草原へ行く

尾八原ジュージ

草原へ行く

 昔、婚約者がうちに遊びに来たときに、「トイレ借りるね」ってリビングを出てったんだけど、ちょっとしたら廊下から彼女の声がするの。

「トイレの中が草原になってるから、ちょっと見てくる!」

 って。

 変な冗談言うな~と思って、おれは普通に本読むかして待ってたんだけど、待てど暮らせど彼女が戻ってこない。それでトイレの方見に行ったら、どこにもいないんだよね、彼女。トイレにも風呂にも、もちろんリビングにもいない。玄関はちゃんとチェーンがかかってるし、外に出られるような窓もない。だから絶対家の中にいるはずなのに、いないんだよ。消えちゃった。

 もうパニックでさ。で、なぜかそのとき、「誰かの家にワープしたんじゃ?」と思ったんだよね。それで共通の友達とか、おれの実家とかに連絡しまくったのよ。そしたら、

「何言ってんの? お前、婚約者どころか彼女もいないじゃん」

 って、皆その一点張りなのよ。

 いやいや、プロポーズまでした女が妄想なわけないじゃん。実際彼女、仲間内の飲み会で皆と話してたし、SNSのIDも交換してたし、婚約者紹介するって実家に連れてったときは、おやじもおふくろも妹も大喜びしてくれたのに。なのに皆が皆口を揃えて「そんなことなかった」って言うんだよ。

 それでおれのスマホ見たら、彼女の連絡先も、彼女の実家の電話番号も消えちゃってて見つからない。SNSもアカウント知ってるやつ片っ端から確認したけど、やっぱりどこにもいない。一緒に撮ったはずの写真も消えちゃってて、そこでようやくハッと気づいて部屋の中見たら、その日彼女が持ってたカバンとか、履いてきた靴もなくなってた。

 でもおれの記憶の中では彼女は確かに実在の人物で、おれのこと「りっくん」って呼んでて、一緒に箱根行ったり富士山登ったりしたんだよね。そんなのも全部妄想なのかって、そんなわけないと思うんだけど。

 でも全部消えちゃったんだよ。彼女の痕跡みたいなやつ、全部。

 それでおれ、一時期はだいぶ荒れちゃって。でも今は、カウンセリング受けたり薬飲んだりして、うん、だいぶ落ち着いたと思う。やっぱり婚約者なんていなかったのかなって、最近はそんな気持ちが八割かな。

 でもさ、今でもたまにうちのトイレ開けると、草原が広がってることがあるんだよね。

 白っぽくて狭い便所じゃなくて、緑の草原と青空がどこまでもどこまでも広がってて、草の匂いがして、涼しい風が吹いてさ。

 その風景の中に彼女が立ってて、おれに手を振るんだ。「りっくーん」って、にこにこしながらおれを呼ぶんだよ。

 そんなときは何も言わずに、すぐドアを閉めることにしてる。たぶん、病気のせいで幻覚が見えてるだけだからね。実際閉めてからもう一回開けたら、普通のトイレに戻ってるし。

 でも思うんだよね。これ、本当はおれが向こう側に行くべきシチュエーションだよなぁって。

 あの草原に行ったら皆おれのことを忘れちゃって、おれがいた痕跡とかも全部消えちゃうんじゃないかと思うと、ちょっと怖いんだけど。

 でも、彼女がいるならそれでもいいかな。

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