ブラザー、死んだように眠れ

狂フラフープ

ブラザー、死んだように眠れ

「なあお前、この犬連れてけよ」

 週に一度訪れる叔父の家で、母の作った食事のタッパーを冷蔵庫に仕舞う僕の背へ向けて、なんとなしにその言葉は掛けられた。

 バロンは雄で、シェパードの純血で、とんでもない年寄りの犬だった。僕が小学校に通い始めた頃にはとっくに老犬だったから、少なくとも二十年は生きていることになる。

 本人曰く出来損ないの記者として海外の紛争地域を渡り歩いていた叔父は、どんな時もこの犬を連れ回していた。どこかの軍人から譲り受けた軍用犬なのだという話で、叔父が片足と利き手の指の半分を失う大怪我をしてこの町に帰ってきた時も、叔父はもちろん隣にこの犬を連れていた。

 毛並みはごわついていて、古傷がいくつもあって、いつも土埃を被っていた。血統書付きみたいな顔付きの癖に手入れの悪い雑種のような臭いがした。母も父もそれを嫌っていて、叔父の他にそれを好んだのは小学生だった僕ぐらいのものだった。

「なんで?」

 バロンを連れていく理由がわからなくて、僕は振り返って尋ねた。

「俺ももう、そんなに永くないだろうしさ」

 叔父はそんなことを言って笑った。明日にでも死にそうな老犬を差し出して言う、自分は永くないという言葉が何の冗談なのか、あるいは本気で言っているのか僕は判断が付かなくて少し言葉を詰まらせて話を逸らした。

「仮に僕が良くたってさ、バロンが叔父さんの側を離れないよ」

 バロンは今も叔父の横たわるベッドサイドで吠えもせず微動だにせず、まるで死んだように眠っていた。老犬であることを差し引いても、この犬は昔からこうだった。

「別に、今すぐ連れてけって話じゃねえよ」

 僕はバロンの餌皿に老犬用のドッグフードを入れてやった。それから水の入ったボウルを用意しながら言った。

「つまり、もしものときの話ってこと?」

 ようやく話の腰が掴めたと思った。叔父は万が一自分がこの犬を置いて死ぬようなことがあったときの話をしているのだと。

「いいや」

 だから叔父の口から明確にそれを否定する言葉が出てきたとき、僕は少なからず驚いたし戸惑った。

「もっとはっきりした話さ」

 僕は言葉を返せず、叔父は続きをすぐには口にしなかった。

 しばらくの間沈黙が間に流れた。


「犬たちは、この世界はどんな風に見えていると思う?」

 見かねたように叔父が問う。

 突然の質問は僕にはさっぱり意図が読めず、どう答えていいかさえわからないものだった。

「え?……さあ。どうだろう」

 犬たちの目に映る世界とは何なのか――考えたこともなかった。

「僕らと同じふうには見えていないだろうけど。犬はあまり目が良くないし」

 僕の回答に叔父は笑う。

「残念。犬たちは世界を見ていない。こいつらは世界を嗅いでいるんだ。世界の見え方、という考え自体が、俺ら視覚優位の人間本位なものの見方なのさ」

 その、そのものの見方、という言い回しも含めてな、と人の悪い笑みを浮かべる。まるでいじわるクイズだ。僕は少しむっとして言った。

「つまり、何が言いたいのさ」

「品種改良され軍用犬として訓練されたこいつらはな、お前が思うよりずっと頭がいい。断言してもいいが特定の分野では人間よりはるかに上だ」

 そう言ってから、急に真面目な顔になって続けた。

「人間が当たり前に思っている概念を、人間以外の動物が理解しないことを、動物が愚かで知能が低いからだと、人間は思い込んでる。時間なんてまさにそうさ。人間が時間なんてものがあると思う根拠なんて自分の目で見たからって理由ぐらいしかないくせに、それすら自分じゃよくわかってない」

「ちょっと待ってよ、どういうことさ」

 意味が分からなかった。僕は黙って聞いていられず口を挟む。叔父さんはしてやったりとばかりに笑う。

「ほうらな、わかってない。時間なんてないのさ。あると思うのは、お前が時計の針やテレビの時刻表示を見るからだ。そうやって誰かが作った時間を絶え間なく目にするから、それを時間と呼ぶだけなんだ」


 僕は少し考え込む。叔父さんがなぜそんなことを言うかなんとなく思い当って、手がかりを得た気がした。

「叔父さんは時計もテレビもない国で過ごして、そう思うようになったってこと?」

「まあそういうことだ」

 叔父は満足げに笑ってうなずく。そしてバロンの頭を撫でながら言った。

「こればっかりは体験しなきゃわからねえだろうけどな。ずっと意識しなけりゃ、時間も、日付もどんどん世界から消えていくもんだ。そりゃあそうだろう。一度忘れちまえば、暦なんてもんを自分の力で作れる人間なんてそうそう居やしねえんだよ」

「でも、暦が無くなったって、月や太陽が無くなるわけじゃないだろ」

 叔父は呆れたように首を振った。

「そういうもんが無くなる場所も、この世界にはあるんだ。内陸の熱帯雨林の部族なんかじゃ、一生に一度だって月も太陽も目にせずに人生を終える人間がたくさんいる。何十メートルも覆い重なった樹冠の下じゃ、昼と夜に大した違いはない。そういう場所では人間は時間なんて知らずに育つ」

