還ることができたら、どんなにか幸せだったろうね。



 深愛なる貴女と、私は朽ちていきたかった。

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少女倫理 塔間 晴海 @num6

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