幸福の箱

ハヤシカレー

幸福ノ箱


 あれは確か、私が小学校低学年だった頃。

 道徳の授業、その中で、教師がある課題を出したのだ。

【冒険の果てにある宝箱、その中身を考え作文しなさい】

 という課題。だけれどそれには条件があった。

 金銀財宝ではなく、例えば弟が生まれるだとか、例えば——そう、誰かの幸せだとかを中身にしろと言ったのだ。勿論強制じゃない。だが、もし宝を財宝にしたのなら、修正されただろう。

 確かに、道徳の心を身に付けさせる過程としては良い試みなのかもしれない。だが、その物語を現実とした時、それはあまりにも残酷なのではなかろうか。

 私は今になって思い出し、しばし絵空事に脳を沈める事とした。



———幸福ノ箱



 ある世界のある国の、そのまたある集落。

 そこで生まれた私は今、故郷から遠く離れたある島にいる。

 名を幸福ノ島という。

 その島には様々な試練が存在し、そして、その全てを乗り越えた果てには幸福があると言われている。噂では、それは金銀財宝なのだと言われていた。

 何故私がこの島にいるのかといえば、当然それは財宝を手にする為であり、

 何故財宝を欲しているのかといえば、それは友人の為である。

 私の友人はある時から死の病を患い、大人になる前に死んでしまうのだという。決して医療で治せないのではない。だが、私の集落に富豪と呼べる者は居ない。無論友人の家族もである。

 だから、財宝が必要なのだ。

 私と、友人の兄、そしてまた別の友。

 その三人で協力し、三人で、友人の為に財宝を持ち帰ろうと、友人に託されたただの綺麗な石を掲げ、そう誓い合ったのだ。


 けれど、やはり上手くはいかない。

 全てが順調に、誰もが幸せになれるとは限らない。結局、宝箱の元に辿り着けたのは私だけであった。私以外の二人は道半ばで倒れた——いや、死んだ。それは紛れもなく死であり、死は死以外の言葉で表してはならないのだろうなと、私は一つ、この旅を通じて学ばされた。

 だからこそ、私はこの宝箱の中身を持ち帰らねばならない。

 一人を救おうとして二人を失う。全く本末転倒ではあるが、その死を無駄にする事だけは許されない。

 だから、持ち帰る。必ずや友人を救う。

 そう決意して、一度その場で私は開く。

 幸福の箱を開いてみせる。



 中身は、

 空っぽだった。

 その中には、

 何も無かった。

 私は心にぽっかり穴が空いた気がした。



 ああ、そうか、そうなのか。と、何に対してかも分からない納得を繰り返す。錯乱じゃない、絶望でもない、なんなのだろうな、この思いは。

 と、

 途方に暮れていた時。

 何かが聞こえる。それは人の声だった。

 聞いた事の無い声、たった一人の笑い声が私の頭の中に響き渡る。

 今度こそは、納得する。

 幸福の箱は世界の中のたった一人の幸せだった。

 なるほどそれはとても優しく、きっと財宝を求める卑しき者を成長させるキッカケとなるのだろう。

 なる訳がないだろう。

 二人が死んだ。そして私達の前にも沢山の人々が宝を求め、試練の中で命を落としてきたのだ。

 誰も彼もが財宝を求めた。

 中にはきっと、ただただ金が欲しかった者も居るだろう、だがそれは悪じゃない。持ち主不在の宝を求めて何が悪いというのか。

 顔も知らない他人が幸せになったのだから、それで良いだろうと、この箱は私達の希望をまるでゴミであるかの様に捨てさせようとしているのだ。

 一人を救えず、二人を犠牲にし、そして、同じく私も——


 絶望の中で、意識を失いかけた時。

 私の視界の中央で石が光った。

 それは友人が私に託した石である。

 私はそれを見て、思い付く。

 この、偽善の箱に一矢報い、そしてまたここに訪れるであろう哀れな誰かを、私らの同類を救う手立てを、である。

 私は箱の中に石をそっと置き、閉める。

 まだ開かれず、閉ざされていたかの様に。

 あとは私がその辺の茂みにでも隠れ、それから息絶えれば良いのだ。

 そうすれば、あの石は金銀とはいかなくとも財宝となる。何故ならあの箱は世間一般からすれば幸福の箱なのだから、財宝だから箱に入っているのではない。あの箱の中身であるからこそ財宝なのである。

 そうして私は茂みの中で眠りにつく——死に絶える。

 私たちの死が、あの石が、いつかここに来る誰かの幸福となる事を願って——



———



 結局は他人の幸せを願いながら死んでいく。

 友人という他人の幸せを願い、

 名もしれぬ他人の幸せを呪い、

 同じく知れぬ人の幸せを願う。

 《私》は結局、自身の心が裏切られた事が許せなかっただけなのだろう。

 財宝を求めた者がそんな自分勝手な事を考えている時点で、きっと道徳的に正しいのはかつての教師なのだろう。

 けれど、それはあまりにも合理的過ぎる。

 矛盾して、自分勝手である事こそが人間であるというのに、人の心の穢れを人の心とは認めず、善意のみを心とするのは残酷だ。


 人は合理には生きず、感情に生きるのだ。

 

 思考している内に、何について考えていたのか分からなくなっていく。

 まあ、どこまで考えたって所詮は絵空事。

 追求しても、結局物語は現実ではない。

 《私》は居ない。誰も死んじゃいない。


 けれど、私は、《私》の死と行動が、私の心に何かを残すはずだと、そう信じ、願う。

 そしてこの文章を書き終える。

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