 わからなかった。

 言ってることはなんとなくわかるけど、叔父が何が言いたいのかがわからない。

「その話が、一体全体バロンとどう繋がるのさ」

「だからさ。この世のすべての犬たちは、そういう場所で生まれ育つって話だよ」


 そうか、と僕はようやく叔父が言わんとしていることを理解した。

 眼の良くない犬たちは、太陽はともかく、月も星も知らずに育つだろう。僕たちは眼に見えるこの世界に、知らず知らずのうちにあまりの多くのことを学んでいる。時間、空間、その交わり。僕たちが当たり前だと思っている無数の事柄。それらのことを、目で見て生きていない犬たちは知る由もない。

 そして僕たちでは到底嗅ぎ分けることのできない臭いや、到底聞き分けることのできない音の世界で犬たちが学ぶ無数の事柄を、僕らはどうやったって知ることはできない。

 指先が老いた毛並みを掻き分けて撫でる。老犬は身体を少しだけ起こして、その首元を叔父の手にゆっくり差し出した。

 これほどに側に寄り添って生きていても、人間と犬とでは住む世界が違う。別の世界で生まれ、別の世界で育ち、別の世界で死んでいくのだ。

 それでな、と叔父が言う。叔父とバロンを隔てるものを、少しも感じさせない優しさで。

「生きるとか、死ぬとか、そういうことだって時間と同じなんだ。目ん玉でっかちの人間が、勝手に悩んで思い付いただけのことなんだ。でもな、犬はそれをもっとよく知ってる。だってそうだろ、人間が獲物を殺して、死をこの目で見てきた時間の何倍も何十倍も、犬たちは死を嗅いで生きてきたんだ。俺たちの御先祖様の猿なんかよりずっと、狼やその先祖は生き物の生き死にに寄り添って生きてきた」

 喋りすぎたのか、叔父は一度だけ咳をした。浅い呼吸で乾いた咳を。そして叔父は自分で自分のその咳を笑った。

「死ってのはな、匂い立つもんだ。いくつも嗅いだから、俺でもいくらかわかる。鼻の良いこいつはもっとずっと良くそれを知ってる。だからな。俺はもうすぐ死ぬよ。こいつが言うから間違いはない」

 駆け寄った僕を手で制して、代わりに叔父はサイドボードから取り出した使い込まれたリードをバロンの首輪に繋ぐと、もう片方の端を僕の腕に巻き付けた。

「でも。でも叔父さんはまだ死なないだろ」

「いいや、もうずいぶん死んでるのさ。バロンに聞けば、きっとそう答える」

 そして小さく口笛を吹く。

 バロンはふい、と叔父から顔を背けた。最後に叔父の指先をたったひと舐めだけすると、それ以降は一度も振り返ることなく、叔父にはもう興味などないかのように平然と僕に付き従った。

「……なんで」

「別れはもう済んだからな。まあなんだ。おまえにも世話になった。姉貴にもよろしく伝えといてくれ。バロンの世話は、全部わかるだろ?」

 やめてよ、という口の中の呟きが形になる前に、僕はバロンに引きずられて歩き出してしまう。起き出した叔父の手が背を押す。僕の後ろで玄関扉が閉まる。僕は叔父さんに何も言えなかった。バロンはまるでただの散歩でもするかのように迷いなく先を行くけれど、これがバロンの散歩道ではないことを僕は知っている。

 僕はなんだか裏切られたような気がして、ひどく取り乱して強くリードを引いた。

「薄情者! なんでだよ! お前それで良いのかよ!!」

 道端で声を上げる僕を周りの人は奇異の目で見て、それでも僕はバロンに言わずにはいられなかった。バロンが返事をしてくれるだなんて思っちゃいなかった。

 バロンは振り返り、ただ僕の目をまっすぐと見た。

 その眼を見たとき、僕は時間を嗅いだような気がした。叔父とバロンの過ごした時間が鼻の奥からにじむ気がして、なぜだか僕は唐突に叔父がほとんど死んでいるのだと理解した。

 今日生きていたのに、明日死ぬはずがない。だってあんなに元気そうに見えたと、そう思う僕の心よりずっと深くで、毎日ゆっくりと、少しずつ死んでいく叔父の姿が、頭のどこかで形を結んだ。

 僕は堪えきれず、膝を付いて顔を覆って涙を流した。バロンはいつものように、少しも鳴かず、微動だにせず、己の主に寄り添っていた。

 家に着いたバロンは庭の片隅を自分の居場所と定め、死んだように眠り始めた。僕はその場所にありあわせの材料で日除けと風除けを作ってやった。父と母に事情を聞かれて、僕は説明できずに言葉を濁し、次に叔父の家に行くときに返してくると果たす気もない約束をした。


 叔父はその日から三日も持たず、少し冷えた夜にあっけなく死んだ。

 その知らせを僕たちが受け取るよりずっと早く、その夜、バロンは一度も聞いたことのない遠吠えを、ただ一度吠えた。

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