ハイボールがレモン味になる

いうせい秋

ハイボールがレモン味になる

 木下水咲にとって、神宮寺真姫はこの世で一番美しくて可愛い女の子である。それは間違いない。

 人の目を惹く容姿はテーブルにいる男子の視線を集めに集めていた。取り敢えずビールとハイボールで始まった飲み会だが、酒なんてどうでもよくなってしまい、神宮寺さんってさあという切り口で始まる会話を、水咲は開幕の二十分間だけでも八回ほど聞いた。向かいに座る男なんて、毎晩ストゼロを飲み干しては一限に遅刻するような酒カス大学生のくせに、今ばかりは建築科でそこそこ真面目に勉強している佐藤忠くんとして真姫に話しかけている。お前キャラ違うだろ佐藤、と思いながら、水咲は少し濃いめのハイボールを舐めた。もちろん楽しそうな佐藤の邪魔をするだなんて無粋なことはしない。水咲はそんなくだらないことはしない主義だ。

 真姫は今時珍しく、地毛の黒髪を大切にしている女子大生である。もはや茶色い髪の毛が当たり前になりつつある日本社会において、彼女は高価な日本人形のように美しい黒髪をふわっと巻いていた。その美しさといったら、並大抵の努力では維持できないレベルの髪の艶が最早眩しい。居酒屋の照明でさえ、彼女を照らす時は一級のレフ版にでもなっているかのようだった。彼女の黒髪に描かれるキューティクルを見て、水咲は目を細める。

 少ししたところで、誰かが頼んだフライドポテトと唐揚げの盛り合わせが届いた。唐揚げは鶏肉と蛸。テーブルの端の方にいる女子が、揚げ物の量を見るが早いか、届けてくれたスタッフにサラダを注文し始める。水咲はこうした場でありがちな、大皿から取り分けるタイプの料理が好きではない。

「神宮寺は経済だったよね。結構男多いけど、彼氏とかいないの?」

 突然、文学部の男子が慣れた様子で訊いた。彼の右手にある割り箸は唐揚げを摘まんでいて、可愛い子がいる飲み会に慣れてるな、と水咲は思う。初対面の真姫を、それもとびきり可愛い美人を呼び捨てにしているのも、今この場においてはこの男だけだ。なんという名前だっただろうか。確か、滝沢だか、沢田だか、そんな感じの名字だった気がするが。

「経済だよ。でも経済のことなんもわかんない。講義むずすぎて。寝ないだけ褒めてほしい」

「俺からしたら、経済学部ってだけで偉いけどな。そんなとこに入ろうと思ったのが凄い」

「文学部の方がすごいよ。私本苦手だから、多分そっちの講義全部寝ちゃう」

 真姫はそうやって会話を締めくくると、ポテトを三本つまんで口に運んだ。安い居酒屋にしてはまあまあ立派なフライドポテトだけれど、そんなことは水咲にとってはどうでもいい。オレンジがかったリップが良く似合う真姫の唇は、どちらかといえば薄い方だろう。水咲はこれまでの人生の中で、他人の唇の良し悪しなんて気にしたことがない。でも真姫はこんなのにも可愛いのだから、きっと良い形の部類に入るはずだ。ぷるぷるしているように見えるし、リップスクラブとかで丁寧に手入れしているのかもしれない。

 神宮寺真姫の名を、水咲は二杯目のハイボールを飲みながら脳内で反芻する。神宮寺真姫。じんぐうじまき。なんだか神々しくて、ちょっとやそっとではびくともしなさそう。そんな印象を相手に与える名前は、彼女の目を惹く容姿にぴったりだった。

 ちなみに水咲は、真姫のことをあまりよく知らない。辛うじて学部は同じ経済学部だけれど、関係は友だちの知り合い程度のものである。必修の講義で見かける可愛い女の子だと思っている。選択科目はなにひとつとして被っていないし、当然ゼミは違うし、今回の飲み会だって、水咲はドタキャンした別の学生の代理で来ただけなのだ。

 二回目の席替えで、水咲は真姫の隣になった。真姫がテーブルの一番端で、水咲が端から二番目の、人数が多ければ多いほど会話に入り辛い位置である。正面に座ったのはあまり喋らない男子だ。同じ経済学部だけれど喋ったことはないし、名前もわからない。

 こんな大衆居酒屋で飲み食いしているというのに、真姫の隣に座ると薄っすらと良い匂いがして、水咲はほんの一瞬だけ深呼吸をしそうになる。例え自分が同じ香水を使ったとしてもこんなに良い匂いにはならないだろう。可愛い女の子は大抵良い匂いがすると聞くが真姫は格別なのかもしれない。

「木下さんは、なんでこの飲み会に?」

 容姿から想像されるであろう声よりも少しだけ低い声で、真姫が尋ねる。

 なんとなく料理を食べる気になれず、適当にハイボールを舐めていたら、いつの間にかジョッキが空になっていた。そろそろ違うものでも飲もうかなと水咲がドリンクメニューを開いた瞬間のことだった。

 水咲はじんわりと緊張を覚えながら、できるだけ自然な様子に見えるように答える。

「え。代行だけど……来る予定だった子が来れなくなって。キャンセル料かかるから、代わりに」

「そうだったんだ」真姫のチューハイは、水咲が数え間違えていなければまだ一杯目だ。にもかかわらず、それなりにとろんとした目で、真姫は水咲に笑いかける。アルコールには弱いタイプなのだろう。

「誰か知らないけど、でも代行を木下さんに頼んでくれてよかった。やっと喋るチャンスできた」

「チャンス? なにが?」

「木下さんを見かける度に、話してみたいなーって」

 美姫の一杯目のチューハイがようやくなるなる。空になったグラスを端に避け、彼女は大皿に余るサラダを自分の皿に移した。酒より料理派なのか、美姫は以外と食べる。あまり人気のないタコの唐揚げはほとんどひとりで食べていたし、後から届けられたピラフに至っては、お茶碗大盛で二杯、なんでもない顔をして平らげていた。なのにすらっとしていて羨ましい限りである。

 そうだったんだ、以外の言葉が思い浮かばず、水咲は「そうなんだ。知らなかったかも」と曖昧な感想を述べた。

 水咲にとって、真姫はこの世で最も美しくて可愛い女の子だ。それは揺るぎない事実として水咲は認識している。構内で見かけたら今日も可愛いなと思うし、新しい鞄だとか服だとかを身に着けていたらどこのグッズだろうと気になってしまう。真姫が大学に着てくる洋服の中で、水咲が特定できなかったものは数着ほどしかない。

「水咲でもいい? 呼び方」

「なんでもいいよ」

 真姫の前にあったら小皿が空になる。大皿も空になっていて、彼女は空いた皿を片っ端からテーブルの端に寄せていった。

 すると、水咲と真姫の目の前には何もなくなってしまった。目の前に座る全然喋らない男子が気まずそうに取り分けたピラフを咀嚼している。食事に覇気もなにもないが、いつ視界に入っても覇気のない表情をしていた。水咲以上に、なぜこの飲み会に参加したのかわからない。

 真姫はを呼び、レモンサワーと濃いめのハイボールを注文する。水咲はなにか別のものを頼もうと思っていたが叶わない。真姫が注文してくれたなら、それを飲むべきなのだ。

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